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第11話 低湿地開発

 王都から来た箱馬車が、グレンウッド砦の前庭で止まった。扉が開き、官僚が降りる。続いて、道具を積んだもう一台の馬車。その横から、短い外套の女が現れた。歩く前提の服で、指には指輪――既婚者だと分かる。


 官僚は姿勢を正し、まず女に向き直った。


「カミーユ親方、本日はお時間をいただきありがとうございます。低湿地の委託開発を検討しているのですが、こちらは土木の見立てが心もとなくて。堤、杭、排水、盛土――王都の机上案が現地で成立するか、率直に見ていただけませんか」


 次に、若き、しかしまだ無位無官のオーウェンへ目を向ける。


「オーウェン君には、同じ場所を“農地として運用できるか”で見てほしいのです。水が引けば畑になるのか。人が住めるのか。毎年同じやり方で広げていけるのか。作って終わりではなく、継続できる形になるか――そこを頼みます」


 官僚は一度だけ頭を下げた。


「もしお二人の見立てが食い違ったら、その場で意見を述べてください。まとまらないこともあるでしょうけど、できれば現地で一本の判断にしていただけると助かります」


 カミーユは口元だけで笑った。


「ええ、分かったわ。無理なものは無理って言うし、できるなら“どこまでなら”って線も引く。期待しすぎないでね」


 オーウェンは一礼した。


「はい。現地を見て判断します」


 官僚はそれで十分だという顔をして箱馬車へ戻った。


「報告は帰着後で構いません。結論だけでなく、“なぜ成立しないか/なぜ成立するか”も添えてください」


 扉が閉まり、箱馬車は砦を出た。前庭に残ったのは、道具馬車と二人だけだった。


 カミーユは荷の固定を叩いて確かめた。測量杭、縄、簡易水準器、折り畳みの踏み板。


「じゃあ行きましょうか。建前は見積の補助だけど、実際は王都の案を現地で検証して、成り立つか成り立たないかを見極める仕事になるわね」


「馬車では湿地に車輪で入ったら動けなくなりそうですね。山寄りの境目を辿って、外から湿地側を見渡しながら探します」


 カミーユはオーウェンの靴を見た。


「その靴は街用の靴ね」


「……替えは持ってきていませんでした」


「あー、しかたがないけど、はまったら大変だから注意してね」


 馬車はゆっくり動き出し、山と湿地の境目へ向かった。


 道は途中から細い帯になった。山の硬い地面が終わり、薄い水面と草の海が始まる。境目だ。まだここなら馬車が通れるが、湿地に入り込めば立ち往生する。だから、誰もがそこを通り、道もその境目に出来ていく。


 カミーユが手綱を引いた。


「ここで止めましょう。これ以上は車輪が沈むわ」


 踏み板を下ろし、短い杭を打つ。ここから先に馬車は入れない。馬を馬車から外して休ませる。長めの紐を杭につなぎ、ある程度自由にさせる。


 境目を一歩外れると、足の裏の感触が変わった。踏んだ地面が遅れて沈む。泥が足首をつかむ。カミーユが踏み板を差し込むと、板の縁から黒い水が滲んだ。


「表面は草で覆われてるけど、下は水と泥だね」


 泥を握って離す。草の根が混じっているのか、ひもみたいに伸びて、手を離すと下の方へ引っ込んでいく。


「ゆるい粘土質で、踏んでも締まらないし、荷重を掛けると横へ逃げるわ」


 オーウェンも頷く。


「山の畑とは逆ですね。踏むほど形が崩れます」


 カミーユは水準器を一度見て片付ける。


「まず、排水で解決する案から行きましょうか」


 遠い水平線を指でなぞる。


「第一案は大規模排水。でもね、排水できる大河や海までが遠いの。ここから水を落とすには、水路を延々掘って、橋も護岸も要る。長期間の大工事になるわ。国家計画のスパンで考えるべきで、今すぐ片付く話じゃない。いつかはやるべきだけど、今日ここでの答えではないわね」


