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講義が終わり、教授が教室から退出すると、先ほど伽羅の腕をねじり上げた緑山佐枝が別の女子学生も引き連れて伽羅の前にやってきた。先ほどの仕打ちを思い出して、思わず身を引き、身構えていると二人はまた居丈高に突っかかってきた。
「逃がさないからね」
「さっさと言いなさいよ、何話してたのよ?」
「大体あんたみたいな陰キャが大洲さんに何の用があるわけ?」
いや、私は用はなかったんですが、と思った伽羅が口を開こうとする前に、後ろから氷のような冷たい声が飛んできた。
「俺が伽羅に用があったんだ。悪いのか」
教室の入り口に立っていた清永はそう言い放つと、ゆっくり部屋の中に入ってきた。何か騒ぎが起きそう、という予感とともに部屋を出ようとしていた学生も立ち止まって伽羅たちに注目している。
突然現れた清永の姿を見て、緑山たち二人は赤くなったり青くなったりしている。清永の声の冷たさに怯えたのかもしれない。清永はそれに構わずつかつかと伽羅の傍まで来て、伽羅のリュックを取り上げ自分の肩にかけた。
「行こう、時間がないんだろ?」
「あ、はい、あの、この方々が」
「‥‥何だ?」
面倒なことはここで終わらせておこう、と考えた伽羅が清永に向かって説明をした。
「私と清永さんがどんな話をしたのか教えろとおっしゃってて。でも、清永さんの個人的な事情を話していいのか判断がつかなかったもんですから‥」
「‥へえ」
清永はじろりと女子学生二人を睨めつけた。二人は清永と目を合わせることもできず小刻みに震えている。清永はそんな二人に吐き捨てるように言った。
「お前らなんか知らねえけど。勝手に鼻を突っ込んでくるな。目障りだ」
そう言って伽羅の手を取って優しく引いた。だがその手が左腕だったのでさっきねじられたところが痛み、伽羅はつい「痛っ」と言ってしまった。
「痛い‥?昼までは普通にしていただろう」
「あ~、えっと、ちょっと‥ぶつけちゃって」
これはねじられたなんぞと言ってしまったら恐ろしいことになるのでは、と悟った伽羅が下手な言い訳をした。清永はゆっくりと二人の女子学生の方に顔を向けた。その顔には何の表情も浮かんではいない。
「へえ‥『ぶつけた』、ねえ‥」
伽羅の腕をねじり上げた当の緑山は、音がするほどカタカタ震えている。その姿をじっくりと見ながら清永は言った。
「まあ‥もし、伽羅を傷つけるようなことがあれば、俺は絶対に許さねえけどな‥」
もう一人の女子学生が、小さな声で「ヒッ」と悲鳴を上げた。
清永は伽羅の右腕を取って、そっと立ち上がらせた。
「車があってよかった。すぐ送るが、その前に念のため病院に行こう」
「そんな大げさな、ちょっとぶつけただけです」
「それは医者が判断する」
清永は伽羅を自分の方に寄せるとさりげなく肩を抱いた。そしてもう一度後ろを振り返る。顔面を蒼白にした二人は、立っていた場所から微動だにしない。清永はじいっと二人の顔をたっぷり十秒以上見つめてから、伽羅とともに教室を出ていった。
伽羅と清永が出て行った後の教室に、ほっと緩んだ空気が流れる。清永に睨まれた二人の女子学生は悔しそうに拳を握りしめたまま、無言でその場に立ちすくんでいた。周りの学生たちはひそひそと話しながらそんな二人を遠巻きに眺めていた。
大学の正門につけられていた車に乗せられ、すぐ近くの総合病院に連れていかれた。待つことも保険証を出すこともなく、すぐに医師が現れ伽羅の腕を診察した。その時になると伽羅の腕は青黒く変色している上、肘の関節部分が少し腫れていて、見るや否や医師は顔を顰めた。
