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「姉ちゃんが目ぇ覚めたって!?」
がらっと病室の引き戸を開けて檀が入ってきた。急いで走ってきたのか、息を弾ませている。清永は伽羅の手をそっと布団の中に戻して席を立った。
「ああ、さっき少しだけ意識が戻った。もう大丈夫だろう、また後で目が覚めるさ」
実は今日の時点で、伽羅の救出作戦から五日が過ぎていた。
伽羅に使われたのは向精神剤と筋弛緩薬を混ぜ合わせたような、怪しげなものだったらしい。なかなか意識が戻らず一時はこのままかと心配されたが、一度意識を取り戻したからには大丈夫だと思います、と医師は清永たちに告げた。
ただ、栄養不足とストレスによっても随分身体がダメージを受けているので、しばらく入院加療して体力が戻ってからの転院が望ましいと言われたことから、まだ神戸市内の病院に入院したままだった。
檀は夏休みに入っていたので、知らせを受けるや否やすぐに神戸にやってきていた。姉の誘拐が起こってからずっと、檀は生きた心地がしなかった。
伽羅までもいなくなってしまったら、檀は本当に独りぼっちだ。いや何よりも、まだ伽羅に何も返せていないのに、その伽羅がいなくなるなどということは考えたくもなかった。しかし、警察からはかばかしい報告は来ないし、今どんな状況なのかもわからない。しかも、清永や左柄愛善に会えることも少なくなっていたので、檀はぎりぎりの精神状態でここ最近の時間を過ごしていたのだった。
相変わらずやつれたままの姉の顔を見ながら、檀はほっとしてその場にへたり込んだ。清永がそんな檀をぐっと引き上げて、伽羅の傍の椅子に座らせてくれた。
「‥愛善の部屋にいたんだろ?どうだった様子は」
「‥なんかこっちが拍子抜けするくらい、普通になっちゃってました。‥俺、すっごく心配したのに‥」
「悪かったな、気を揉ませて‥愛善の怪我は俺のせいなんだ」
前にも聞いた言葉を繰り返す清永を、檀は改めてじっと見た。
「‥‥清永さんの周囲って‥俺が思うよりもずっと危険があるんですね」
「‥‥」
清永はそれに対して、何も答えられなかった。
日本経済の趨勢を担うリーディングカンパニーの大洲ホールディングス、それを将来否が応でも継承していかねばならない清永の立場。字面の上でわかったつもりだったが、きっと清永はこれまでにも色々と大変な思いをしてきたのに違いない。檀はそう考えて、次の言葉を口に出すのをためらった。
しかし、これを言うなら姉が本格的に目を覚ます前の今しかないのだ。
ごくり、と唾をのみ込んだ檀が話し出そうとしたとき、清永が言った。
「わかってる、檀」
「え」
出鼻をくじかれた檀は、きょとんとして清永の顔を見た。そこには何とも苦しそうな表情を浮かべた清永の顔があった。
「‥もう、伽羅には、近づかない」
「えっ」
「俺のせいで‥俺さえ、伽羅に近づかなかったらこんな目に遭うこともなかった。‥何かあっても、守れると慢心していた。‥俺には、まだそこまでの力は、なかった‥」
「清永、さん‥」
自分が言おうと思っていたことを先に清永に言われて、檀はどうしていいかわからなくなった。いつも自信満々で不遜な振る舞いだった清永の、そんな姿を初めて見た。何と苦しそうな顔をするのだろうか、
「‥もう一度、伽羅が目覚めたら‥ちゃんと詫びて‥それから、伽羅の前からは姿を消す。心配だからしばらくは護衛をつけておくが、目につかないようにしておくから」
「清永さん、」
清永は檀の方を見て力なく笑った。痛々しいその表情に、檀は言葉が出てこなかった。
「ごめんな、檀。お前の大事な姉ちゃんをこんな目に遭わせちまって‥二度とこんなことのないようにするから」
だから、あともう少しだけ伽羅の傍にいさせてくれ。
呟くようにそう言うと、清永は部屋を出て行った。
檀はそれを見つめたままそこに立ち尽くしていた。
その日の夕方、また伽羅は意識を取り戻した。応答もしっかりしており、檀たちを安心させた。ただ、身体が弱っていることには変わりはなかったので、やはりしばらく入院することになっていた。
清永は色々な手続きなどをやっていたようだったが、ひと段落つくとまた伽羅の傍にやってきた。目に見える範囲に清永がいてくれると安心する自分に、伽羅は気づいていた。
「清永さんがいると、嬉しいです」
素直に言葉に出してそういう伽羅の顔を、清永はまっすぐに見られなかった。不審な清永の様子に、伽羅は心の中で首を傾げた。
「清永さん?何か、悩んだりしてます?」
「‥‥伽羅」
