第2話 れんしゅう
茶色のベニヤのプレハブが建ち並ぶ一角からピアノの音が聞こえてきた。それとともに人の声が流れてくる。
「混声合唱か。」
拓真は中学で吹奏楽部に少しの間だけ在籍していたことがある。そのときはコルネットの担当になったが、古いコルネットの金属の錆の味がするマウスピースが嫌だった。数ヶ月で転校してしまい、以来部活はやっていない。
音楽は嫌いではない。歌も人並み以上だとは思っている。
休憩時間になったのか、部屋から人がぞろぞろ出てきた。20人はいるだろうか。
「ちょっと、覗いてみるか。」
そう思いながら、部屋のほうへ近づいていくと、
「何か御用ですか?」
あっというまに何人かの女性の団員に取り囲まれた。
「あ、いや見学です。」
拓真の答えに、若干驚いた様子だった。2学期からの入部希望者はさすがに滅多にいないのだろう。
「パートは決まってますか?」
大柄で低い声の男性が話しかけてきた。おそらくベースのパートリーダだろう。
「いえ、初めてなので。」
彼は、拓真を部屋に招き入れると、ピアノの鍵盤を一つ叩いた。
「この音で、あーって言ってみて。」
僕は、いわれたとおりにした。
「あ・・・」
彼は、音を順に上下させていった。
「ひゃー。」
高くなるにつれ、拓真の口から出るのは声にならない叫びへと変わっていった。逆に低い音では
「グ・ブ・ブ・・・」
とのどが鳴るだけで、なともな言葉にすらならない。
「とりあえずバリトンかな。」
バリトンは少し低い男性の音域のようで、日本人の男性の大半がここに当たるらしい。
練習が始まると、拓真はバリトンと呼ばれるパートの最前列に立たされた。パートの中で聞いたほうがより実感がわくということのようだ。小さな部屋の中では人が二重にとり巻いている。総勢で30人はいるだろう。バリトンだけでも6人ぐらい。
合唱曲だから、さすがに知ってるような歌は出てこない。楽譜を渡されても歌詞を目で追うのがやっとだった。
ピアノの横では、恰幅のいい女性がなにやら腕を振り回している。器楽と違い、指揮者の腕の振りの大きさに圧倒された。頭の後ろから、響きのある低音の声が聞こえる。素人の拓真には、音が合っているのかどうかなんてわからない。
練習が終わると、お礼を言って帰った。気を使ってなのか、挨拶をさせられることもなかった。
部活というとピリピリした空気の印象をずっと持っていた。が、その部屋には穏やかな空気があった。それが、練習が始まると、一転して張り詰める。全員が、一斉に指揮者の指先を凝視する。その指の上下にいざなわれるように、団員たちの声が大きくなったり小さくなったりする。時には鋭く尖った剣のように空気を切り裂いたかと思えば、大海原をゆったりと回遊するクジラにもなった。そこには、いままでCDで聞いていた歌謡曲とは違う、迫力と優しさが感じられた。