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可能の「足りない」を寄せ集め

作者: 藤波

 ペダルの重さを一番軽くして、ぐるぐると足を回しながら自転車を漕ぐ。まばらなくもの隙間から、薄い空色が此方を見降ろしている。雨が降らなくて良かった、とナナは思った。歩きでは時間がかかりすぎてしまう。

 大通りで最近小学生と車の接触事故があったせいで、夕方になると地域のボランティアが見回りをしている。別にやましいことがあるわけじゃないけれど、なんとなく道路の所におじさんが立っていると、警察に見張られているみたいな居心地の悪さがあった。ナナは小学校高学年にしては身長が低く、小柄だ。高学年になれば、習い事もあるだろうからと、夕方六時くらいまではひとりでうろうろしていても何も言われないはずなのだけれど、ナナは良く声を掛けられた。お嬢ちゃん、ひとり? 親御さんは? ――心配からくる質問なのだろうけれど、ひとりで出歩くのをとがめられているようでうんざりした。生きて来た年齢じゃなくて、心の年齢で見た目が変わればいいのに、とナナは思う。わたしはひとりでなんでもできる。ご飯を作ることも、お風呂に入るのは勿論、遠くの駅までだって、自転車があれば行けてしまえる。

 本屋の横に、乱雑に自転車が止まっている。あいた隙間に差し込むようにして駐車すると、鍵をかけてポケットにしまった。この間母親と行った百円均一で買ったキーホルダーに付いた鈴が、ちりんと鳴る。

 今日は、ナナの大好きな漫画の発売日だった。先日寄ったコンビニで、単行本の発売日を急いでチェックしたから間違いないはず。七月四日。七月四日。家に着くまで忘れないように心のなかでつぶやいて、メモをとった。父親が気まぐれで買ってくる週刊誌の連載のひとつ。魔法使いの女の子と、勇者の男の子の冒険活劇。世界を滅ぼそうとする魔王との、最終決戦。庭の草むしりや、お風呂掃除などを手伝ってお小遣いを貯めて、コツコツと単行本を集めてきた。どうしても最終巻を当日に買いたくて。

 やっと手に入る。

 本屋の重いガラス扉を開けようとする。向かい側から人が来て、容易くドアを押し、先に通してくれる。別に自分で出来るのに、と思いながら会釈をする。親切にしてくれただけ。分かっているけれど、「どうぞ」という笑みは少しだけナナを攻撃する。すり抜けるようにして中に入り、二重扉の前に立つ。自動ドアが開いて、ふわっとしたインクと紙のにおい――本屋さんのかおりが広がった。

 今週の新刊、と書かれたハードカバーのコーナーが真っ先に目に入る。立ち寄りたいけれど、生憎今はお金がない。お父さんとお母さんと来た時に考えようと目を瞑って、コミックコーナーへ小走りで近づいていく。本を整理しているおじさんと目が合って、スピードを落とす。隣を通り過ぎた後、また少しだけ速く足を動かした。

 コミックコーナーの机は、ナナには少しだけ高い。背伸びするようにして、一冊一冊確認していく。薄いセロハンに包まれた漫画に貼られた「七月四日発売」のシールをさがす。ない。分かりやすく置かれたメモスタンドの、店員が書いたメッセージを読む。話題作。アニメ化。注目の新刊、と書かれた漫画を手に取ってみるけれど、販売日は先月。

「何か探してる?」

 緑のエプロンを着た女の人に声を掛けられた。戸惑うナナに優し気な目が向けられる。子どもに話し掛けるみたく、膝に両手をのせ、前かがみになって、視線を合わせる。わずらわしい、とナナは思う。この間読んだ本で覚えた、"おとなみたいな"言葉だった。なんでもありません、と逃げ去ってしまいたい気持ちと、新刊の所在を聞いたほうがいいのではないかという気持ちで、心が揺れる。日が落ちたら面倒だ。宿題はとっくにおわっているけれど、観たいアニメもある。

