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伽羅のひねられた腕は比較的早く治った。火傷も、初動の対処がよかったのか、ほとんど痕が残っていないようだ。まだ少しじくじくしているところがあるので、創傷被覆材は外せていないが、少しずつよくなっては来ている。
その報告を聞いた清永が、心からほっとした顔をしていて、それを見た伽羅はまた胸の奥がくすぐったくなった。
水曜日。今日は清永も共に水曜名物390円ランチを食べることになった。なぜ、水曜だけ食堂にいるのかを訊かれた伽羅が激安ランチの話をしたからだ。大学の食堂では昼食を取ったことがないという清永に、是非にといって伽羅が勧めた。
伽羅としては、いつもいろんなレストランに連れて行ってもらうよりは、値段も抑えめで自分も知っている学食の方がいい、というくらいの判断だったが、積極的に伽羅が勧めてくれた、というだけで清永は喜んでおり、少し伽羅は後ろめたく感じた。
水曜ランチは、大きめのプレートにすべて盛り込まれている「お子様ランチ」のような盛り付けになっている。今日は、油淋鶏風唐揚げにポテトサラダ、トマトが一切れにゴマ塩がふられたご飯、隙間に小さなカップに入った卵スープが添えられ、さらに缶詰のミカンが入った小さな容器もついているものだった。
唐揚げは大きめのものが四切れも入っている。今日は当たりだ!と思いながら伽羅はほくほくとして笑った。
学食のレーンに並ぶ清永の姿は非常に珍しかったようで、いつもより学食は混んでいた。それでも何となく伽羅と清永の周りは少し空間が開いている。清永の気難しさはそれだけもう学内で有名だということだろう。
近くに左柄もいるはずなのだが伽羅からのその姿が見えない。気にするな、と清永に言われたので、そういうものなのかな?とその姿を探すのをやめた。
人はたくさんいるのだが、席はまばらに空いている。窓側の席へ清永が自然に伽羅をエスコートするのを、周囲の学生たちは息をひそめながら見つめていた。
二人が座るとようやく学食の中の空気が動くようだった。ざわめき始めた気配を感じ取って、伽羅はまた首を傾げた。
「‥何か、今日は学食の雰囲気がいつもと違う気がしますねえ‥」
「うぬぼれているように聞こえるかもしれないが、俺がいるからだろ」
清永は唐揚げを口に入れて、少し目をみはった。思いのほか、うまい。
「普段清永さんは学食を利用することはないんですか?」
「そうだな、記憶にある限り初めてだ。‥今日は愛善もいるからまあ大丈夫だろ」
伽羅は大きな唐揚げをもぐもぐ咀嚼しながら、また首を傾げた。
「‥どういうことですか?」
清永は一度箸をおいて、言おうか言うまいか少し逡巡してから言った。
「‥たまに、俺に何か‥よくないものをのまそうとするやつがいるんだ」
今度は伽羅が目をみはる番だった。ごくっとまだ大きかった唐揚げの塊を無理やり飲み込んでから尋ねる。
「え?なんか‥毒、とか?」
清永は、ははっと笑った。
「さすがに毒はない。‥睡眠薬とか‥媚薬の類かな」
「びやく‥」
伽羅の頭の中で、その言葉がなかなか漢字に変換されないようなのを見て取った清永は、具体的な説明を補った。
「ま、俺を前後不覚にして既成事実を作ろう、と考えるやつがいるってことだ」
伽羅は驚いてぽかんと口を開けた。‥令和、二十一世紀のこの現代に、そんなことを本当にたくらむ輩が、こんな身近にいようとは。
「え、‥今まで、も、そういうこと‥あったんですか‥?」
「ああ。‥幸い今まではすべて未遂に終わってるがな」
清永の返事を聞いて、自然と伽羅はため息をついた。
「‥よかったです‥」
その言葉を聞いた清永がぱっと伽羅の方を見た。
「伽羅、その『よかった』、ってどういう意味の『よかった』なんだ?」
急に問われて、伽羅は呆気にとられた顔をした。
「へ?どう、いう意味、って‥」
「俺が、既成事実を作られなくてよかった、ってことか?」
畳みかけるように言われて、伽羅は清永の勢いのままに頷いた。
「まあ、そうですかね‥?」
「つまり、俺が他の女のものにならなくてよかった、ってことだな?」
