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「ありがとう、ございます‥」
それだけ言うと、伽羅は下を向いた。その横で神妙な顔をしながら檀も頭を下げた。
「女将さんも大将も‥俺にもすごく優しくしてもらって、本当に助かってます、ありがとうございます」
女将は、あっははと大きな口を開けて笑った。ばしばしと檀の華奢な肩口を叩く。
「子どもはそんなこと考えないでいいんだよ。もしあたしらに孫がいりゃあ、やりたかったことをやらせてもらってるだけなんだ。檀ちゃんは変わらずちゃんと夕方にはここに来るんだよ?わかったね?」
「女将、俺からも礼を言う。俺に伽羅を任せてくれる気になってくれてありがとう。檀くんのこともできうる限り俺が手を尽くすから」
女将はにやっと笑いながらも横目でじろりと清永を見た。
「清永君はもう伽羅ちゃんを嫁にでも貰ったつもりかい?なんでもそう急ぐんじゃないよ。ものには順序ってもんもあるのさ」
そう言って女将は檀の方を見やり、くすっと笑った。案の定、何とも納得いかない顔を檀がしていたからだ。姉を尊敬し心から慕っている檀からしてみれば、清永の申し出は寝耳に水のことなのだろう。
‥‥檀ちゃんも姉離れしなくちゃならない時期になったのかねえ。
女将はそう思いながら、若者三人の姿を眺めていた。
その後、頑なに家を見たいといって引かない清永に押されて、姉弟は家まで案内せざるを得なかった。狭いアパートの2DKの間取りの現状を見た清永は、しばし呆れたように室内を見回すばかりだった。
そうかと思えば、伽羅の指示で檀が淹れたお茶を出されると古ぼけたちゃぶ台の前にきちんと正座した姿勢で品よく飲んでいる。
本当にいいところの坊ちゃんなんだな‥と檀は思った。遊びで姉をもてあそぶつもりなら許さないところだが、どうもそのような感じはしない。態度は不遜で傲岸ではあるが無礼ではないし、檀の話もちゃんと聞いてくれた。
「檀くんが心配するのも無理はないと思う。不安があったらいつでも俺に聞いてくれ。檀君は携帯を持っていると聞いたが」
急変が起きたときのために、檀だけは携帯電話を所持していた。携帯電話の機種自体は随分古い型のものではあるが、病院や伽羅のいるところに連絡がつけばいいだけのものなので、古くてもそこまで困っていない。
姉が清永に渡されたピカピカの最新型スマートフォンを見たときに、自分に渡されるものではなくてよかった、と思うあたり、檀もちゃんと伽羅の弟である。
とりあえず伽羅が持たせられた携帯の番号と清永の番号を、檀の携帯にも登録しておいた。メッセージアプリも入れろと清永に言われたが、古い型の檀の携帯にそんなものを入れたら、容量が重すぎて動作が遅くなってしまう。そう言われてまた清永は額に手を当て、深いため息をついた。
「‥檀、明日学校が終わったら俺に連絡しろ。機種変に行く。そんなものは不便で俺が困る」
「あの、私の分もいただいてますし、これ以上は困ります」
横から恐る恐る伽羅がそう口を挟めば、清永がじろっと伽羅を見た。顔面が整いすぎている人物の真顔はなんだか怖ろしいものなんだな、と伽羅は実感した。
「伽羅や檀のためじゃない。俺のためだ。伽羅や檀に連絡が便利にできないのは俺が困る。だから俺が金を出すんだ。何もおかしくないだろう」
そう、なのかな‥?駒江姉弟は同じタイミングで同じ方向に首を傾げた。顔の造作は違うのにその行動がそっくりで、清永はまた笑いがこみ上げてくるのを押さえられなかった。
「‥おかしくないから、明日檀は必ず連絡しろよ。学校まで迎えに行くから」
「わ、かりました‥?」
迷いのない清永の指示に、檀はうっかり承諾の返事をしてしまい、その後また首をかしげていた。
檀も含めて、簡単に伽羅に渡したスマートフォンの操作を教えてから、清永は帰宅することにした。
狭い玄関でつやつやした靴を履きながら、清永は言った。