 カミーユは地図を開き、近くの細い川に指を止める。


「現状で排水先を作るなら、この小さな川に落とすしかない。でもこの川、水面があまり変わらないのよ。落差が取れないと、そもそも川に流れていかないわ。排水路を掘っても、水が溜まるだけになる。そうなると人が近づけない。農地以前の問題ね」


 次にカミーユは少し顔をしかめた。


「第二案。干拓。堤を作って排水して、水を入れない」


「堤の土は山側から――」


「土が足りないと思うけど、いちおう確かめましょうね」


 カミーユは踏み板の先で、そっと泥を押した。沈む。押し返してこない。押した分だけ、静かに形が崩れる。


「ね。上を締めても、下が締まらないの。地下水位が高い。干拓って『水を入れない』じゃなくて、『入らない状態を維持する』のが本体なのよ。でもここは下から滲み出してくる」


「水が滲み出しては乾きませんね」


「乾かない土地に堤を築いても利用できる土地にならないわ。堤ごと沈めば手直しが増えるし、手直しが増えれば費用もかかる。干拓計画は難しいわね」


 カミーユは息をついた。


「第三案。盛土で高さを作る。これなら水位が上がっても地面を残せる」


 オーウェンはすぐ首を振った。


「土が足りません。外から運ぶ量がものすごいことになります」


「そうなるわよね。土を運ぶ馬車が増えたら、境目の道が先がくずぐずに壊れそうね。道が使えなくなったら道を作る工事からしなきゃならない。……うん。王都の案は、どれもこの条件では成立しないわ」