「七月四日発売の、レジ・マジ、探してるんですけど」

 一息で話せば、女の人は目を大きくした後、困ったように笑った。「ごめんなさい。新刊が届くのは明後日なの」。そんなはずはない。本誌には七月四日と書いてあった。「東京と此処じゃ、発売日に少し差があるの。まだ届いてなくて……」でも発売日は。だけど。心の中で思いながら、黙っていると、彼女があやすようになだめようとしてくるから、ナナはどっと疲れてしまった。誰のせいでもないけれど裏切られたような気持ちで、肌に張り付くTシャツを引っ張り、風を送り込みながら本屋を出る。だって発売日って書いてあったのに。だって。だから。だけど。じゃあなんのために……。


「あれ、ナナ?」

 顔を上げる。「ロクちゃん」と呟く。ダークグレーのTシャツに、短いタイトスカートに、透明のサンダル。小さいビニール袋に、水滴がたくさん浮かんでいる。ロクちゃんは近所に住む、シャカイジンのおねえさんだった。数年間トーキョーで働いて、こっちに転勤してきたらしい。年の離れた妹が居て、その子はナナが卒業後通う中学校に行っていると聞いた。妹のほうとはあんまり会わないけれど、ロクちゃんとは頻繁に会った。こうやってアイスを片手によく散歩しているからだ。

 ロクちゃんは良く週刊誌を公園で読んでいる。アイスを片手に、またはサンドイッチを片手に、ブラックコーヒーかビールを飲みながら。前は煙草を吸っていたけれど、子どもが来るとすぐに火を消していたから、ナナは彼女のまわりに漂うにおいしかしらない。

 ロクちゃんはこの場所で育って、大人になって、トーキョーへいった。そしてまた帰って来た。ナナの母親も、ロクちゃんのお母さんも、みんな彼女と話すとき、子どもへ語り掛けるようないたわりを見せる。それが、ナナはあまり好きじゃなかった。


 「ロクちゃんはなんでここに帰って来たの」と聞いた時、彼女は快活に笑って「水がまずかったから」と笑った。ふうんそうなんだ、とナナは思った。確かに、関東に住むおばあちゃんの家に遊びに行ったとき、水道水を飲んだら最悪な気持ちになった。週刊誌のインクがどばどば使われたページをめくっていると、隣に座っているロクちゃんが笑ったのを覚えている。

「ナナは大人だなあ」

 大人っぽいね、とか、子どもらしくないね、じゃなくて、「大人だなあ」と言ってくれる人は、ロクちゃんしかいなかった。ナナは負けちゃったな、みたいな言い方で「大人だなあ」というロクちゃんの、唇からのぞく八重歯がすきだった。



「どしたの、こんなとこまで」

 漫画を買いに来た、とは言いにくかった。「暇だから本屋に来ただけ」と言うと「ふーん」と返事が返ってくる。ソーダ味のアイスをばりばり食べながら、ロクちゃんが笑った。

「レジ・マジの新刊買った?」

 すげえよかったよな、というロクちゃんに、言葉が出なくなる。なんでロクちゃんは新刊のこと知ってるんだろう。だって、この本屋には売っていないはずなのに。週刊誌の話をしてるんだろうか。いろいろと考えながら黙っていると「まだ?」とロクちゃんが首を傾げる。

