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清永は肩に回された腕を可能な限り静かに振り払って席を立った。
「すまん、伽羅。もう行こう。いいか?」
伽羅の皿にはまだポテトサラダが少し残っていたので、清永は申し訳なさそうにそう言った。その気持ちもよくわかったので、伽羅はひょいと残ったポテトサラダを口に放り込んで席を立った、口いっぱいにポテトサラダを頬張っているため、返事ができないのでうんうんと頷いてみせる。
気持ち程度の会釈をして伽羅の肩を抱き、立ち去ろうとした清永の腕を女性がぐっと掴んだ。
「清永さん、まだお話の途中です」
「私の方には話すことはありません。今夜、食事会もありますでしょう?そのときにでも。では」
思いのほか強い力で掴まれた腕を、ぐんと引いてもぎ離す。その時、初めて女性は正面から伽羅の顔を見た。
「あなた」
「っ、はい?」
急に話しかけられて戸惑った伽羅の声が、思わずうわずった。ふっ、と口角を上げて笑顔を作ると女性は言い放った。
「清永さんの隣にいていいような人物ではありません。さっさと清永さんから離れなさい、図々しい人ですね」
静かに笑顔で罵声を浴びせられたのは初めてだ。伽羅は呆然として、目の前の女性を見た。女性は蛇のように光る湿った眼付きで伽羅を下から上まで眺めまわした。
「清永さんのお情けに取りすがって、色々と整えてもらったようですけれど、所詮下賤な生まれの方でしょう?ご自分が清永さんにふさわしくない、ということもおわかりでないとは、その頭の悪さに驚きますね」
続く二の矢に射たれて、今度こそ伽羅は言葉を失くした。面と向かって、あからさまに他人を貶める人物を初めて見たのfだ。頭の中が真っ白になって、何も言葉が出てこない。口を開けたままぼんやりと立ちすくんでいると、清永がぐっと伽羅の身体を自分の方に引き寄せた。
「私がつきあう人物は私が決めます。南戸さんに決められることではないし、ましてや私の友人を愚弄することは許せない。‥‥今夜の食事は、キャンセルさせていただきます。伽羅、行こう」
清永は言葉を吐き捨てるようにして叩きつけ、伽羅の身体を抱え込むようにしながらその場を去ろうとした。後ろから、決して大きくはないのによく通る女性の声が響いた。
「駒江伽羅。私は南戸寿々加です。私こそが清永さんにふさわしいのです。あなたが図々しくも私がいるべき場所に居座るのなら、それ相応の覚悟をしておくことですね」
清永の掌が、ぎゅっと伽羅の肩口を掴みしめた。伽羅は思わずその手の上に自分の手を重ねた。はっとして清永が伽羅の顔を見て、微笑んだ。
「行くぞ」
学食を出て行く二人を、寿々加と大勢の学生たちが見守っていた。
学食を出てずんずんと歩いていく清永に連れられながら、どこに向かっているのだろう、と伽羅は思った。この後伽羅は講義があるのだが、その講義がある建物とは違う方向に歩いている気がする。
「あの」
声をかけるも、清永はずんずんと前を向いて進んでいくばかりでこちらを見てくれない。
「あの、清永さん!」
ひときわ大きい声を伽羅が出して、ようやく清永の足は止まった。ゆっくりと振り返って伽羅の顔を見つめてくる。その清永の表情は、怒りを堪えているような、苦悶に満ちているような、何とも言えない表情をしていた。その表情に思わずのまれそうになりながらも、伽羅は何とか自分の訊きたいことを口にのぼせた。
「あの、どこに向かっているんですか?私、次の講義、向こう側のD棟なんですけど‥」
伽羅の声を聞いた清永は、伽羅の腕を掴んでいた力をようやく緩めた。
「‥申し訳ないが、今日の講義はキャンセルしてくれ。単位に不備が出ないようにこちらで調整するから‥」
そう言って、清永は顔を片手で覆い、はあっと深いため息をついた。
「‥伽羅、さっきの人物、誰かわかるか」
