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「あの、はい、そうかな?え~とまだよくわかりません!」
考えでもわからなくなって、考えること自体を放棄した伽羅の叫びを聞いて、清永はくっくっと声を上げて笑った。そしてゆっくりと伽羅の手から自分の手を離す。
「じゃあ、わかるまつきあってもらうかな‥伽羅は今日の講義は午前で終わりだよな?」
「あ、はい、1コマと2コマだけです」
「では今日の午後は、俺につきあってもらおう。‥一限は左柄が教室に行く。二限は俺も一緒に受ける。‥もう絶対に伽羅を一人にはしないからな」
真顔でそういう清永に、伽羅は一瞬何と言っていいのかわからず、目を逸らした。だが清永は何も言わず、伽羅の頭を撫でただけだった。
清永の宣言通り、一限目の講義には左柄が入ってきて伽羅の方に向いてにこっと笑うと、少し離れた席に座った。左柄さん、この講義取ってたのかな‥?と不安になりながら講義を受ける。昨日、伽羅に珈琲をかけた学生も、一昨日伽羅の腕をねじり上げた学生もそういえば姿を見ていない。
また一緒になったら少し気まずいなあ、と思っているうちに一限が終わる。他の学生は気づけば伽羅の方を見て何やら言っているようではあるが、前ほどはっきりとした声は聞こえてこない。じゃあ気にしなくていいか、と次の講義の教室に移動する。
その移動の途中にも左柄が少し後ろについて歩いてくる。あの、と声をかけようとしたら左柄がわずかに首を振って目を逸らした。話しかけるな、ということらしい。
自分と関係があるとわかったら何かまずいことでもあるのかな、と思って声をかけるのをやめた。
二限目の教室の前には、清永が廊下の壁にもたれて待っていた。伽羅の姿を認めると軽く手を上げる。そんな姿も何かのポスターみたいで様になってるなあ。と伽羅は感心した。
「清永さんて、本当に同じ人間なのかな?って疑うレベルにお姿がいいですねえ」
思わずそういった伽羅に、清永は噴き出して笑った。
「お姿がいい、って‥初めて言われたなあ。伽羅の言葉はなんだか独特だな。いつもそんな敬体で話してるのか?」
伽羅はう~んと考える。
「そうですね‥砕けた感じで話すのは‥檀だけかもしれません」
それを聞いた清永が少し顔を顰めた。
「‥そのうち、俺の前でも砕けた感じで話してくれ」
「う~ん?‥難しい気がしますが‥」
「言葉が崩れるということは、それだけ伽羅が気を許しているということだろう?‥‥俺は今、檀に負けてるってことだ。それが気に食わない」
不機嫌さを隠しもしない清永に、今度は伽羅が噴き出した。
「だって、檀は弟ですよ?なんか違いませんか?」
「それでも、だ。今後の人生の中で、俺はいつも伽羅の一番でありたい」
それを聞いた伽羅は真顔で清永に向き直る。
「檀より誰かを優先するのは‥‥檀に、私よりも大事な人ができてからです」
はっきりとした声でそう言い切る伽羅の様子にのまれたようになって、清永はその顔を見返した。伽羅の顔には強い意志が現れている。
両親が亡くなってから、いかに伽羅が檀のことに心を砕いているかがわかる言葉だった。
清永はその言葉を噛みしめながらも、ゆっくり言った。
「では、それまで俺は待つよ。だが、俺も遠慮はしないからな」
射すくめるような清永の視線に、伽羅は思わず立ち止まった。清永はすぐ伽羅の背中に腕を回し、動くように促した。
広い教室の中、並んで座っている清永と伽羅の周りだけ、ぽっかりと隙間が空いていて隔絶されたような状態だった。講義に訪れた講師もその様子を見て首をかしげていたが、講義が進むうちに忘れてしまったようで何事もなくその時間は終わった。
だが講義が終わった後、伽羅の背中に手を回し荷物を持って甲斐甲斐しくエスコートをする清永の姿に、学生たちはまたひそひそと話をしているようだった。離れたところに座っている左柄が何気ない様子で耳をすませている。
清永は全くそういったことを意に介さず、するすると教室を出て学外まで伽羅を連れて行った。お馴染みの黒い車がまた二人を待っている。
「あの、今日はどこに行くんですか?」
「買い物だ。後、ヘアサロンだな」
「清永さん髪を切るんですか?」
「俺じゃない」
‥‥じゃ、誰が?
首を傾げた伽羅を見て、清永がにやっと意地悪そうに笑う。
「伽羅の髪を手入れするんだよ。その長さにこだわりあるか?」
伽羅は目を丸くした。私の髪の手入れ?
「いえ、別にない、ですけど」
「じゃあついてきてくれ」
まだよくわかっていない伽羅が、やや首を傾げているうちに、瀟洒な佇まいのビルに車は着いた。清永に手を引かれ、そのビルの二階に上がる。看板も何も出ていないガラスの扉を清永は躊躇なく開ける。
「お待ちしておりました大洲様」
三十代と思しき、きりりとしたショートカットの女性がすぐに出てきて挨拶をする。清永は鷹揚に頷いて伽羅の背をそっと押し出した。少したたらを踏む形になって伽羅が前によろめき出る。
「この人だ。頼む」
「かしこまりました。大洲様はいかがなさいますか」
「ああ、邪魔にならないなら横で見ていたいな」
「無論構いません。お部屋に余裕もございますし‥お客様、初めまして。当サロンを経営しております安西と申します」
ショートカットの女性はにこりと笑って軽く伽羅に頭を下げた。伽羅もあわてて頭を下げる。
「こっ、こんにちは、あの、駒江伽羅と申します」
「駒江様、今日は駒江様のヘアカットとスタイリング、それからメイクとその方法をお伝えするということで大洲様から承っております。よろしくお願い申し上げます」
滑らかにそう言いながら、サロンの奥の方へ案内される。つまりここは美容室、ということだろうか?看板もない、お客さんも見えない、こんなところに来たのは勿論伽羅は初めてだ。
白い壁に囲まれた細い廊下を通り、アイアンの取っ手がついた木製のドアを開けると、10畳ほどの広さの部屋があった、大きな鏡と椅子、奥には洗髪台、壁際にはゆったりしたソファが据えられている。
安西は伽羅を鏡の前に座らせると、てきぱきとケープを回しかけた。その間に清永はさっさとソファに腰を落ち着ける。
「駒江様、いくつかご質問をさせていただいてもよろしいでしょうか?」
鏡越しに安西がにっこりと笑顔を見せた。
そこから安西の、押しつけがましくはないながらも有無を言わせず必要な情報は取っていく、という恐ろしいコミュニケーション能力がいかんなく発揮され、伽羅は自分がいかにヘアケアやスキンケアを怠っていたか、という現状を、全て詳らかにされてしまった。
安西の巧みな誘導に思わず答えてしまいながら、
「‥‥こうやってお話してるといかに自分が何もしてなかったかがわかるのでっ‥!もう勘弁してください~」
と、途中で伽羅は泣きを入れた。それを聞いた安西はふふっと含み笑いをしながらまた鏡越しに伽羅に言った。
「大丈夫です、できるだけ簡単にできるようお伝えしますから」
そこから安西が、完全紹介予約制個人サロンを経営しているその腕を余すところなく振るい始めた。
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