「ううん」

 咄嗟に嘘をついた。無意味な嘘。でも、知らないと言いたくなかった。ロクちゃんに、「知らない」という言葉は使いたくなかった。

「表紙、勇者様とレジョでしょ。きらきらする加工されてて、最終巻にふさわしかったよね」

 これは週刊誌に書いていた情報だ。ドキドキしながらロクちゃんの様子をうかがう。綺麗なひとえが、糸のようになる、ナナの好きな笑顔。

「な! つい透明のカバーかけちまったよ。オタクっぽいと思いつつさー。やっぱり表紙は一番いい状態で保存しておきたくて……」

 なんで嘘をついてるんだろう、とナナは思いながら「うん」「そうだね」「あはは」と繰り返す。そうだね。うん。そう。その通り。

「にしても、やっぱりナナは大人だな。通販知ってるなんて」

「通販」

「この辺じゃ、単行本発売日に買えないだろ。私が学生の頃も苦労したなあ」

 ネット通販。そんなものがあったのか。それでお父さんに頼めば、当日に読めたし、ロクちゃんに嘘をつかなくても済んだんだろうか。

 そう思ったらすでに、涙が出ていた。

「ど、どうしたんだよナナ」

 困った顔でロクちゃんが近づいてくる。ガサガサとコンビニ袋が揺れて、水滴がアスファルトにドットを描く。洗いざらい喋ればいいのに、それでは嘘を許せと強要するようで、ナナにはできなかった。ついた嘘は貫き通さないといけない。つこうとしたのはナナ自身なのだから。

 大人になりたい、と思う。大人になったら、きっとこんなに痛い想いをしなくたって、上手く誤魔化せるのかもしれない。きりきりと心を踏みつけにせずに。もしかしたらそもそも、こんな低レベルな嘘を纏わなくたって、素直になれるのかもしれないと思う。

 困惑しているロクちゃんは、それでも、膝に両手を載せて屈んだりしない。しゃがんで、ナナの顔をのぞきこんだりしない。無遠慮に、涙に汚れた顔を見つめたりしない。きっと彼女からは、ナナの二つに結んだ頭のてっぺんしか見えていないことだろう。

「ロクちゃんになれたらいいのに」

 脈絡なく呟いて、ナナは自転車に乗った。「夕ご飯の手伝いがあるから」と、返事がされる前に、ペダルを踏んで、必死に帰った。行きよりもずっと早く、歩道を二輪が滑っていく。

 大通りから離れ、住宅街に入って、家のほど近くにある用水路の横にさしかかったときに、突然ペダルが重くなった。重くて重くて、くたびれて、最後は押して歩いた。


 嘘つきは泥棒の始まり。

 大人は子どもの進化系。

 ロクちゃんは、なにをどうして、ロクちゃんになれたんだろう。

 自分の未来を想像しても、むすっとした顔でトートバックを持っている、子どもっぽい女の子しか想像が出来ない。


 夕ご飯を食べた後、具合が悪いと嘘をついて、お風呂に入ってすぐ床についた。お父さんとお母さんが心配そうに様子を見に来たけれど、寝たふりをして誤魔化した。また嘘。嘘つき、と思うと、涙が出た。涙は子どもっぽい、と思う。結局そのまま泣いているうちに疲れて、朝が来た。

 いつも通り、パンを食べて、目玉焼きを食べて、キャベツとウインナーの炒め物を食べた。気が滅入っていたとしても学校は休みにならない。仮病を使うほどの勇気はなかった。一日ぼうっとすごしていたせいで、隣の席の男の子にまで心配された。返って来たテストの点数争いも、する気にならなかった。つまんねえの、と言われたけれど、ナナだってそう思っている。別に今日が特別退屈なわけじゃない。いつも等しくつまんない。でも特に、今日は。

 帰り道、通りがかる公園に、ロクちゃんがいた。気づかれる前に、別の道から帰った。気まずい。突然泣き出したわたしを、ロクちゃんはどう思っただろう。下手な嘘つく子どもだと、がっかりしただろうか。友達なのにひどいと、思っただろうか。家の扉を開けてランドセルを階段の下に置くと、リビングに入っていく。茶色い机の上に、新品の漫画が、置かれていた。