 カミーユは湿地を見渡した。


「正直、こんな場所に人が住んでるとは思えないんだけど……」


 オーウェンも同じ前提で見ていた。だから次の光景は、二人にとって想定外だった。


 湿地の奥に、細い煙が一本立っていた。


「……煙が見えます」


「え、そんな奥に?」


 カミーユも目を凝らす。煙の根元は風を避ける位置だ。少し高い場所がある。そして草の海の中に、踏まれた細い筋の跡がある。


「道……あるわね。人が通った道よ」


「行きましょう。馬車は置いて」


 二人は道具袋を持って歩いた。道は狭いが、十分に通過できる幅がある。道を外せば足首が沈むけど。


 煙の方へ近づくほど、道は道らしくなっていく。しっかりとした乾いた土がみえて歩きやすくなる。風向きが変わって、煙が一瞬太くなった。


「近いわね」


 カミーユが、ほんの少しだけ横へ寄った。


 ずぼっ。


 音が遅れて来た。踏んだ瞬間ではなく、踏んだ“あと”に地面が諦めたように沈む。膝の下まで泥が飲み込んで、冷たい水が外套の裾に触れた。


「……あ、これは、まずいわね」


 カミーユは冗談めかして言ったが、足は動かなかった。動かそうとすると、泥が吸い付いて余計に沈む。


 オーウェンが反射で前に出る。


「掴まって――」


「止まって!」


 低い声が飛んだ。草むらの向こうからだ。


「土地を知らない人間が不用意に助けようとするな。一緒にはまるぞ」


 オーウェンは足を止めた。視線だけを向けると、濡れたズボンの若い男が一本の長い板を担いで立っていた。足元は、ちゃんと“踏める場所”を選んでいる。


「……すみません。彼女が」


「見りゃ分かる。そこから手を伸ばしたら、お前も取られる。まず板だ」


 男は短く言って、背後へ声を投げた。


「おい、板と縄! 二人来い!」


 返事がして、草の向こうから人影が増える。年寄りと、もう一人。三人とも、足の置き方が迷わない。踏む場所を知っている歩き方だった。


 彼らは板を渡した。カミーユの胸の前まで滑り込ませて、体重を板に乗せさせる。次に、縄を回して腰へ。


「息を吐いて肩の力を抜いて。引っ張るんじゃなくて、板に体を乗せて引き上げる」


 言われた通りにすると、泥の吸い付きが少しだけ弱くなる。数人が声を合わせて、板を少しずつ後ろへ引いた。


 ずる、ずる、と音がして、カミーユの足が泥から抜けた。最後は本人が転がるように板へ乗って、ようやく地面に戻る。


 カミーユは泥だらけのまま座り込み、息を吐いた。


「……助かったわ。ほんとに」


「礼はいい。ここは、道を外せば泥ばかりだからな」


 オーウェンは苦笑して頭を下げた。


「忠告、感謝します。……あなた方は、あの煙のところの方ですか」


「そうだ。用があるなら案内するよ。むしろ、適当に歩き回られると危ないからね」


 声に棘はなかった。あくまで“この土地の決まり”を言っているだけだった。


 案内されて進むと、道の両側に浅い溝が見えた。水がゆっくりと流れている。


「溝が生きてる……水がちゃんと流れてるわ」


 さらに、杭が等間隔で打たれている。板や渡った跡があり、縄が家と家の間の道に張られており、増水しても道の端を見失わない高さにある。


「水没する前提ね。安全まで組み込んでる」


 家は数件。村と呼ぶには小さい。だが家は同じ高さの盛り上がりの上に揃っている。偶然ではない。


 カミーユが息を呑んだ。


「……水面より高い。ちゃんと高いじゃない」


 オーウェンの視線が溝へ戻る。溝の脇が、わずかに高くなっている。高い筋が途切れず続く。


「掘った土を……道として積んでいるんですね」


 口に出した瞬間、線が繋がった。


 水路を掘る。水を逃がす。

 同時に、掘った土砂を盛って水面より高い地面を作る。増水のあとでも沈まない土地が残る。沈まなければ乾き、歩ける場所になり、畑が作れる。


 カミーユがゆっくり言葉にした。


「排水だけじゃなくて……排水溝を掘りながら土地を作ってるのね。外から土を運ばないで済む。だから続けられる」


 年寄りがこちらを見て立ち上がった。目がよそ者を警戒している。


「商人というわけでも無さそうだが、土地を見ているのか? ここじゃ地面は、水路から土砂を引き上げて“作る”もんだ」


 オーウェンは深く頷いた。


「……低湿地でも、この土地は住めるようになっているのですね」


「意外と畑の収穫はいいんだ。それに魚も取れる。慣れればそれほど悪くない」


「こういう方法があったとは。この方法を勉強して慎重に進めていけば、この国の食糧生産量をもっと増やすことができるかもしれない」


 カミーユがすぐ返す。柔らかい声だが、仕事の焦点は外さない。


「うん。王都に説明するなら、根拠が要るわ。何が“運用できる”って言えるのか、記録にしておきましょう」


「杭が等間隔です。杭が揃っているのは、同じ場所を繰り返し使っているから。縄は増水した日に道の端が見えなくなるからです。落ちても気づかれない状況を避けるために、縄で辿れるようにしている。つまり、安全も含めて運用の形になっています」


 カミーユは縄の高さを見て、静かに頷いた。


「ここはここなりにちゃんとしてるということね……」


 境目の道へ戻ると、馬の鈴の音が軽く聞こえた。馬を繋ぎ直し馬車に乗り込む。帰り道の足取りは、行きより軽かった。


 カミーユは泥を落とした靴を見下ろして、少しだけ笑った。


「答えって、王都の手法じゃなくて、現地のやり方だったわ。しかも、もう“継続できている形”になってる」


「僕もそう思います。広げ方の見当がつきました」


 カミーユは指を折らずに、普通に言った。


「年に十ヘクタールくらいなら現実的ね。実稼働を半年にするなら、人は百人くらいは必要。掘る人、盛る人、杭と板、縄と舟、運搬、教える役、点検。班で回すのがいいわ」


「開拓団ですね。人を固定して、毎年同じやり方で増やす。慣れてくれば僕の手も減って、開拓団だけで運用できるようになります、国で編成してもらうことになるのでしょうかね」


