第10話 魔素
白い天井は、情報が少なすぎて落ち着かない。
研究室の白なら、煤の粒と、薬品の染みと、誰かの指跡がある。ここには何もない。
だから余計に、頭の中の音が大きくなる。
エミリアは指先をそっと握って開いた。動く。痛みもある。痺れも薄く残る。
――動くのに、あの日の“動かされた感じ”が消えない。
魔石ベルトで自分の身体に魔力を流した瞬間。
意思が筋肉に届くより先に、別の命令が走った。背骨の奥に落ちてきた流れが、身体を勝手に曲げ、勝手に跳ねさせた。
自分の身体が、自分のものではない。
怖い、というより、腹が立った。
小さな怒りが、静かに熱を持つ。エミリアの中で、それはいつも“次の手順”に変わる。
――測る。
――分ける。
――確かめる。
手元のノートには、短い問いが書かれている。
――魔石が“空”になったとき、魔力測定器は何を示す?
測定器は、魔力の“あるなし”をそれなりに当てる。少なくとも皆がそう信じている。
けれど、強い魔力と弱い魔力で、針の振れが必ずしも一致しない。
それは道具が悪いのか。理屈が間違っているのか。――あるいは、見ているものが違うのか。
エミリアは目を閉じた。
病室の静けさの中で、ただ一つだけはっきりしている。
もう一度同じ失敗はしない。
手順をよく考える。見張りをつける。無理をしない。
そのための問いだ。
退院して研究室に戻ると、煤と薬品と紙の匂いが鼻を突いた。
机の上には器具が残っている。魔力測定器。遮光布。石英プリズム。黒鉛片。安い小魔石の箱。
「おかえり。……と、言うべき?」
入口にもたれて腕を組んでいたのはクラリスだった。軍服姿のまま、研究室の空気に馴染んでいる。
「来てくれたんですね」
「呼ばれたら来るって言ったでしょ。……それに、あなたが一人でやるとろくなことにならない」
「今日は、大したことはしません」
「“今日は”ね」
クラリスは机の上を一瞥して、軽く口笛を吹いた。
「で、今日は何? また“使い切り”?」
「うん。でも、前と理由が違う」
「理由?」
「前は、魔石の容量を知りたかった。今は――測定器が何を見てるか知りたい」
「針のやつ?」
「そう。石が空になった直後、針がどう動くか。光でチャージし直したらどう動くか。そこだけ」
クラリスは頷き、杖を机の端に置いた。
その杖の伝達路には指の腹ほどのくぼみがいくつかあり、そこへ小さな魔石を嵌め込める。クラリスが魔力を流すと、それに引かれるように魔石側も同調し、石の力も一緒に引き出される仕組みだ。
「じゃあ私は“空にする役”ね」
「お願いします。……クラリス自身が疲れない程度に」
「了解。私が空になるほど頑張ったら、しばらく戦えないからね。魔石研究でそれは割に合わない」
エミリアは安い小魔石を一つ選び、杖のスロットに嵌めた。
測定器を当てる。針が滑らかに振れて、ある位置で落ち着く。
「初期値、記録……はい」
「真面目だね」
「真面目にやらないと、また止められます」
「それは困る。見張り役の私が責任を取らされる」
クラリスが杖を脇腹に密着させる。呼吸が少し変わる。
小さな火球。連続。炎を線に伸ばす。最後は出力を少し上げる。
空気が温かくなる。金属皿が赤くなり、焦げた匂いが立つ。
火球の色が少しずつ薄くなった。
「……落ちてきた」
クラリスが言う。炎の“芯”が細くなり、途切れが混じる。次の瞬間、杖先で火がぷつりと切れた。
クラリスは杖を外して、スロットを指で軽く叩いた。
嵌めていた魔石は鈍い黒になっている。
「はい、終わり。――この石が空」
「石が空……」
「うん。私は空じゃない。空なのはこのスロット」
クラリスは肩で息をしながら笑った。
「戦場なら怖いのはそこ。“石が切れる瞬間”が読めないと、途端に手が鈍る」
「……なるほど。じゃあ今日は、その“切れた瞬間”をはっきり作るのが大事なんですね」
「そういうこと。はい、測るんでしょ」
エミリアはすぐ測定器を取って、スロット近くに当てた。
針が振れる。
そして――さっきより、ほんの少しだけ下がって止まった。
「……下がった。けど、これだけ?」
クラリスが眉を上げた。
「いや、もっと落ちるでしょ。石、完全に空だよ?」
エミリアは答えず、次の魔石をスロットに嵌めた。
同じ手順でクラリスに撃たせる。火球が細くなり、最後にぷつりと切れる。――石が空。
測定器を当てる。
針が振れて、今度は――さっきより、ほんの少しだけ上がった。
「……え?」
「え?」
クラリスが両手を広げた。
「下がりが低いのは、百歩譲って納得できなくもないけど」
「……」
「上がるってなんだよ。それは流石にありえないだろ」
エミリアは口を開きかけて、閉じた。
言い訳がない。道具の針が、現実の方を揺らしている。