「なにこれ」

「斜め向かいの佐々木さんがあなたにって」

 それは、綺麗な透明のカバーがかけられたレジ・マジだった。

 片手で掴んで、そのまま玄関の靴を引っかけて家を出る。走って、公園へ向かう。

 ロクちゃんは珍しく煙草を吸いながら漫画を読んでいた。ナナがやって来たのを見て、慌てて煙草を消して、携帯灰皿にしまい込む。ナナはレジ・マジを叩きつけるようにロクの膝に載せた。ロクちゃんは普段よりも疲れたような顔つきをしていて、ロングTシャツに、だぼっとしたズボンを穿いていた。いつもはミニスカートかショートパンツなのに、と通常通りのナナなら気づいただろうけれど、このとき、ナナは猛烈な怒りでどうにかなりそうだったから、気づけなかった。


「要らない」

 吐き捨てるように言うと、ロクちゃんは驚いて、でもへらへらと笑って、「あげるよ」と言った。「要らないって」とナナが返す。

「……ナナに持っててほしいんだ」

 切実な言い方だった。今ならナナにも理解できる。あの時ナナがおかしかったように、ロクちゃんも変だった。ナナの怒りが、傷つけられたことによる悲しみならば、ロクちゃんの笑顔は、傷ついたことによる怯えだったのだろう。けれども、やっぱり、気づけなかった。

「余計なお世話だよ」

 ナナは断言した。余計なお世話だよ。わたしは、ロクちゃんからなにかを施しを受ける子どもじゃないし、可愛そうだと思われたくない。バカにしないでよ、と。そしてそのまま踵を返し、公園を出て行った。


「いじっぱり!」

 ずっとだんまりだったロクちゃんがナナの背中に声をかけた。それでも無視をした。数日たって、ロクちゃんが東京に帰ったとお母さんから聞かされた。引っ越しのトラックもなにもなく、ただ小さいトランクで電車に乗っていったのだと、あとは全部捨てていいだなんて言うのよ、とロクちゃんのお母さんが文句を言っているのを、地区の子供会でぼんやり聞いた。


 ナナは結局、レジ・マジの最終巻を買わなかった。


□ ◆ □ ◆ □ ◆


 中学生になって、高校生になって、東京の大学に行くようになって、そのまま就職した。

 通勤電車に揺られ、近所の総菜屋で数品買って、冷凍ご飯と即席みそ汁で夜ご飯を食べる生活になった。土日は、契約している動画サービスを開いて、面白そうなアニメをぼうっと見ながら、SNSをチェックして過ごす。煩雑な情報を、キャラクターたちの掛け合いを聴きながら処理していると、「レジ・マジ、二十年の時を経てアニメ化!」の広告と共に、三十秒くらいの動画が流れ始める。

 急に、ロクちゃんのことを思いだした。

 Tシャツにワイドパンツを穿き、長財布をポケットに入れて、サンダルを引っかけて外に出る。

 コンビニで流行りのレモンサワーと生ハムを買って、なんとなくアイスも買ってみる。このソーダアイス、こんなに小さかったかなと思いながら、通りを歩いていると、小さい本屋の前を通りがかった。こんなところにあったっけ、と思いながら、なんとなく中に入る。店内をざっとみて、アニメ化決定、と手書きのポップが目に付く。一巻、二巻、三巻、四巻と五巻と六巻がなくて、七巻、八巻から十巻もない。穴抜けを確認しながら、最後まで数字を目で追う。二十七巻。最終巻が、そこにあった。

 ナナ。

 ニナという名前の自分を、ナナと呼ぶのは、ロクちゃんだけだった。

 二十七巻を手に取って、戻そうとして。やめる。そのまま、会計へ持っていった。

 

 嘘つきは泥棒の始まり。

 大人は子どもの進化系。


 子どものナナだったわたしは、ニナになってるんだろうか。それが正しいんだろうか。分からない。コンビニの袋から、水の雫が落ちて、サンダルにぶつかって弾けた。ロクちゃんはなんでわたしをニナでなくナナと呼んだんだろう。それも、知らない。

 知らない、と言えるようになったわたしを、二十七巻を平気で買えるようになったわたしを、ロクちゃんが許さなければいいと、ただ、そう思った。

2021/07/04 執筆

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