清永は伽羅のベッドの傍の椅子に腰かけた。なかなか、言うべき言葉が出てこない。
「‥こっちの方で、色々処理をして‥とりあえずお前をさらった主犯は、‥警察に捕まったわけじゃないが、もう二度とお前の前に姿を表すことはないから安心していい」
「そうですか‥」
人を誘拐しておいて警察に捕まっていない、というのは、伽羅には解せない話ではあったが、きっと清永がうまいように取り計らってくれたのだろう、とのみこんだ。
「助けていただいて、病院なんかの手配も色々としていただいて‥ありがとうございます」
そういう伽羅に、清永は気まずそうな顔で首を横に振った。
「‥‥そもそも、伽羅がこんな目に遭ったのは俺のせいだ。‥そんなこと、俺がするのは当たり前だ」
清永はずっと俯きがちで、ほとんど伽羅と目を合わせてくれない。そんな清永の姿は見たことがなかったので、伽羅は不思議に思った。
「清永さん‥元気ない?ですか?お疲れですかね?」
そう言われた清永は、膝の上の拳をぎゅうっと握りしめた。ごくり、と喉を鳴らす。
「伽羅」
「はい?」
清永はようやく顔を上げて、伽羅の目を見た。
「これまで、色々と迷惑をかけて‥申し訳なかった。‥お前の前から、俺は消える」
「‥‥え?」
言われたことの意味がとっさに理解できず、伽羅は混乱した。言い出してしまってからは、清永の顔には迷いがなくなっていた。
「俺とかかわりを持たなければ、これ以上伽羅が危険な目に遭うことはないと思う。今回の原因になったやつは排除したが‥俺に敵がいなくなるわけじゃない。これ以上、お前を危険な目に遭わせることはできない。‥‥だから、俺は、消える。色々とお前を引っ張り回して悪かった」
「清永さん、」
「もうしばらく‥半年くらいはお前と檀の周りに警護をつけておく。万が一に備えておくから心配いらない。‥俺は‥今日を最後に、お前には、もう、会わない」
「清永さん」
「‥悪かったな‥痛い思いや怖い思いばかりさせた。もう‥そんな目には遭わせないから‥楽しかった。ありがとう。そして、本当にすまなかった」
深々と頭を下げる清永に、伽羅は重い身体を無理にも動かして起き上がった。
「清永さん、言ってる意味がわかりません!あの、私のこと嫌いになったんですか?」
「違う!」
清永はよろめく伽羅の上半身を支えながら強い声で否定した。そしてすぐにまた小さな声を言い足した。
「‥お前を、愛してることに、変わりはない‥だが、‥だからこそお前を俺の傍に置いておけない。お前が俺のせいで傷ついたり酷い目に遭うかもしれないと思うと‥俺が、耐えられないんだ」
「でも、清永さん言ってくれたのに!何も心配するなって、伽羅を手に入れるためなら俺は何でもできるって」
「伽羅」
清永は俯いてそっと伽羅の背を撫でた。伽羅の言葉は止まらなかった。
「将来の夫だって‥好きな気持ちは変わらないって!‥嘘だったんですか?‥やっぱり私じゃダメなんですか?」
ぼろぼろと涙を零し始めた伽羅を、清永は思わず抱きしめようとして、その腕を引いた。代わりにただそっと頭を撫でる。
「ごめん‥俺のせいで‥伽羅が危ない目に遭うかもと思うことが、俺には耐えられないんだ。‥実際に、かなり危ない目に遭わせてしまったしな‥」
伽羅は自分を支えている清永の腕に縋りついた。意識朦朧としていた、あの囚われた日々の中で、伽羅を支えていたのは間違いなく清永の存在と、その言葉だった。
愛している、好きだ、という、まっすぐなその言葉を信じた。ひょっとしたら助けに来てくれるかもしれないと思った。もし、このままどこかに売られたとしても、‥清永のその言葉を胸に耐えようと思っていたのだ。
大事に思っている人が、当たり前にいることは決して当たり前でないことを、両親の事故死によって伽羅は悟っていた。自分の気持ちがはっきりした以上、清永にもきちんと向き合って、二人で生きていきたいと思っていたのに。
今さらそんなことを言うなんて。
「‥清永さん‥酷い、酷すぎるよ‥こんな、‥私に恋を教えて、突き放すなんて‥」
伽羅の瞳から零れ落ちる涙は止まることはなく、ひくひくとしゃくりあげ喉や鼻がツンと詰まってきてうまく話せなくなってきた。
清永は、黙って伽羅の頭を撫で、つむじに口づけた。そして手を離すと、ゆっくりと立ち上がった。
「悪かった。‥お前の人生に、俺は関わるべきじゃなかった。‥でも、伽羅、楽しかった。ありがとう」
「せいえい、さん!」
清永は、そのまま静かに病室を出て行った。
清永がその後、伽羅を訪ねてくることはなかった。
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