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「大丈夫ですか?かなり熱そうですね、隣のトイレで水をかけてきてください。服の上からですよ、いいですか」
熱さに身悶えしている伽羅に声をかけているのは、銀色フレームの眼鏡をかけた青年だった。陸もその隣に座って声をかける。
「伽羅、大丈夫か?おい」
「あ、つい‥痛いかも‥」
眼鏡の青年は陸に向かって言った。
「隣はユニバーサルトイレもありますから、あなたがついて行ってお水で冷やしてあげてください」
「わかった」
陸はそう答えて伽羅のリュックを背負い、ゆっくりと手を取って立ち上がらせた。胸から腹にかけて珈琲の色が染みている。
二人が教室を出ると、コーヒーをかけたと思しき人物の方に眼鏡の青年は向き直った。
「なぜ、あんなことをしたんですか?」
伽羅に珈琲をかけたのは昨日のふたりとは違う女子学生だった。女子学生は、何も悪びれる様子もなく、空になった保冷ボトルをぶらぶらと振った。
「しょうがないじゃない、これ飲もうと思ったらつまずいちゃって中身をぶちまけちゃったのよ。‥あの子も鈍くさい子ね、もろにかぶっちゃって」
「‥飽くまで、事故だと?」
女子学生はそう言う眼鏡の青年の顔を見て、ふん、と鼻を鳴らした。顔は卑しく笑っている。
「そうよ、何、私がわざとやったとでも言いたいわけ?すっごい言いがかり!謝ろうと思ったのに、あんたがトイレに行かしたんじゃん」
眼鏡の青年はすっと女子学生の傍に寄った。近くに来られると青年は背も高く威圧感があったので、女子学生はびくっと身を引いた。
眼鏡の青年は女子学生の前に手を出した。
「学生証」
「‥はぁ?」
「学生証、出してください。彼女が病院に行って、熱傷の程度が重ければあなたに賠償責任が生じますよね。ほら、早く」
周囲にいる学生たちも、なかなか教室からは出て行かず事の成り行きを最後まで見届けようとしている。大勢の人間からの圧を感じたのか、女子学生は苛々した様子を隠しもせず鞄から学生証を出して、青年の前に突き出した。
「ほら!国際学部の田橋恵美よ!これでいいでしょ!」
ちらっと見せてからすぐに引っ込めようとしたその学生証を、何をどうしたものか眼鏡の青年はひょいっと取り上げた。あっ、と田橋が驚いた隙に自分の携帯電話を出してカシャリと両面の写真を撮った。
そしてぽい、と投げ返す。
「何かあればあなたに連絡がいくようにしておきます」
何よ感じ悪い!と大声でぶつぶつ言いながら、田橋は他の学生と一緒に教室を出て行った。
眼鏡の青年はその後姿を確認しながら眼鏡の蔓の部分を操作した。この眼鏡には高性能カメラレンズが内蔵されており、今青年が撮ったのはコーヒーをかけた女子学生と連れ立っていた二人の女子学生の姿だった。斜め前からのアングルも取れているので、身元の確認はたやすいだろう。
この眼鏡の青年こそ、左柄愛善だった。もう少し伽羅の近くに座っていたら、コーヒーをかけられる前に助けられたかもしれなかったのに、と左柄は胸の中で舌打ちをした。気配を消す方を優先してしまった自分の判断ミスだ。とはいえ、犯人とその仲間の身元はわかっている。あとは清永の指示に従うだけだ。
何よりも清永に連絡をしなくては。左柄は右耳の奥に仕込まれているイヤーピースを操作した。
「‥わかった、すぐに俺も向かう。いつもの病院に‥そうか。‥構わない、伽羅の身の安全が優先だ」
横で電話をしている清永の言葉の中に、姉の名前が出てきて檀は思わず清永を見やった。眉をぎゅっと寄せて難しい顔をしている。電話を切った後、小さく「くそっ」と毒づいたのが聞こえた。
「檀、伽羅が熱いコーヒーをかけられて火傷をしたらしい。程度はわからないが、すぐに病院に向かうように言ってある。俺達もそこへ向かうぞ」
「ええ!?はい、あの、姉は大丈夫なんですか?」
「わからん、意識はあるし大怪我ではないようだが‥服の上からかけられているから服を脱がしてみないと」
