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檀はその文が表示された画面をしばらく見つめてから、短く
『わかりました』
と返信して、やり取りを終えた。
ふと生まれた心の中にあるもやもやは、晴れないままだった。
日曜には檀も連れられて、聞いたこともないフレンチレストランに連れていかれた。
連れていく前に、清永は檀にもふさわしい服装を与えようかとも考えた。が、今回はごく私的な食事であるうえ、個室での利用だったのでいいかと思い、平服で来店した。
食事はフルコースでの提供だったので、駒江姉弟には置かれたカトラリーの数が夥しいものに感じられた。二人は目を見合わせて困った顔をした。
「‥あの、清永さん、私たちこういうお店に来たことがないので‥これ、どれから使ったらいいんですか?」
清永は優しく微笑んで説明してくれた。
「基本的には外側から使えばいい。でも、今日はプライベートルームでの内輪の食事だし、あまり気にしなくていいぞ」
「ありがとうございます」
こぢんまりとした落ち着いた個室で、清永と左柄、伽羅と檀の四人でテーブルを囲む。テーブルには銀のカトラリーと真っ白な皿が置かれ、季節の花々が美しくしつらえられていた。
本格的なフレンチのフルコースを食べるのは無論伽羅も檀も初めてである。おっかなびっくりカトラリーを使いつつ食べ進める。食事自体は食べたことのないものが多く、複雑な味わいがあっておいしい。
アミューズ、オードブル、スープと来て、温かいコンソメのスープをスプーンですくった檀が、少し吹き冷ました。すると、提供していたギャルソンが檀の横に来て囁いた。
「スープは吹き冷まさないものでございます」
檀は顔を赤くして「すいません‥」と謝った。伽羅は、心にもやっとしたわだかまりを覚えたが、清永の知っている店だろうしと思い、言葉を押し込めた。清永と左柄は、たまたま二人で話していて、その様子には気づいていないようだった。
次に魚料理が供された。鱸のタプナードだった。檀は慣れない手つきで魚料理用のナイフとフォークで格闘し、口に運んでいた。すると先ほどのギャルソンがまた檀の横に近づいた。思わず伽羅は身構えた。
「お魚の身は裏返さないものでございますが」
檀はかーっと赤くなり、カトラリーを置いてしまった。さすがにそれに気づいた清永がギャルソンを咎めようとしたとき、伽羅がガタンと立ち上がった。
「ここはご飯を食べるところですよね?しかも個室で、お客さんは私たちしかいないところですよね?なぜ一従業員であるあなたに、そんな言い方をされなくちゃならないのですか?」
伽羅はぐっと力を込めた目でギャルソンを睨み返した。横で檀がおろおろとギャルソンと伽羅を交互に見つめている。左柄は面白そうに成り行きを見つめているし、清永もなぜか何も言わないままだ。
清永が何も言わないことに気を大きくしたのか、ギャルソンはにやにやと不遜な笑いを引っ込めることなく、伽羅を見て慇懃に言った。
「当店はフレンチでも格式あるレストランでございます。失礼ながら、お客様はこういったレストランは初めてのようにお見受けしましたので、ご助言をさせていただいただけです」
伽羅は普段のおっとりした態度が信じられないような激しい口調で言い返した。
「どんな格式のあるレストランであろうが、従業員がお客様に不愉快な思いをさせた時点でお察しです。あなたのような人が働いている、このお店なんて三流以下です。私が働いていた食堂はこんなところとは比べ物にならないくらいの値段の店でしたが、お客様を不愉快にさせたことはありません。
ホスピタリティがないのなら、接客業をするべきじゃありません!」
一気にそう言い切ると、伽羅は横でおろおろしていた檀の手を取って「帰ろう?」と言い、立ち上がらせた。そしてそのまま
「清永さん、ごめんなさい。失礼します」
と言って個室から出ようとした。
すると、清永も立ち上がった。
「そうか、では俺も帰ろう」
