不良になった理由
「エミとマキのやつ! 簡単に凡退しやがって!」
そう声を荒げて打席に立ったのは、瑞樹の取り巻き最後の1人――兎丸蓮だ。
恵美と真紀の二人とは逆の、左打席でバットを構える。
「おいテメェ」
蓮が目を合わせず、後ろの由香に話しかける。
その視線はマウンドを睨みつけたまま動かない。
「さっきマキとなに話してたかは知らねえけど、この勝負、私は絶対に降りねえぞ」
「降りる?」
「エミはともかく、俺たち3人の中で一番バッティングが上手いマキが、ヘボピッチャー相手にあんな簡単に凡退するわけがねえ。わざとに決まってる」
蓮の言う通り、真紀は力の抜けたスイングで、才子のボールに合わせにいっただけだった。
とても打ちに行こうという姿勢には見えなかった。
「それに、あいつらの考えそうなことは大体わかるんだよ」
蓮はバットを握る手に力を込める。
「あの2人は姉御にまた野球をさせたいみたいだが、俺は違う」
「それってどういうことですか?」
苦汁を絞り出したような声に、思わず由香が聞き返すが、
「わからねえならいい。とにかく、お前らと姉御を対戦させるわけにはいかねえ。俺が絶対にここで食い止める」
蓮は自分に使命づけるようにそう言うと、バットを再び構えなおした。
(瑞樹先輩にいったい何があったんだろう。もしかして野球部が休部に追い込まれた理由と関係があるのかな……)
由香は、蓮の言葉に黙考しかけるが、すぐに思い直したようにミットを構える。
(ダメダメ! 今は目の前の打者に集中しないと!)
この謎は後でゆっくり聞けばいい。
バックネット裏でこの様子を見つめている本人から。
由香がミットを構えたのを確認して、才子が蓮に対して1球目を投じた。
コースはストライクゾーンのど真ん中。
それを見た蓮が絶好球だと言わんばかりに思い切りバットを振る。
「これで終わりだぁぁぁ!!」
カキーンッ!
小さな体に見合わない力のこもったスイングとともに、金属音がグラウンドに鳴り響く。
しかし、捉えたかに見えた蓮の打球は――3塁側ファールゾーンへと力無く切れていった。
自分の思い描いた打球ではなかったのだろう、ファールゾーンを転々とするボールを見て、蓮の顔に途端に焦りが生じる。
「なんだ、今の……」
無理はない。
山なりで、且つド真ん中のボールなど、普通なら打ち損じるはずないからだ。
「1ストライクです」
「うるせぇ! ……言われなくてもわかってる」
蓮がいら立ちをあらわにする。
「あんなヘボ球……次は絶対に打つ!」
その宣言とは裏腹に、2球目を打った打球は、今度はバックネットへと転がっていく。
「2ストライクです」
「……」
2球連続で打ち損じた。
打ってくれと言わんばかりの甘い球を、ヒットにするどころか前にすら飛ばせない。
蓮にはもはや、由香の言葉に反応する余裕すらなかった。
「くそ、くそ……!」
唇を噛みしめる蓮。
目は硬直し、バットを持つ両手に更に力が入る。
これでは打てる物も打てない。見える物も見えない。
気持ちが先走って強引に打とうとした結果、捉えることはおろか、才子のボールがただのヘボ球ではないことにすら気づけない。
蓮の頭の中は今、“ただのヘボ球に追い込まれてしまった”という逃れようのない事実によって埋め尽くされていた。
こうなればもう、バッテリーの思うつぼだ。
才子が3球目を投じる。
迷いのある蓮のスイングは空を切り、由香のミットが虚しい音を立てた。
「あ、ああ――」
蓮が、震えながら由香のミットを見つめる。
祈るようにして瞳を揺らす。
しかし、その中に白球が収まっているのを視認すると、糸から切り離された人形のように膝から崩れ落ちた。
『レン!』
うずくまる蓮を見て、真紀がバックネット裏から駆け寄ってくる。
遅れて恵美もついていく。
瑞樹は……その場から動こうとしない。
「レン、大丈夫か!?」
「うるさい!」
差し出された手を蓮は払いのける。
キッと真紀を睨むその眼には、大粒の涙が溢れていた。
「レン……」
「……」
真紀と恵美はかける言葉を探そうとしたが、とうとう見つからなかった。
「ど、どうしたのっ!?」
異変を察知してマウンドから才子も駆け寄る。
それを見て蓮の表情がさらに歪んだ。
「お前らのせいだ……」
その言葉は才子と由香に向けられたものだったのかもしれない。
しかし、蓮は寸前でそれを飲み込む。
目の前のこの結果は、勝負を挑んできた二人のせいでも、勝負を放棄した真紀と恵美のせいでもないことはわかっていたからだ。
だけど。
自分のこの思いだけは間違ってないと信じたかった。
蓮の心の外郭を塗り固めていたメッキが、涙とともに剥がれ落ちる。
「う、うぐっ……俺……わたしは! これ以上、瑞樹先輩に辛い思いをさせたくなかったんだ! だから、だから……!」
嗚咽を漏らしながら、それでも必死に言葉を紡ぐ様子に、その場にいる全員が言葉を失う。
泣き崩れる今の蓮を見て、不良だと信じる者は誰一人いない。
きっと、今の言葉、今の話し方が、彼女――兎丸蓮が隠していた本当の姿なのだ。
少女のすすり泣く声だけが微かに伝わるグラウンド。
その静寂を切り裂いたのは、低く重たい声音だった。
「レン。そこをどけ。次は私の番だ」
冷酷に淡々とした口調で、瑞樹がこちらに歩いてくる。
瑞樹は、蓮が持っていたバットを奪い取ると、虫でも踏みつぶすかのように心ない言葉を浴びせる。
「邪魔だ。さっさと消えろ」
「なッ! そんな言い方――!」
才子が我慢できず声を上げるが、瑞樹はそれを意に介さない。
真紀に視線だけで合図を送る。
「行こう、レン……」
真紀は瑞樹の合図に頷くと、放心状態の蓮を抱え込んで持ち上げる。
そのまま支えるようにしてゆっくりと歩いていく。
恵美も蓮の小さな背中に手を添えて、一緒にバックネット裏へと姿を消した。
グラウンドに残ったのは才子と由香、そして瑞樹だけの3人となる。
「どうした、ちんちくりん? 早くマウンドに戻れ」
その場から動こうとしない才子を瑞樹は睨みつける。
才子は、頭上から響く声にひるむことなく、やがて意を決したように顔を上げた。
自分よりも頭一つ分高い瑞樹の目を見て、才子は宣言する。
「瑞樹先輩。絶対にあなたを打ち取ります」
「……」
瑞樹は何も言わない。
「才子ちゃん……」
才子の表情からは瑞樹に対する恐怖は全く感じられない。
由香には、強敵に立ち向かおうとする才子の強い意志だけが見えていた。
「素人の私が通用するかわからない。けど……」
才子は大きく息を吸う。
「必ず奇跡を起こして見せます」
そう言って、瑞樹に背を向けて歩き出した。
その小さくもピンと張った背中に、瑞樹は声をかける。
「私は奇跡を信じない」
才子は振り向かない。
瑞樹も、それ以上言葉を発することはなかった。
太陽が赤くなる。
野球部の復活を賭け始まった戦いは、目的も何もかもを超越して、今まさに、1つの結末を迎えようとしていた。