「……もう一本」
「やる。いまのは、放っておけない」
三つ目、四つ目。
微妙に下がる石もある。ほとんど変わらない石もある。微妙に上がる石もある。
共通しているのは、どれも“空”にはなることだ。火が途切れる。芯が消える。クラリスの体感が一致する。
なのに針だけが、符号まで揺れる。
「……ねえ。これ、何を測ってるの?」
クラリスが小さく言った。
「魔力測定器って名前なのに、魔力の“空”と一致しないよ」
エミリアはノートを開き、迷ってから二つの言葉を書いた。大きく。
「量」
「状態」
「それ、何?」
「針が見てるのは“状態”じゃない。少なくとも、私たちが“使える”って感じるものとは一致しない」
「じゃあ針は嘘?」
「嘘じゃないかもしれない。嘘じゃなくて……別のものを真面目に測ってる」
エミリアは空になった魔石を見た。
出力は落ちた。火は途切れた。つまり“使えるもの”は減っている。
なのに針は、減らない。時々増える。
「……針が見てるのは、残っているものの“量”かもしれない」
「残ってる?」
「石が空になっても、石そのものは残る。……器は残る。でも“元気”が抜ける」
「元気って言い方、可愛いね」
「可愛くしたいわけじゃないです。説明しやすいから」
クラリスは笑いながら頷いた。
「でも分かる。私も寝てないと魔法が雑になるし」
エミリアは机の端、蓋つきの木箱に手を伸ばした。
以前、魔石のチャージで製作した装置だ。遮光箱ではない。光を“選ぶ”箱。
木箱の蓋を開けると、内側は黒く塗られている。余計な反射がない。
箱の上面には小さな窓があり、そこに石英プリズムが固定されていた。
外の光は箱の中で分かれ、青から紫――目に見えない端まで、細い帯になって奥の棚へ落ちる。
魔石を置く位置で、当たる光の色を選べる。
「……魔力充填箱」
エミリアが言った。
「チャージ箱。ここなら、青色から紫外線だけを当てられる。余計な光は遮って、必要な端だけ」
クラリスが覗き込む。
「ちょっと格好いいね、それ。……で、何するの」
「空にした魔石を、ここで戻す。戻したら針がどう動くかを見る」
「針が“元気”を見てるなら、上がる?」
「上がるはずです。……動かないなら、針は元気を見てない」
空になった魔石を二つに分けた。
一つは魔力充填箱の中、青から紫外線が当たる位置へ。
もう一つは完全遮光の箱へ――光を一切当てない比較だ。
時間が流れる。
待つのは苦手だ。けれど今日は待てた。あの白い天井の静けさが、まだ背中に残っている。
十分ほどして、エミリアは魔力充填箱から石を取り出した。
クラリスに渡す。
「少しだけ」
「少しね。少しなら楽ね。満タンを空にするのは、なかなか大変だけど」
クラリスが火を灯す。
小さな火球が――出た。弱い。けれど確かに出る。
「戻った」
クラリスが言う。
「ほんの少し。でも戻ってる。……やっぱこの色なんだね」
「遮光の方は?」
「試すよ」
完全遮光の石では、火球は出ない。出ても、魔石からの“補助”がほとんど乗らない。
違いははっきりしている。戻したのは、青から紫外線の方だ。
エミリアは測定器を取った。
まず遮光の石。次に、魔力充填箱の石。
針は――大きくは変わらない。
上がったとも下がったとも言い切れない程度に揺れ、しかも、石ごとの差の方がずっと大きい。
「……戻ったのに、針は変わらない?」
クラリスが眉をひそめた。
「いや、変わってない。……むしろ、さっき“上がる石”もあったし、もう何でもありじゃん」
エミリアは唇を噛んだ。悔しい、というより、整理が追いつかない。
だが、整理できないからこそ、分かってきたこともある。
「戻ったのは確かです。火が出た」
「うん」
「でも針は、それを見ていない。見ているのは――たぶん“残る量”」
「残る量」
「うん。出せる元気とは別の、残る何か」
クラリスは顎に手を当てた。
「ねえ。じゃあさ。使い切ったとき、魔力ってどこ行ったの?」
「……出たんだと思います」
「出た?」
「火球になって、熱になって、光になって……」
エミリアは言いながら首を傾げた。
「でも、針が数えるほど“長く”そこにいなかったのかもしれない。一瞬だけ出て、すぐ消えた、みたいに」
「火花みたいに?」
「はい。火花みたいに」
ここで、もっと正確な名前が喉元まで出かかった。
でも今日は出さない。観測から外れない。
エミリアは立ち上がった。
「……古い本を探します」
「急に」
「残る何かに、名前をつけた人がいるはずです。昔どこかで見た記憶がある……名前は忘れてましたけど」
「忘れられてるやつ?」
「たぶん。こういうのは、だいたい忘れられます」
地下書庫は埃と紙と革の匂いがした。
