第9話 グレンウッド家
グレンウッド家の屋敷は、砦のすぐ近くにあった。屋敷というより、砦の付属施設に近い。敵国に隣接する国境地帯で、砦が最も大きな建物であり、人の出入りも物の流れも、すべて砦を中心に動いている。ここは最初から「辺境」であり、守備が仕事として固定されている土地だった。
当時のグレンウッド家は騎士爵家である。砦の守備を任されているため、王国から給料が出ていた。ただし、その額は「守備のために必要な支出」を考えると十分ではない。兵を雇う。武器と防具を補充する。馬を維持する。矢や網などの消耗品を揃える。砦の柵や門を修繕する。これだけで給料は簡単に消えてしまう。さらに国境では、平時であっても緊張が消えない。常に一定数の兵を抱えておかなければ、いざという時に間に合わない。結果として、家の経営は「大きく儲からないが、一定以上の支出が常に必要」という形になる。
当主アラン・グレンウッドは、砦を預かるにふさわしい人物だった。勇ましい言葉で人を煽るタイプではないが、必要な準備を怠らず、危険な状況を見れば引き際を見誤らない。砦の兵が彼を信頼したのは、戦闘が上手いからだけではない。戦闘の前後も含めて、「この人の判断なら、生き残れる確率が上がる」と感じさせるからだった。
しかし、どれだけ判断が正しくても、金と物資が不足していれば戦は続かない。アラン自身、それを痛いほど理解していた。戦闘で勝ったとしても、矢は減り、槍は折れ、馬は疲れ、負傷兵の手当てに薬が消える。補充ができなければ、次の戦いに同じ数の兵を出せない。砦の守備は「一回勝てば終わり」ではなく、「次の襲撃にも対応できる状態を保つ」ことが本質だからだ。
その現実を、家の内側から支えていたのが執事セバスチャンだった。セバスチャンはもともと流れ者だったが、読み書きと計算ができた。国境の砦では、読み書き計算のできる者は貴重である。領主がどれほど誠実でも、書類が作れず、勘定ができなければ、支払いも契約も成立しない。アランが若い頃、砦の外れで倒れていたセバスチャンを保護し、雇ったのは運だったが、その後の家の運営を考えると、家の命綱になった。
セバスチャンの仕事は、派手ではない。支出の記録をつけ、納入品の量と質を確認し、支払い時期を調整する。必要な物資を、必要なタイミングで、必要な価格で確保する。特に砦では、輸送が止まればすぐに生活が崩れる。だから彼は「どこが止まると致命的か」を常に意識し、それを家の子どもたちにも教えようとした。
オーウェンがまだ幼い頃、グレンウッド家は砦の近くの小さな家だった。戦闘の様子が見える位置にあり、戦場から戻る負傷兵の姿も、門の閉まる音も日常だった。オーウェンが戦を「恐ろしいもの」として理解したのは、血の色や叫び声だけが理由ではない。戦が起きるたびに、屋敷の食料と金が減っていくのを見ていたからだ。兵を雇うだけで家が貧しくなる。その貧しさが続けば、次に守れなくなる。オーウェンはそれを、子どもなりに筋道として理解してしまった。
ある夜、オーウェンはセバスチャンの机の近くで帳簿を覗いていた。そこには、武器の数だけでなく、薪、麦、豆、干し肉、塩、油、馬の飼い葉、蹄鉄、薬草といった項目が細かく並んでいた。オーウェンが見ても、どれも「兵が生きて動くために必要なもの」だと分かる。
セバスチャンはオーウェンが帳簿に興味を持つことを内心歓迎した。椅子を引いてオーウェンを隣に座らせ、静かに質問した。
「若旦那様。戦に勝つには何が必要だと思いますか」
オーウェンは少し考えたあと、砦の子どもとして素直に答えた。
「強い兵と、良い武器だと思う」
セバスチャンはうなずいた。
「その通りです。ただ、それだけでは足りません。強い兵も良い武器も、維持するための金と物資が要ります。金と物資が尽きれば、強さは続きません」
オーウェンは黙った。
「兵が動くには、食べ物が必要です。馬を使うなら飼い葉が必要です。寒ければ毛布が必要です。矢は使えば減ります。薬は使えば無くなります。こうしたものを切らさないことが、国境の守備ではとても重要です」
セバスチャンは帳簿をめくり、在庫の欄を見せた。
「ですから、あなたが将来この家を支えるなら、剣のことだけではなく、畑と倉のことも学ぶ必要があります。畑が増えれば食料が増えます。倉があれば保存ができます。保存ができれば、戦が起きても、戦い続ける事ができます」
オーウェンは小さくうなずいた。
「戦に勝つには強くなる。それは正しい。でも、強さを続けるには食料と金が必要。……そういうこと?」
「はい。戦というものは、そこを理解していないと、勝っても負けます。勝っても次がなくなるからです」