「随分と酷いねじられ方をしましたねえ。どうしたんですか?傷害事件?」
「‥ねじられ‥?」
「あー‥ぶつけた‥んです‥」
医師は、伽羅の顔を見て怪訝な表情を浮かべた。
「いや明らかにねじられてるでしょ。関節の反対方向にこうやってねじられたんでしょうね。しばらくは安静にしておいてください。重いものを持ったり腕を上げたりしないように、抗炎症薬を出しておきます。一応湿布もお渡ししますから‥ああ、ここで貼っておきましょうか」
ねじられただろうその有様を実演してみせた後で、清永の顔色を見ながら医師はそう言って看護師に指示をした。
看護師が手当てをしてくれている間中、清永の方から冷たい空気が放出されているような気配がして、伽羅は恐ろしくて清永を見れなかった。
「‥伽羅」
「はい‥」
「嘘はつくな」
「‥‥はい‥」
「心配する」
看護師が処置を終えた後、清永はそう言ってふっと座っている伽羅の頭を抱き寄せた。清永の胸に頭を預ける形になった伽羅は、なんかこの人すっごくいい匂いがするなあ‥とか、意外に結構胸筋がついてるんだなあ‥などと明後日なことを考えていた。
「なんか、今日初めてお会いしただけの清永さんにすごく迷惑をかけてしまって‥すみません」
病院の支払いを頑なに拒否されて、仕方なく小さな財布をリュックに戻した伽羅はぺこりとお辞儀をした。清永はまだ厳しい表情を崩さずに答えた。
「俺は前から伽羅のことを知っていたから、今日が初対面というわけじゃない。昼も言ったように、俺にとって伽羅は特別だ。だから大事にする。俺の大事な伽羅の身体は、伽羅も大事にしてくれ」
「‥はあ‥」
今までそんなことを言われたことのなかった伽羅は戸惑った。たいていの場合、伽羅は『大事にする方』だったのだ。病気がちだった母のことも、珍しい病に罹った弟のことも。大事に思ってもらう、ということは心をあったかくするんだなあ、と伽羅はほんわり嬉しくなり、清永を見てにこっと笑った。
「そんなこと初めて言われました!嬉しいもんですね!」
すると清永がばっと口元を押さえてふいっと窓の方に顔をそらした。なんか失礼だったかな?と伽羅が首をかしげていると、清永が小さな声で言った。
「わかって、くれればいい」
真正面から放たれた伽羅の満面の笑顔に、清永は鼓動が異様に早くなって顔が赤らむのを感じた。これは、どういうことだ。特別美人でも整っているわけでもない伽羅の顔が、たとえようもなく‥かわいらしく見えた。
また、見たいと思ってしまうほどに。
なぜ、顔をそらしてしまったのだろう、もっと見ていたかった。でも、顔をそらさずにはいられなかった。
恥ずかしくなったのだ。
自分で自分の心情がわからない。こんな気持ちになったのは生まれて初めてのことだった。結局、そこから伽羅のバイト先の食堂に着くまで、清永は伽羅の顔が見られなかった。
「かもめ食堂」につくと、清永も一緒に車を降りた。伽羅はあれ?何で?と思ったが、清永がさも当たり前のような顔をして先に歩いていくので、仕方なくその後ろについていった。
「かもめ食堂」の女将は七十がらみのふくよかな女性で、湿布が貼られた伽羅の腕を見ると「まあまあまあ!」と言って目をみはった。
「伽羅ちゃんどうしたの?その腕じゃ今日はバイトに入らない方がいいねえ」
「え、でも大丈夫です、気をつけて右手で運んだりすれば」
「だめだよ伽羅ちゃん」
「伽羅だめだ、医者に言われただろう」
女将と清永のふたりから同時に咎められ、伽羅はしゅんとした。「でも‥」と言いながら俯く伽羅の頭を、清永はそっと撫でた。
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