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「時給は五千円だ」
「ごっ、ごせんえん!?」
あまりに驚いた伽羅は椅子を蹴って立ち上がってしまった。今働いている食堂の時給は千五十円、家庭教師でも二千円だ。破格の金額に言葉が出ない。
「え、あの、何をさせられます‥?あれやっぱりパパ活‥?」
「だから違う!!」
なぜこうもスムーズに話が進まないのか。
普段の清永ならもう苛々して話を打ち切っているところなのだが、なぜか伽羅と話していると笑いがこみ上げそうになる。不安げな顔で恐る恐るこちらを見ている伽羅の言動が、見ているだけでいちいち面白く感じるのだ。
「具体的には、俺とどこかに出かけたり食事をしたりすることが主だ。お互いの合意が取れれば性的接触もあっていいが、合意のない行為はしない」
「ほう‥」
「俺の希望としては、今伽羅が働いている食堂のバイトをやめてその分の時間をすべて俺に使ってほしいと思ってる。弟さんのことも、話し合おう」
「はあ‥」
気の抜けた返事を繰り返す伽羅の顔を、清永はまたじっと見つめた。視線は合わず、伽羅はじっと何か考え込んでいるようだった。
「条件が悪いか?」
そう問われて、はっと顔を上げた伽羅は一度清永と目を合わせたが、またうーんと考え込んだ。
「食堂、忙しいんですよね‥いろいろな恩義もありますし。私が急にやめるとご迷惑になると思うんで、次の人が決まってからでもいいですか?」
「‥ああ、構わない」
伽羅が今アルバイトをしているのは、伽羅たちが住むアパートの近くにある大衆食堂だ。店先の貼り紙を見て伽羅が応募し、高校三年の時から丸二年近く働いている食堂である。昼営業と夜営業があり、時間の許す限り伽羅はそこで働いていた。
家庭教師のアルバイトは今は一軒しかもっていない。それも週二回しかないので伽羅の時間はほとんど食堂に費やされていた。
「あと、性的接触、ということですが、これは別にしなくてもいいんですよね?」
清永は伽羅の顔を渾身の笑顔で見つめた。しかし伽羅の態度も顔色も変わることはない。清永は小さく息を吐きながら答えた。
「無論強制はしない。合意のない行動はとらない。だが‥君が俺のことを好きになってくれれば、そういうこともしたくなるかもしれないだろ?」
「なるほど‥」
「伽羅はどんな顔の男が好きなんだ?」
「顔?」
あまり男性の美醜を気にしたことのなかった伽羅は返事に詰まった。
「‥好ましい男性のタイプとかないのか?」
「あっ、好きなのは福沢諭吉とユリウス=カエサルです!」
旧一万円札‥?と、カエサル‥ジュリアス=シーザーか‥
斜め向こうから飛んできた回答をかみ砕くべく、清永は質問を重ねた。
「ちなみにそれは、どういうところが好きなんだ‥?」
「えっと、頭がよくて面白いところですね!」
「‥そうか‥」
自分も頭はいいと言われ続けていたが。最近はやる気が出なくてまともに勉強していなかったな、と清永は思った。
「俺も、結構頭はいいと言われていたが、俺だとだめか?」
少し気恥ずかしい思いをしながらもそう言った清永に、伽羅は笑顔で答えた。
「わからないですね!あなたのことをあまり知らないので。頭がいい、というのはいわゆる偏差値的なものを指してはいませんから」
だめだ。
全然伽羅に太刀打ちできる気がしなくなってきた。
しかし、清永は楽しかった。この部屋に入ってからずっと楽しい。伽羅と話していると、次に何を言うかわからなくて楽しい。
わかっても楽しいのかもしれない。
「つきあってくれるか?」
「‥はい、とりあえずかもめ食堂のおばさんに話をしてから決めていいですか?」
「大丈夫だ」
ようやく話がまとまったかなと思った清永は、準備していた紙袋をテーブルの上に置いた。伽羅が最後のティラミスを口に入れながらそれを見た。
「伽羅は携帯持ってないだろ?‥連絡がつかないと俺が困るから、これを使ってくれ」
紙袋には真新しいスマートフォンが入っていた。最新機種の、買えばおそらく十万円以上はするものだ。万が一こんなものを壊してしまったら取り返しがつかない、と伽羅は青くなって首をぶんぶん横に振った。
「使い方わかりませんし、壊したら怖いので要りません!」
「‥‥そのうち使い方はわかるようになる。今日の講義が終わった後は時間あるか」
「え、すぐに食堂に行きますけど」
「そこまで車で送る。その車内で少し使い方を説明するから、講義が終わってもすぐ帰るな。俺が来るまで待ってろ」
つるつる素材の紙袋を横目に見ながら、伽羅は恐る恐る訊いた。
「‥‥これ、持ってないとだめですか‥?」
「壊したってお前に弁償しろとか言わない。保険にも入ってるから安心しろ。‥ただし、俺と家族以外の連絡先は登録するなよ」
「?あー、はい、どうせできないんで大丈夫です!」
この時点で講義開始まであと十五分になっていた。時計を確認して伽羅はあっ!と叫んだ。もう一つのドルチェの小さなカンノーリを一口に頬張ってもぐもぐした伽羅は、「ふぉちふぉうひゃまでひた!」というや否やリュックを背負って個室を飛び出していった。
一瞬、そんな伽羅の姿に呆気にとられた表情をしていた清永は、伽羅が出ていった扉を眺めてまたくっくっと笑った。
百分後にはまた会える。そう思うだけで心が浮き立つのが清永はわかった。
講義のある六階の建物まで全力疾走したおかげで、チャイムが鳴る前に教室に着くことができた。伽羅が教室に入ると、なかにいた学生が一斉に伽羅の方を見つめてきた。今までそんなことはなかったので、伽羅は驚いて一瞬入り口で立ち止まった。ほぼ全員がこちらを見つめているが、誰も何も喋らない。不思議に思いながらもそうっと教室内に入り、前の方の席に座ろうとした。すると、近寄ってきた一人の女子学生が険のある声で話しかけてきた。
「ねえ、大洲さんと何の話、したの?」
「はい?」
この人は誰だろう?伽羅は個別認識できるほどの知り合いはまだいなかったので、いきなり話しかけられたことを不思議に思った。
そして、先ほどの話の内容は、知らない人に言っていいものなのかな‥?と迷った。女子学生は首をかしげている伽羅に苛々したようで、バン!と机をたたいた。
「早く答えてよ!」
「え?あの、あなたは誰ですか?」
女子学生は顔を赤くして怒鳴りつけてきた。
「誰でもいいでしょ!質問に答えなさいよ!」
女子学生の剣幕に驚いた伽羅は、迫ってくる女子学生に対して上体をそらしながら答えた。
「いやあ、よくないですよ。個人的なことを知らないあなたに話していいか、私では判断がつきませんから。それで、お名前は?」
「緑原佐枝よ!名乗ったんだから言いなよ!」
再び伽羅は首を傾げた。
「でも、私はあなたと親しい間柄ではないですし、清永さんとあなたの関係性もわからないので話していいかわかりませんから」
カッとなった緑山はぐいっと伽羅の腕を取ってねじり上げた。
「痛っ!」
「名乗れっていうから名乗ったのに、ちゃんと答えたら!?」
その時、教授が教室に入って来たので、佐枝は投げつけるように伽羅の手を離した。
ねじり上げられた左腕がじんじんと痛む。利き腕じゃなかっただけまだよかったかな、と思いながらも、伽羅はなんだか面倒なことに巻き込まれていく気がするな‥と少し気が重くなった。
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