役に立たないとされ、棚の奥へ押し込まれた本が眠っている。
エミリアは題名だけを拾い読みしていく。
神、血筋、精神、器。
違う。欲しいのは、もっと冷たい言葉だ。測れる言葉。
薄いが硬い表紙の本が指に引っかかった。
題名は短い。
――『魔素』
頁をめくる。
魔力を「気配」や「才能」ではなく、物質とエネルギーとして扱おうとした痕跡が並んでいる。
そして、刺さる一文があった。
――多くの測定器は“魔力”を見ない。残るものの量だけを見る。
――魔力は、現れては消えることがある。
エミリアは息を止めた。
今日、自分が見た現象が文章になっている。
エミリアは本を閉じ、胸の前で抱えた。
「……残っている量の正体は、魔素」
勝利の宣言ではない。入口の札を見つけただけだ。
けれど入口が分かったからこそ、内部の広さが想像できて、背筋が冷える。
研究室へ戻ると、クラリスが窓際で腕を組んでいた。
エミリアが本を見せると、クラリスは題名を読んで首を傾げる。
「まそ?」
「魔素。……忘れられた言葉です」
「あなた、そういうの拾うの得意だよね」
「得意じゃないです。必要だから拾うだけ」
エミリアは机の上の測定器を指で軽く叩いた。
「これは魔力計じゃない。魔素量計だったんです」
「断言するね」
「今日の結果と、この本が一致します。針は“使える元気”を見てない。魔素の量――残る器の方を見てる」
クラリスは少し考えてから、指先をふわりと揺らしてみせた。
炎は出ない。空気が揺れるだけだ。
「……そういえばさ。魔力をほやーっと出しても、火にはならないんだよね」
「ほやーっと?」
「うん、ほやーっと。ある程度キュッとした場所を作らないと。そこが出来ないと、ただの熱っぽい空気で終わる」
エミリアは、笑わずに頷いた。自分の身体の感触の方が先に思い出される。
「……分かります」
言葉が、少しだけ重くなった。
「私、最初に火が出たとき――体調を整えた日に、全身全霊を指先に込めて……やっと、火種が付いたんです」
「……全身全霊」
クラリスが鸚鵡返しに言って、すぐに口元を緩めた。
「ごめん、笑ってない。想像できる。あなた、力が小さいもんね」
エミリアは肩をすくめた。否定はしない。
「あのときは“出す”っていうより……集めて、押し込んでた感じでした。集めることが必要なんだって、そのとき分かった」
「でしょ。キュッとする場所。芯。そこが出来るかどうかで変わる」
エミリアのペンが勝手に動き始めた。
集める。キュッとする。火種。
ただ出すだけでは駄目。ある場所に、ある濃さ。
「……境目がある」
ほとんど独り言みたいに言うと、クラリスが首を傾げた。
「境目?」
「出る/出ないが切り替わる境目。集めて、濃くして、そこを超えた瞬間だけ――火が付く」
エミリアは顔を上げる。
「……魔素転換点」
「また物騒な名前つけた」
「物騒じゃないです。必要な名前です」
クラリスは肩をすくめるが、目は真面目だった。
「じゃあ、その転換点を超えるのが魔法ってこと?」
「はい。たぶん。普通の魔法使いは“えいやっ”で一回だけ超える。あなたは、超える点を続けて出せる」
「えいやっ、じゃなくて……とととと、ってやつ? 確かに自分、そんな感じでやってる」
「そう。……それが薙ぎ払い。クラリス以外には、ほとんどできない」
エミリアはペン先を止めた。
集める工程が、毎回、人間の努力と訓練に依存している。
なら、それを道具に移す。
ただし、いきなり転換点には届かないだろう。
届かないなら、段を重ねればいい。
今日の針は“量”を示した。量は積める。積み上げて、転換点へ近づける。
「……機械で、できる」
「機械?」
「魔素を集める機械。濃くする機械」
クラリスは小さくため息をついた。
「作るの?」
「作ります」
「退院してすぐだよ?」
「すぐだからです。忘れる前に」
「怖いわ」
「見張ってください」
「はいはい。見張りますとも」
エミリアはノートの新しい頁を開いた。
見出しだけを書く。設計はまだ書かない。書き始めたら止まらないから。
「魔素圧縮器」
その言葉を見て、クラリスの顔がほんの少しだけ硬くなった。
戦場へ繋がる言葉だと、直感で分かるからだ。
「それ、完成したら……戦闘に使える?」
「たぶん使えます」
「お、おう」
冗談にして息を逃がしながら、二人は同じものを見ていた。
これは遊びではない。
窓の外で日が沈む。
光が消えると、魔石の“元気”もまた少しずつ眠っていくように見えた。
けれど眠っても消えないものがある。針が指した“量”が、それだ。
エミリアは静かに息を吐いた。
怖さは残っている。指先の痺れも残っている。
それでも、入口の札は見つけた。
魔素。
忘れられた言葉が、ここから先の現実になる。




