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「でも、急だし女将さんも困りますよね‥」
「まあ何とかなるよ。あんまり気にしないで。檀ちゃんが来たら一緒に帰りなさい」
「でも‥」
ちらちらと清永を見ながら伽羅は納得できないような顔をしてもぞもぞしている。おそらく、清永がいなければなんのかんのと言って働く気なのだろう。この人、早く帰らないかな、と考えているのが手に取るようにわかる。
「全く‥」
清永はジャケットを脱いで女将に尋ねた。
「今日の仕事、俺が伽羅の代わりにやる。接客はできねえから応対は伽羅に任せて、運んだりは俺がする。伽羅もそれでいいな?」
「へ?え、清永さんお時間大丈夫なんですか‥?」
清永は驚いている伽羅の頭に、ぽんと手を置いた。
「お前が無理をするかもと考えるのが嫌だ。時間はあるから気にするな。‥どうせ弟さんにも会いたかったし。食堂のバイトは九時までだろ?」
この人本当に私のこと何でも知ってるな‥と変な関心をしつつ伽羅は頷いた。横できょとんとしていた女将は、二人の様子を見て笑い出した。
「あれまあ、いつの間に伽羅ちゃんにいい人ができてたんか!よかったねえ、伽羅ちゃん」
「い、いい人‥?」
「恋人ということだ。間違っていないな、伽羅。女将、上着をどこかに置きたいが」
「ああ、こっちに置けばいいよ。あんたまあ、いい男だね!」
今頃になって清永の顔をしっかり見た女将は、その秀麗さにやや驚きながらジャケットを預かって奥の椅子に置いた。そして一度引っ込むと灰色のエプロンを持って現れた。
「はい、じゃあこれつけて。もうすぐ店を開けるから、まずは掃除をしてもらおうかね」
「わかった。伽羅、そこに座って指示をしてくれ」
思いのほか清永はよく働いた。伽羅の指示通りにきちんと掃除を済ませ、その手際の良さに女将は感心していた。掃除が終わったころ、がらりと食堂の扉が開いた。
「こんちは~檀でーす」
現れた制服姿の高校生は、伽羅の弟、駒江檀だった。身長は伽羅より少し低い。少し大きめの学生服の中で、華奢な身体が泳いでいるようだ。髪は栗色がかっていて伽羅とは似ていない。顔立ちはやや中性的でまだ幼さの残るものだった。
いつもの指定席に荷物を置こうとした檀は、座っている姉とその横でエプロンをつけている大きな男を見て不審そうに呟いた。
「姉ちゃん‥?」
「君が檀くんか」
清永は箒を置くと段の傍に寄ってきて右手を出した。
「初めまして。大洲清永だ。伽羅の恋人だ」
檀は目を丸くして清永をまじまじと見た。そしてその横に座っている伽羅を見た。何度か二人の顔に視線を往復させ、ごくりと唾液を飲み込んでから伽羅に話しかけた。
「ね、姉ちゃん、恋人って‥」
「ああ、ま、なんか‥しばらくそういうことに」
「しばらくそういうことに‥?」
驚きのあまりオウム返しをして固まっている檀に、清永が仕方なく説明をした。
「まあ、俺が伽羅にしばらく恋人としてつきあってくれと頼んでいる間柄だ」
「恋人として‥?本当は違うってこと‥?」
「‥俺としては本当にしてもらいたい、とは思ってる」
そう言う清永を横に、檀は姉の傍に駆け寄った。そしてつんと匂った湿布の香りに顔を顰める。
「姉ちゃん怪我したのか?」
「あ~うん、ちょっとぶつけちゃって」
「じゃあもう帰らないと」
「あ、でもほらバイトあるし」
檀は苛々して大きい声を出した。
「そんなの、俺がやるから!最近発作出てないし大丈夫だよ!」
「ああ、手伝いは俺がやるから大丈夫だ。君は心配するな」
清永はそう言って置いていた箒を取り上げて片づけた。女将から固く絞った台布巾を受け取って、テーブルの上を拭き始める。
「君は?いつもここで何をしてるんだ?よかったらいつも通りにしていてくれ」
鷹揚にそう言っててきぱきと開店準備を進める清永を、檀はじっと見つめた。そして姉の耳元に顔を寄せて囁いた。
「‥何か、すごく態度が大きいイケメンだな。イケメンっぷりも恐ろしいし、姉ちゃんどういうきっかけでこんな人と知り合ったんだ?」