十歳の春、オーウェンは屋敷の裏に小さな菜園を作り始めた。最初は家の者も村人も「子どもの趣味」くらいに見ていた。だがオーウェンは、遊びで終わらせなかった。土を耕し、石を取り除き、種を蒔き、芽が出なければ理由を考えて手入れを変えた。虫が出れば対策をする。水が足りなければ運ぶ。畑は、努力をした分だけ必ず増えるわけではないが、手を入れなければ確実に減る。オーウェンはその単純な事実を、体で覚えていった。
十二歳になった頃、彼は「水が足りない」ことが一番の問題だと気づいた。雨が降れば一気にぬかるむのに、晴れが続くと土がひび割れる。作物の出来が安定しないのは、土の質より水の扱いが雑だからだ。そこで彼は、畑の端に溝を掘った。雨水を逃がすだけでなく、乾いた時に畑へ回せるよう、流れ道を整える。
最初の溝は崩れた。雨一回で土が流れて埋まり、結局、水は別の場所に溜まった。次の溝は詰まった。泥が溜まり、流れが止まった。オーウェンはやり直した。溝の角度を変え、底に石を敷き、詰まりやすい場所を広げた。水は命令して動かせないが、流れやすい形を作れば、勝手にそちらへ流れる。これは後に彼が大規模な治水を行うときの基本になるが、最初は畑の端の小さな溝だった。
秋、畑の一部で収穫が増えた。劇的ではない。だが、去年より確実に増えた。その増えた分は、家の食卓の負担を少しだけ軽くした。そして、その「少し」が重要だった。余剰がなければ倉は作れない。余剰が少しでも出れば、保存という発想が生まれる。オーウェンは収穫物を乾かし、袋に詰め、屋敷の一角に積んだ。セバスチャンはそれを見て、数字として記録した。
「余った分は、すぐに食べてしまわないほうがいい。次の冬に効きます」
オーウェンはうなずいた。
「冬に効くなら、次の戦にも効くね」
「はい。国境では、冬と戦は同じくらい命を削りますから」
水路は次第に菜園の外へ伸びた。オーウェンが一人で掘れる範囲には限界があるが、畑の収穫が増えると、村人の見方が変わる。最初は笑っていた者が、次は手を貸す。手を貸せば自分の畑も良くなる。結果として、村の水利が少しずつ整い、村全体の収穫が底上げされた。グレンウッド家の家計が楽になるだけではなく、砦周辺の生活そのものが少しずつ安定していった。
そして、倉が作られた。大きな倉ではない。だが、保存できる量が増えるということは、戦に耐える時間が延びるということだ。アランもそれを理解していた。彼は戦の準備として槍を点検するのと同じくらい、倉の中身を気にするようになった。
その頃、近隣の領から応援要請が入った。国境の領は互いに影響し合う。隣が崩れれば、次は自分の番になる。アランはいつものように兵をまとめ、出陣の準備をした。
そのとき、オーウェンが倉を開けて言った。
「おやじ。兵だけじゃなく、食料も持って行ってほしい」
アランは眉を動かした。
「この家の備えが足りなくならないか?」
オーウェンは、感情ではなく理由を並べた。
「応援に行く領は、もともと食料が足りない。兵を連れて行っても食べられなければ戦えない。食料が尽きたら逃げ帰るしかない。負けたら、国境線が下がって、次はこの砦が危なくなる」
アランはしばらく黙って、倉の中を見た。
「馬車一両だな」
「うん。今出せるのはそれくらい。でも、それで戦える時間が伸びるなら意味がある」
アランはうなずいた。
「理屈は通っている。……よし、積め」
こうして、援軍には糧食の馬車が付くようになった。最初は珍しがられ、次は感謝され、やがて当然のように期待される。戦場では、兵の数だけでなく「何日戦えるか」が勝敗を左右する。糧食があるというだけで、防衛側は落ち着いて戦える。無理な突撃をせず、守るべき場所を守り、引くべき時に引ける。
その出来事が一度きりなら、ただの善意で終わったかもしれない。だが、何度も繰り返された。援軍が出るたび、グレンウッドは兵だけでなく食料も動かす。つまりこの家は、「守る」ために必要な準備を、領として継続的に作っているということになる。
王都から応援に来ていた役人が、その点を見逃さなかった。彼は戦場の華やかな戦果よりも、「この家がどれだけ継続して動けるか」を見た。報告書に書かれたのは、敵を何人倒したかではなく、援軍に糧食を付けられる体制があるという事実だった。国境防衛において、それは実務上の価値が高い。
結果として、アランは騎士爵から男爵へと昇じた。
武勇だけでなく、国境の守備を続けられる家としての信用が、爵位という形で評価されたのだ。
オーウェンは、その知らせを聞いても派手に喜ばなかった。男爵になったから守備が楽になるわけではない。国境は変わらず、必要な準備も変わらない。ただ、家が「続けられる形」を作り始めたことだけは確かだった。倉があり、畑があり、水路があり、記録があり、判断ができる大人がいる。セバスチャンが言っていた「強さを続ける条件」が、少しずつ家の中で揃っていく。
アランは剣で砦を守った。
オーウェンは畑と倉で、その剣が折れないようにし始めた。
その変化が、次の段階――海側低湿地の受託と世代交代へ繋がっていく。