ギャルソンの顔が真っ青になった。清永はきっとこちら側だ、だから何も言わないのだと高を括っていたのに、まさかこの礼儀知らずな者たちと帰るとは。
「あ、あの大洲様、お待ちください、まだこのあとのお料理‥ソルベや肉料理、デセールもあります、あの」
「‥どうもこの店のレベルは落ちたようだ。ホスピタリティのないレストランで食事をしようとは思わないのでな」
「大洲様っ‥!」
左柄もすっと立ち上がり、個室のドアを開けた。そのまま伽羅と檀が出て、清永が続く。蒼くなって立ちすくんでいるギャルソンを尻目にさっさとレストランのドアに向かうと、慌てふためいた支配人が奥からまろび出てきた。
「大洲様、何か不手際でもございましたでしょうか?まだコースの途中ですが‥」
「ああ、この店は客を選ぶようなんでな。俺の連れが気にくわないようだから帰らせてもらうよ。せっかくこの店を選んで食事に来たのに、台無しだった」
清永の言葉を聞いた支配人の顔が紙のように白くなった。一瞬絶句したものの、ドアから外へ出ようとする清永に縋りつかんばかりにして話しかけてくる。
「申し訳ございません!どのような失礼があったかわかりませんが、こちらの落ち度でございます!どうか、お食事を続けてはいただけませんか?」
必死に言い募る支配人の姿を見た伽羅は、なんとなく決まりが悪くなった。もとはといえば、自分の短気でここから出ようとしたのが発端だ。この支配人の口ぶりからいって、きっと清永はこの店との付き合いもあるのだろうし、自分に合わせることはない。そう思って清永に声をかける。
「清永さん、あの、私たちは構わないので清永さんはここに残られたら‥」
「俺は、伽羅たちと、食事がしたいんだ」
清永は伽羅の顔をじっと見つめて言った。そしてふっと笑った。
「楽しく、食事をな」
清永は支配人の方へ向き直った。支配人はもう倒れんばかりに顔色が悪い。
「申し訳ないが、今日、ここで食事をしても楽しくなれない。失礼させてもらう」
「大洲様!」
呼びかける支配人に構うことなく、清永は伽羅の背を支えながらドアを押して外に出た。左柄はずっとタブレットを弄っていたが、さりげなく檀の後ろに立って外へと促してくれる。清永は電話をかけて車を呼んでから、檀の方を向いた。
「檀、すまなかった。嫌な思いをさせたな」
そう言って頭を下げる。檀はぎょっとしてぶんぶん両手を振った。
「やっ、やめてください!俺がもの知らずだっただけで、大洲さんは何も悪くないじゃないですか!」
「そうです、私がカッとなって喧嘩を吹っかけちゃったから‥」
横で伽羅もシュンとして清永に頭を下げる。
「清永さんのお知り合いのお店なのに、申し訳なかったです」
「いや、俺が悪かった。あんな店に連れていった俺が悪い。伽羅がああいうふうに言ってくれてよかった」
清永はそう言って伽羅の頭を撫でた。そして檀に向かってもう一度頭を下げた。
「悪かったな、檀。でもフレンチにはいいレストランもたくさんある。これで嫌いにはならないでくれると嬉しい」
「はい!」
檀はそう返事をして、笑顔を作った。これ以上、気まずい空気にしたくなかった。
いつもの黒い車が静かに四人の近くまで来て停まった。左柄が車のドアを開けて、三人を乗り込ませる。自分は助手席に回って乗り込むと、後部座席の方を振り向いていった。
「俺の知り合いのお好み焼き屋に連絡したら、今四人空いてるそうなんでそこに行きませんか?」
「いいな。二人ともどうだ?」
「大丈夫です」
車は左柄の指示した店に向かって走り出した。
同じころ、檀を馬鹿にしたギャルソンは、支配人からの即時解雇通告を受けていた。それを告げた時に支配人は苦々しげに付け加えた。
「このことはレストラン協会にも通告しておく。お前は今後、名のあるレストランで雇ってもらえると思うなよ」
ギャルソンはそう言われて、力なく肩を落とした。
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