「え~と、今日つきあってくれって言われて‥」
「今日?!」
伽羅の言葉を聞いた檀は、ぎょっとして清永の方を見た。清永は箸立てを各卓にセットしているところだった。檀は清永の近くまで行って下から清永の顔を睨みつけた。
「あんた、何が目当てなんだ?何で姉ちゃんに近づいた?」
清永は精いっぱい睨みつけてくる檀に、不遜な笑顔を向けた。
「言っただろ。俺は本当に恋人になってもらいたいって。多分‥俺はすぐに伽羅を愛するようになるだろうな」
愛、という普段使わないような言葉を使われて、檀の方が顔を赤くした。それを見てまた清永はニヤッと笑う。今日は清永の笑顔が大安売りされているようだ。
檀はそれ以上清永に何も言うことができず、しぶしぶいつも座っている食堂の隅っこの定位置に戻った。
そしてすぐに食堂の夜営業が始まった。
食堂は酒も出すが、酔っぱらうほどの量は出さない。一人につき三杯まで、というのがこの食堂の決まりだ。「かもめ食堂」はほとんどが常連の客で占められ、近くの工場で働いている職人や近所に住む独り者の男女などが食事をとるために訪れるようなところだった。だから変な客が来ることもほとんどなく、伽羅も安心して働いていられた。
七十代の大将と女将二人で切り盛りしている食堂だったが、突然両親を亡くし頼れる親戚もおらず施設に行くしかないのか、という場面の駒江姉弟を助けてくれたのは、この夫婦だった。自分たちが身元引受人となってアパートを借りてくれたのである。
女将曰く「社宅ってやつだね!」と言って姉弟の代わりに賃貸契約を結んでくれた。今は女将に家賃を払う形になっている。
そういった意味でも「かもめ食堂」でのアルバイトは、なかなかやめたくない、というのが伽羅の正直な気持ちではあった。
夜営業が終わった九時過ぎに表の入り口を閉めた女将と清永が話をしている。「俺が話すから伽羅は待っててくれ」と押し切られてしまい、檀と二人で賄いを食べている。
食べ終わるころになって、女将と清永が近寄ってきた。
「伽羅」
「ん、はい!」
最後のご飯をごくんとのみこみ、箸をおいて清永と女将の方を向く。女将はにこにこ笑っていた。
「当面、その腕が治るまで伽羅のバイトは禁止だ。その代わり、別の人間を俺がここに派遣する」
「へ」
「俺はできる限り伽羅と時間を過ごしたいからな。俺が働くのは今日だけだ。それから、その間に新しいバイトを募集してもらうこともお願いしてある」
「ええ?」
「うん、その方が伽羅ちゃんにもいいと思うんだよ。若い身空でずっと、二年以上もここでばかり働いていてさ‥伽羅ちゃんにも学生らしく楽しく過ごしてほしいと思ってるのさ」
「‥女将さん‥」
女将はそのまま流しに行って台布巾を洗いながら伽羅に声をかけた。
「たまに顔だけでも見せてくれたらいいよ!もちろん、檀ちゃんもここで伽羅ちゃんを待ってるのは構わないからね!」
伽羅は何も言えなくなって俯いた。この老夫婦が善意でしてくれたことには感謝してもし足りないほどだ。それなのに、自分のことを気遣ってこんなふうに言ってくれる。ありがたいな、と思うと涙が出そうだった。檀も同じ気持ちなのか隣で黙っている。
「伽羅、それでいいか」
「‥いえ、‥怪我がよくなったら、週に一、二回でもいいから働かせてもらいたいです。このまま全部辞めるなんて‥」
女将は台布巾を始末すると、手を拭ってこちらに歩いてきた。そして伽羅の右手を取ってきゅっと優しく握りしめ、微笑みながら伽羅の顔を見つめた。
「伽羅ちゃん、ありがとうね。‥でも、いいんだよ。いずれ伽羅ちゃんは学校を出るんだし、その後もここで働くわけにはいかないだろ?少し早まっただけさ。その分、伽羅ちゃんが同じ年頃の女の子みたいに楽しい時間を過ごしてくれた方が、このジジとババは嬉しいのさ。気にしなくていいんだ」
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