「あ、そか、‥うん」
清永は運転手に行き先を告げると腕組みをしてむっすりと唇を引き結んだ。そのまま病院に着くまで、一言も言葉を発しなかった。
清永と檀が病院に着いた時には、すでに伽羅の治療は終わっていた。付き添っていた左柄が清永の姿を認めて右手を上げる。
大股に近づいた清永は、低い声で尋ねた。
「犯人は?」
「別口ですね」
左柄はそう言って眼鏡をくいっと上げるしぐさを見せた。清永が一層厳しい目で左柄を見ると軽く頷いて扉に視線を向けたので、左柄の後ろにある引き戸を開けた。
中には診察台に病院着を着て横たわっている伽羅がいた。看護師が何かの作業をしていたので、軽く清永は頭を下げた。
「もうお帰りになって構いませんが‥」
看護師はそう言いかけて声を潜め、清永を促して外へ出た。何事かと怪訝な顔つきで看護師を見ると、看護師は心配そうな顔でこちらを見て言った。
「あの方、昨日は腕の外傷で来られたんですよね?‥そして今日は熱傷って‥何か事件とかでしたら警察に言っていただかないと、こちらとしても対応に困るんですが‥」
清永はぐっと喉に何かが詰まったような気がした。
自分が声をかけてから毎日伽羅が傷つけられている。
そのことに気づかされたからだ。
心配そうな、しかしどこか少し訝しげな年配の看護師に、「わかりました」と言って礼をした。看護師はあまり納得してはいないような様子だったが、しぶしぶその場を去っていった。
改めてもう一度部屋に入る。先ほどは目をつぶっていた伽羅だが、今度は目を開いていた。
「清永さん」
伽羅は身体を起こそうとして「痛っ」と呻いた。清永は慌てて伽羅に近づき、その背に手を当てた。
「無理に起きるな」
伽羅はへにゃっと笑った。眉が下がっている。
「なんか、‥迷惑ばかりかけてすみません」
清永は、自分が情けなくなった。迷惑をかけているのは明らかに自分なのだ。
「‥‥迷惑なんかかけてない。多分、俺のせいだ‥すまない」
「いえ、私が鈍くさくって避けられなかったんで‥清永さんのせいじゃないですよ、その場にいなかったのに」
伽羅の言う一言一言が、清永の胸を柔らかく刺す。ぐっと奥歯を噛みしめながら、横になるように伽羅を促した。素直に横になる姿に、きっと辛いのだろう、とまた胸が痛くなった。
その時また引き戸が開けられて、左柄と檀が部屋に入ってきた。檀が「姉ちゃん!」と言いながら伽羅に駆け寄った。伽羅はまたへにゃりと笑ってみせた。
「姉ちゃん大丈夫か?服はどうしたんだ」
「あ〜前面にコーヒーかかっちゃって‥ちょっと着られないんだよね。家から着替え持ってきてもらってもいい?」
案外元気そうな姉の言葉に、檀は少しだけほっとした顔を見せながら尋ねた。
「それは全然構わないけど‥怪我は大丈夫なのか?」
「うん、軽い火傷で少し水泡ができてるからこうやって覆ってもらってる。後は家でも交換すればいいから‥」
胸からちらりと覗いている創傷被覆材が痛々しい。しかし姉の顔がそこまで暗くないのが救いだった。
「じゃあ俺今から着替えを」
「必要ない、もうすぐ届く」
姉弟の会話を清永が遮った。ん?と不思議そうな顔をする姉弟に、清永は言葉を続けた。
「伽羅の洋服と靴をいま届けさせてる。もう少ししたら届くはずだから待ってろ。この部屋に来るはずだ」
姉弟はお互いに顔を見合わせて、もう一度ん?という顔で清永を見た。清永の後ろで腕を組んで立っている左柄が、肩を震わせてくつくつ笑っている。
「持って、来るとは‥?」
「知り合いの店に、適当に見繕って持って来いと言ってある。だからもう少し待て」
え?
駒江姉弟は、三度目の疑問顔で清永を見た。清永は固く口を引き結んだまま、それ以上話そうとしない。珍しく、伽羅とも目を合わせようとしなかった。
ここでくつくつ笑っていた左柄が後ろから声をかけた。
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