「ただ、最初の数年は赤字よ」


 カミーユは言い切るが、突き放さない。


「収穫が増える前に道具や設備を整える必要があるわ。増水のときには水害の被害対策という仕事もあるし」


「はい。最初の五年ほどは王国の支出になると思います。でも農地が増えて収穫が上がってくれば黒字に入る。運用が安定して農地が増えていけば、開拓団の費用は現在の規模のままなら収穫の一割程度まで下げられます、もちろん開拓団の規模を増やすことも可能です」


「残りは?」


「最終的には三割を税にとるとして、一割は開拓団に、一割は備蓄に回します。国の純収入は一割といったところでしょうか。縄、舟、杭、板、乾いた袋、予備の道具。増水の年でも作業を止めずに済むようにします。備蓄が積み上がれば、次の年も続けられる」


 カミーユは踏み板の縁を指で軽く叩いた。


「うん。それなら“工事”じゃなくて“経営”ね。あなたが現地に貼り付かなくても続く形にできる」


 オーウェンは黙って頷いた。自分がいなくても続く形にして初めて、土地は領になる。


◇◇


 オーウェンはその言葉を、ずっと覚えていた。


 その後、計画は毎年少しずつ前へ進んだ。最初の数年は支出が先に立ち、道具を揃え、人を集め、やり方を教え込むだけで終わる年もあった。それでも、溝を掘り、掘った土で土地を作り、杭と板と縄で安全を整える。やるべきことを積み重ねるうちに、開拓団は現場だけで動けるようになっていった。


 五年を過ぎるころから、収穫が支出を上回り始める。備蓄が少しずつ増え、水没の年でも作業が止まりにくくなる。十年を越えたころには、王都の官僚が数字だけでなく、現場の運営そのものを評価するようになった。功績の話が出てもおかしくない段階だ――そんなところまで、土地が育った。


◇◇


 そしてこれは、湿地帯の開発が始まって十年ほどたった頃の話。


 新しいグレンウッド邸の前庭は、雨上がりで柔らかかった。踏めば、靴底に土がくっつく程度に。


 そこに、しゃがみ込んでいる小さな影がある。幼いエミリアだ。スカートの裾は汚れて、指先はもう茶色い。石を並べて何かを作っているというより、泥をこねて、崩して、また丸めて――ただ夢中になっているだけだった。


 泥の山に指を突っ込み、ぎゅっと押す。横から水がじわっと滲んで、小さな水たまりができる。エミリアはその水たまりに指を入れて、くるくるかき回した。表面が光って、泥がとろりと流れる。


 オーウェンが近づくと、エミリアがぱっと顔を上げた。


「おとうさま。みず、こっち」


 言いながら、エミリアは泥の縁を指でなぞって、細い筋を一本つける。水がそこへ寄ってくるのを待っている。けれど筋は途中で潰れて、流れは止まる。水は、別の低いところへ逃げてしまった。


 悔しそうに、エミリアが唇を尖らせる。


 オーウェンはしゃがみ込み、指先で泥を少しだけ掘った。ほんの少し深く、ほんの少し先まで。水の行き先を作るだけの幅。


 水たまりの水が、ゆっくりとそこへ吸い込まれていく。細い筋が、今度は消えずに繋がった。


 エミリアの目がまん丸になる。


「……いった」


「行くよ。水はね、行き先が見えるとちゃんと行くんだ」


 エミリアは嬉しくなって、両手を泥に突っ込んだ。べしゃ、と音がして、せっかくの筋が崩れる。水はまた別の方へ逃げた。


 でも、エミリアは笑っている。壊して、また作れるからだ。泥んこ遊びは、失敗しても終わらない。


 オーウェンは、その小さな両手を見て、王都で聞いた声を思い出した。


――続けられる形に整える。


 前庭の風は冷たい。けれど、泥の上で動く水は、今日も止まらなかった。

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