そう言って清永はにやりと笑った。伽羅は清永の言わんとするところがわかって、顔を赤らめた。そういうつもりで言った言葉ではなかったのだが、改めて清永にそう問われると、自分の中にそういった気持ちがなかったとは言い切れない。
否定の言葉が出ないまま顔を赤くしている伽羅を、清永は満足そうに眺めながら水曜ランチのプレートを平らげていった。
少し離れた場所から見守っていた左柄は、急に清永が機嫌よさそうにもりもり食事を取っているのを見て、くふっと胸の内で笑った。
(‥坊ちゃん、どんどん人間らしくなってきたなあ)
いつも気を張って周りの人間を見定め、また周囲の期待にも応えながらも、不快な『匂い』にも耐えてきたこれまでの清永の人生を思えば、この数日での清永の変化は喜ばしいものだった。
『いい匂い』の人物をはっきりと突き止めるまで、清永はかなり苛々した時間を過ごしていた。ようやく伽羅が特定できた時、清永は今まで見たことのないような顔を見せて喜んだ。清永の恋がうまくいくことを、左柄は心から願っている。小さいころから自分を律して家のために色々と努力してきたこの幼馴染を、左柄は弟のように思いかわいがっていたからだ。
今では雇用主と雇われの身、という関係性をしっかり認識してはいるが、どうしても私情は入ってしまう。伽羅や檀が気持ちのいい人物であることを誰よりも喜んでいたのは左柄かもしれない。
そんなことを回想しながら二人を見つめていた左柄の目が鋭くなった。目の端に入ってきた人物の顔が見えたからだ。
「清永さん」
その人物はゆっくりとした歩みで清永と伽羅が座っているテーブルに近づき、おもむろに清永の隣にするりと腰かけた。
見たことのないこの闖入者に驚き、伽羅の箸が止まった。声をかけられた清永は、一瞬眉をひそめ口元を覆ったが、声に出してはごく普通に振舞った。
「南戸さん、こんなところにおいでとは」
その声音には隠しようのない嫌悪がにじみ出ていた。伽羅でさえそう感じ取ったのに、清永の隣に座ってその腕に手をかけたこの女性は、顔色一つ変えない。艶々とした黒く長い髪は無造作に後ろに流されているが、一筋たりとも乱れがなく、さらさらとしている。大きな瞳に長い‥長すぎる睫毛、桃色に色づけられた頬、潤んだような唇。
よく作られた美しい顔立ちの女性だった。
女性は全く伽羅のことを気にしていない。少しずつ清永が身体を避けているのにも関わらず、ぐいぐいと近寄りながら清永の腕を撫でさすっている。
「それはこちらの台詞です。こんなところには普段お見えにならないでしょう?私、お友達から清永さんがこちらにいらっしゃると聞いて、驚きのあまり急いでこちらに参ったんですよ」
女性はそう言ってにっこりと微笑み、手に取った清永の腕に、自分の身体を擦り付けた。
すぐさま、清永は腕をひねって女性の身体から離れたが、女性はそれでも何とも思わないようでただにこにこと微笑んでいる。
清永は椅子ごと移動して、あからさまに女性から距離を取った。
「南戸さん、以前からもお願いしておりますが、名前で呼ぶのはやめてください。あらぬ誤解を受けかねません。迷惑です」
冷たい声でそう言い放つ清永に驚きもせず、女性はゆっくりと立ち上がった。そして清永の椅子の横まで来ると馴れ馴れしく肩に腕を回した。
「あら、でもいずれそうお呼びすることになるんですから‥今お呼びしないなんて、無駄でしょう?」
女性は柔らかい声でそう言って、またにっこりと笑った。
伽羅は至近距離でこの一連のやり取りを眺めていたが、得も言われぬ気持ち悪さを感じ取っていた。女性はすらりとして姿もよく、顔かたちも美しいし身なりもきちんとしている。一見、非の打ちどころのないように見えるのに、伽羅は彼女を見ていると背中に冷たいものが走る気がするのだ。
さらに言うなら、清永の真ん前に座って食事をしていた伽羅のことを全く見ないのは、意図的だとしか思えない。
この人‥苦手だ。
伽羅は約二十年間の人生で、初めて他人にこうした感情を持った。
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