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その後も特にこれと言って不審な動きはなかったため、伽羅と檀は自宅に帰ることになった。ただ、清永のたっての願いで自宅の周辺に警報装置と監視カメラが取り付けられた。費用のことを考えると、また伽羅はため息が出そうだったが、「何か起こってからでは遅い」と真面目に言う清永に逆らうことはできなかった。
七月になり、檀がひいひい言いながら期末試験を終える頃、今度は伽羅たちの前期試験が始まった。清永は取っている授業数が少ないため、そこまでの科目数はなかったが、伽羅はそこそこ試験数がある。レポートと試験に追われながらなんとかそれを乗り越え、今度は清永のヨーロッパ視察の旅の準備が始まった。
旅行日程自体は八月の後半だが、パスポートの手続きや日程のすり合わせ、通訳すべき内容の確認や伽羅自身のイタリア語の確認など、やることはたくさんあった。
いつもの家庭教師先には断りを入れ、八月は授業を入れないことで話がついた。生徒は「駒江先生がよかったのに‥」と言ってくれたので心苦しかったが、やはり清永の望みをかなえてやりたい気持ちの方が勝ってしまった。
何より、この欧州視察が終われば清永の両親に会ってほしいと言われている。胸を張って両親に面会するためにも、この欧州視察で伽羅はある程度の結果を残しておきたかった。
気になっていた檀のことは、左柄が面倒を見ると胸を叩いてくれた。檀自身からも、自分のことは気にしないで行ってきてほしいと言われた。
あの後、清永の言ったように普通に接しようとぎくしゃくした伽羅が拍子抜けするほど、檀はいつもと変わらない様子を見せた。左柄の手並みに感心していると、左柄が伽羅に「檀くんにだって男の意地があるんですよ」と耳打ちしてくれた。
欧州視察を控え、清永自身も前よりは忙しくなり、伽羅と過ごせる時間が減ってきていた。それでも、伽羅の護衛を外すことなく、伽羅や檀を独り歩きさせることは決してなかった。
清永は、南戸寿々加の執念深さを決して忘れてはいなかった。
正直、伽羅と檀は、もうそこまで気にしなくてもいいのでは?と思っていたが、左柄に「坊ちゃんの安心材料を増やしてやってください」と言われるので仕方なくそれを受け入れていた。
檀の学校も終わって夏休みに入るという終業式の日、伽羅は講義が終わって清永を待っていると「急用が入ったから、先に家に帰っていてくれ、後から行く」というメッセージが届いた。護衛についている人にも同じメッセージが届いたようで、離れた場所から目顔で頷かれる。伽羅は頷き返して、正門の方に向かった。いつもの車が迎えに来ているはずだ。
正門前に停まっている車を見つけて乗り込む。護衛は後ろから別の車でついてくることになっている。
構内を少し歩いただけで汗だくになる夏の暑さから、冷房の効いた車内に乗り込んで思わず伽羅はふうとため息をついた。拭っても拭っても吹き出してくる汗をハンカチで押さえていると、運転手の瀬戸が、助手席近くにあるクーラーボックスから冷たい水を取り出して渡してくれた。
「暑いですよね、こちらをお飲みください。‥清永様をこのままお待ちしますから」
「ありがとうございます、あの、清永さんは今日は遅れるそうなので家に向かっていただいて大丈夫です」
瀬戸は、おや、というように目を見開いて笑った。
「そうですか、了解致しました。‥しっかり水分摂ってくださいね。危険な暑さですから」
「本当にそうですねえ‥」
冷えた水はするすると喉を通る。ようやく身体を巡る熱が落ち着いたような気がした。
ゆっくりと車が走り出す。伽羅は目をつぶり、ペットボトルのふたを閉めて額に当てた。
ドン!という大きな衝撃で目が覚めた。すっかり眠っていたらしい。身体が痛い。座席から自分の身体が半分ずり落ちているのがわかった。起き上がろうとするがうまく身体が動かない。身体の感覚が遠くにあるような気がする。うまく動かないし、音もよく聞こえない。瞼も重かった。
なぜだ、と不思議に思っていると、外気が車内に入ってきたような気配がした。「いたぞ」と誰かが言っているように聞こえたがそれも定かではない。