伽羅はかぶりを振った。
「お見かけしたこともないです‥学生さんですか?」
「まあ、あれでも一応学生だろうな。院生だが‥本人も名乗っていた通り、南戸寿々加といって流通大手、南戸エキスプレスの会長の孫娘だ」
南戸エキスプレスの名前は伽羅でも知っている。つまり、清永の家に見合うほどの資産家の娘だということだ。
清永は疲れた顔で続けた。
「俺が、一番苦手な『匂い』の持ち主だ。一緒にいるだけで気分が悪くなるんだ‥当人にもそれとなく言ってはいるんだが理解はしてくれない」
「そ、れは‥大変ですね‥?」
「大変だ。‥‥だから、伽羅と出会えた時はほっとした」
伽羅は清永の顔を見上げた。清永は少し顔つきを柔らかくして言葉を続けた。
「やっと、俺が本当に安堵できる場所を見つけたと思ったからな」
「‥清永さん」
伽羅は、自分の気持ちをどう説明したらいいのかわからなくなって下を向いた。その伽羅の手を、清永がとって軽く握った。
そして、ぐっと顔を引き締めた。
「だから、伽羅を守りたい。‥あいつにはこちらの言葉が通じない。なんとなく伽羅もわかっただろう?」
伽羅は遠慮しつつも頷いた。同じ言語を話しているとも思えないあの気持ち悪さは、伽羅が初めて味わうものだった。彼女は清永の言葉ですら、その心に入れていないように見えた。
「だから、俺は伽羅と檀を守りたい。‥あいつはもう伽羅のフルネームを知っていたし、あの様子だとある程度伽羅の身辺のことも調べ上げていると思う。‥対策を練りたい。とりあえず今日は俺とともに行動してくれ。‥‥今日は家ではなく、ホテルに泊まってほしい」
「え?」
予想もしていない言葉が聞こえて驚いた伽羅はぱっと顔を上げた。苦しげな表情をした清永の顔がそこにあった。
「‥怖いんだ。俺の目の届かないところで、伽羅がひどい目に遭うことが」
そう言って清永は伽羅の胸に視線をやった。スカーフで隠されてはいるが、まだそこには治りかけの熱傷がある。
清永はそっと伽羅の頬に手を当てた。そして伽羅の顔にかがみこむようにして目を合わせた。清永の端正な顔が間近に迫ってくると、伽羅の胸はうるさいほどに拍動した。
お互いの目を見つめ合いながら、沈黙の時が流れる。清永は、何らかの逡巡を見せたが、意を決したようにそっと伽羅の額に唇を押し当てた。伽羅は清永の行動に驚き、身体が硬直してしまった。心臓が額に移動でもして来たかのようだ。
ゆっくりと唇を離すと清永はふっと顔を逸らした。
「‥突然‥勝手にすまない」
「あ、はい、いや、あの、いえ、」
緊張と羞恥と戸惑いと、様々な感情が伽羅の心の中で入り乱れて、清永に何と返事をしたらいいのかわからない。下を向いたまま、ただ顔を赤くして立ちすくんでいる伽羅を、清永はたまらず腕の中にかき抱いた。
「っ、」
ぎゅっとたくましい清永の身体の中に抱きこまれ、硬直していたからだが余計に緊張する。だが、清永からふわりと温かく爽やかな香りがした時、伽羅の身体からふっと力が抜けた。清永の身体からもどくどくと鼓動が伝わってくる。ああ、清永さんもドキドキするんだなあ、と思うと余計に力が抜けて、清永の胸に頭をもたせかけた。
清永は胸の中に抱いた伽羅の頭に頬を擦りつけながら囁いた。
「‥伽羅を守りたい。こんな状況に陥ったのは俺のせいだが‥それでも伽羅とともにいたいんだ。迷惑ばかりかけて、すまない‥」
その言葉を聞いた伽羅は、躊躇いながら清永の背中に腕を回した。清永のたくましい背中をぽんぽんと撫でるようにして叩く。
「あの、清永さんだけのせいじゃないと思いますし‥清永さんと知り合って、初めてのことも楽しいこともたくさんありましたよ!だから‥あんまり気に病まないでくださいね」
清永は、黙ってしばらくの間伽羅の身体を抱きしめていた。
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