「伽羅、明日は家庭教師のバイトだろう?放課後は会えないが、昼を一緒に食べたい。二限が終わったら教室まで迎えに行くからそこで待っててくれ」
「え、あの、明日は私お弁当なんですが」
清永はちらりと腕時計を見た。もう22時を回っている。
「‥今日は遅いし、怪我もしてるんだから早く寝ろ。明日はまた俺が行きたいところにつきあってもらう」
じゃあな、と言って清永は玄関を出て行った。
がちゃり、とドアが閉まって気が抜けた伽羅はへなへなとそこに崩れ落ちた。驚いた檀が慌てて近くに寄ってくる。伽羅は脱力した身体を檀に投げかけた。
「な、んか‥疲れたよぉぉ檀~~!」
「ああ‥俺も、疲れた‥姉ちゃん風呂沸かしてやるよ‥」
「ありがとう~~今日は湯船につかりたい気分だよね‥」
「うん‥」
姉弟は床に座ったまま顔を見合わせて、どちらからともなく笑った。
呼んでおいた車はすでに近くで待機していた。中に乗り込むと、そこには左柄愛善が乗り込んでいた。
「どうだった?」
「面白かったな」
「‥へえ」
にやり、と笑った清永の顔を、左柄は珍しそうにのぞき込んだ。左柄が知る限り、清永が心の底からの笑顔を浮かべるなぞということは、片手の指でも余るくらいしかない。
「あの眼鏡ちゃん、そんなに『いい匂い』なのか」
「ん‥『いい匂い』というか‥穏やかで安心できる、という感じだな。今日は‥時間が過ぎ去るのがとても速く感じた」
左柄ははっはっと大声を出して笑った。このような清永の顔を見るのは初めてだった。
「お坊ちゃんの『初恋』ってことかな?」
「坊ちゃんとかいうな。‥だが、そうかもしれん。彼女となら、ずっと一緒にいたいと思ったからな」
「それは重畳」
左柄は大仰にそう言って、手にしていた封筒を清永に渡した。
「そのお嬢ちゃんの弟君の病状に関することだ。‥さすがにカルテまでは手に入れられなかったが」
「助かる」
封筒から書類を出し、中身を確かめている清永に、左柄は声をかけた。
「で?明日から俺はどうすればいいんだ?」
清永は何か考える様子を見せ、腕組みをした。
「今日の、国際経済論Ⅱの講義を受けている女子学生を調べてくれ。二人だ。一人は明るい栗色の肩を過ぎるほどの髪、身長は多分160㎝くらい。もう一人は赤っぽい茶髪でロングヘア、身長は155㎝くらい。多分この二人は友人関係だ」
清永の言う特徴をスマートフォンのメモに入力しながら左柄は眉を寄せた。
「情報が少ないな‥名前とか綽名とかわからねえの?」
「知らん。顔だって今日初めて認識したんだ」
「ふうん。‥どういう方向で調べるの」
清永の瞳が鋭く光る。その顔は、人間味を感じさせないほどに冷たくなった。ああ、これがいつもの清永だな、と左柄は思う。
「おそらくだが、やや背の高い方が伽羅にけがをさせた。今後もひょっとしたら伽羅に絡むことがあるかもしれない。今日の講義で一緒だったということはほかの講義も重なる可能性はあるからな。‥‥明日はお前が伽羅の講義に全部同行しろ」
「へいへい、どうせ俺は留年学生ですからね。仰せの通りに致しますよ。‥駒江伽羅さんには、俺は自己紹介しといたほうがいいのか?」
「‥いや、いざという時に出て行ってくれればいい。もし、誰かが伽羅に危害を加えそうならその証拠をつかんでおいてくれ」
左柄は自分の鞄からタブレットを取り出して何やら操作をしながら、確認をした。
「伽羅さんを守るのと証拠を押さえるの、優先順位はどっち?」
清永は苦い顔をして考え込んだ。しばらく沈思黙考した後、ぼそりと返事をする。
「‥‥よほど危ない状況でない限り、証拠保全が優先だ」
「りょーかい、っと」
タブレットに手早く色々と入力していた左柄が作業を終えて、改めてじっと清永を見た。ぶしつけなその態度に清永は顔を顰めた。
「‥何だ」
「いやあ?お前もちゃんと『人間』でよかったなって」
左柄は眼鏡の鼻あての部分を人差し指で少し上げてニッと笑った。
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