誰かが伽羅の身体をぐいと抱えあげた。引きずるようにして車外に出される。何が起きているのか、伽羅には全くわからない。抵抗したくとも身体は言うことをきかない。遠くで何かがぶつかり合っているような音や人の声が聞こえるような気もするが、それも定かではなかった。
必死に動かない瞼を持ち上げようとしていると、妙にはっきりと声が聞こえた。
「まだ意識があるじゃねえか、おい」
男の野太い声がしたかと思うと、口と鼻のところに何かの布をぐっとあてられる。
伽羅の意識は、そこでまた途切れた。
警察署の廊下を清永は走った。言われた場所にたどり着けば、顔面を蒼白にしている檀と、鋭い顔つきの左柄が待っていた。
「‥‥どういうことだ」
「やられた、ってことです」
左柄は短くそう答えると、檀の頭をするりと撫でてから、近くにいた人物に檀を連れて部屋を出るように促す。唇を噛みしめながらもどこか茫然としている檀は、素直にそれに従って部屋から出て行った。
部屋にいた警察官らしき人物が口火を切る。
「‥そちらの護衛の方はまだ意識不明の重体で、手術が終わっていません。大型車にぶつけられたこととその後もみ合いになって刃物で傷つけられたこととで、怪我が重いです。いくつか臓器にも傷が到達していたようで」
「‥今日は田端が護衛だったな。田端の家族には」
「私が連絡しました。今は病院で田端の手術が終わるのを待っているところだと思います」
「‥何がどうして、こうなったんだ」
清永は落ち着いた声を出そうと懸命に努力するが、どうしても険のあるものになってしまう。左柄はそれを気にもせず、淡々と説明した。
「瀬戸の家族が人質に取られていました。言うことをきかないと息子を海外の臓器ブローカーに売る、と言われていたようです。母親と一緒にさらわれていたようですが、今は無事が確認されています」
「奪還したのか」
「いえ、ことが終われば釈放する、と言われていたようです。指示された場所で二人が昏倒しているのを、通りがかった人が通報してくれたようで」
「‥‥瀬戸はどうしてる」
「今は警察に事情聴取をされてます。人気のない路地裏に車を移動するよう言われていたのでそれに従ったと。それから睡眠薬と弛緩剤を伽羅さんに飲ませていたようですね」
清永は傍にあったテーブルを拳でガンッと打ちつけた。大きな音が響いたが部屋の中の誰も何も言わない。清永の拳の皮膚が破れ、血が滲み出てきていた。
「‥俺の見通しが甘かった‥行き先は?」
「使われた車はいずれも偽造ナンバーのもので、少し離れた場所に乗り捨てられ、放火されているのが見つかりました。証拠隠滅のためでしょうね‥一応、科捜研が見ていますが、何か出るという可能性は低いと思われます」
淡々とそう言う警察官に、清永はばっと向き合ってその胸ぐらを掴み上げた。
「そんな話は聞いていない!伽羅がどこに連れ去られたのかその情報を持って来い!」
「‥落ち着いて、大洲さん。放してください」
「清永さん」
警察官と左柄が声をかける。清永は奥歯を噛みしめ、突き飛ばすようにして警察官の胸元から手を離した。
「十中八九、南戸寿々加の仕業だと思いますが、他の線もなくはない。‥うちのチームと警察で連携しながら捜索します。‥全力で捜索するから、清永さん」
左柄にそう言われ、清永はその場に崩れ落ちた。床に手をつき、唇を強く嚙みしめると、じわりと鉄の味が広がってきた。
「俺の、俺のせいだ‥俺が伽羅を望んだから」
「清永さん」
「俺は、普通の幸せなんて望むべきじゃなかった。与えられたものの中で自分の役割さえ果たしていればよかったんだ‥伽羅の『匂い』を感じたって探したりしなければ、会ったりしなければ‥」
「清永さん、」
「俺が‥俺のせいで」
「清永!」
左柄が鋭くそう呼んで清永の身体を引きずり上げ、がつん!と額に頭突きをした。鈍く重い痛みに、清永は頭を押さえて左柄の方を見た。左柄は顔を紅潮させ、ぐっと眉を寄せながら言った。
「大将がしっかりしていないとこの後の士気にもかかわる!しっかりしろ!現況を掴んで対処するぞ!」
清永は一度目をつぶって、深呼吸をした。そして目を開き、左柄の顔を引き締まった顔で見つめた。
「‥‥わかった。すまん愛善。‥やるぞ」
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