エピローグ
雲一つない青空。涼しい風。
校門をくぐると、生徒の楽し気な会話や笑い声が耳に入ってくる。
良い朝だ――と言いたいが、才子にとっては、短い高校生活の中でワースト1位になるほどに苦痛すぎる朝だった。
「あいたたた……全身筋肉痛だ……」
体全体が鉛でコーティングされたように重い。
経験したことのないような鈍痛に顔をしかめながら歩く。
その原因は明白だ。
「きっと慣れない運動したからだなぁ……」
才子は昨日の出来事を思い出す。
たった数10球と言えど、野球素人の才子にとって、度重なるマウンドからの投球動作は体に応えるものがあった。
「それもこれも全部あいつの――」
「おっはよーう、才子ちゃんっ!!」
「あだぁぁぁっ!?」
誰かに声をかけられたと思いきや、同時に才子の背中に激痛が走る。
豪快に悲鳴を上げて、その場にうずくまる。
「ど、どうしたの才子ちゃん!? もしかして痛かった? そんなに強く叩いたつもりなかったんだけど……」
優しく語りかける黒髪おかっぱの女子生徒。
才子はこの生徒の名前を知っている。
田中由香。
才子の超能力の数少ない理解者にして、現在進行形で苦しんでいる筋肉痛の原因となった人物だ。
「昨日の野球で全身筋肉痛なんだよ!」
「あちゃ~、そりゃ大変だ」
「誰のせいだと思ってるの!」
「あははは、ごめんごめん!」
「ぎゃあああっ!? 叩いてる叩いてる、背中叩いてるっ!?」
「あ、ごめん」
由香は相変わらずマイペースなのだった。
「お詫びと言っちゃなんだけど、才子ちゃんのバック持ってあげるよ」
機嫌を取ろうと由香が手を差し伸べるが、才子は首を横に振る。
「いや、もう別にいいよ。それよりも……」
スカートについた埃を払いながら、何とか立ち上がる。
才子には、どんなに筋肉痛がひどくても、どんなに背中を痛めつけられても、向かわなければいけない場所があった。
「早く部室に行こう。殺される前に」
◆◆◆
「おっせーぞ、てめーら! 初日から遅刻とは良い度胸じゃねえか!」
部室の扉を開けた先で由香と才子を待ち受けていたのは、小柄な少女だった。
これでもかと言うくらいに下からガンを飛ばされる。
「え、でもまだギリギリ間に合って……」
集合時間は7時半。現在の時刻は、25分の数字を長針が越したばかりだ。
「先輩よりも集合が遅かったら遅刻なんだよぉ!」
それはあまりにも理不尽な言い分だった。
「す、すいませんすいませんっ! ちょっと道中トラブルがありまして……」
才子が痛い背中に鞭打って深々と頭を上げ下げするが、少女は更に声音を荒げる。
「遅刻の次は言い訳か~? これは、俺が直々にシゴいた方がよさそうだな~? あぁん!?」
「ひぃぃぃ!?」
蓮の後輩いびりは終わる気配を見せない。
それを怪訝に思ったのか、怯える才子をかばうように、由香が会話に割り込む。
「まぁまぁ蓮先輩。才子ちゃんも謝ってることですし、ここはケツバット10回くらいで手を打ってもらえないでしょうか」
「勝手に変な交渉始めないでよ!? ていうか、由香だって遅刻でしょ!?」
「私はもうケツバット喰らう覚悟できてるから。ねえ、真紀先輩?」
そう言って由香が、対遅刻者用懲罰兵器(※プラスチックバット)を持つ真紀に、自ら尻を差し出しながら目配せする。
その様子からは反省の色は見えない。
「お前、毎日ケツバットされ過ぎて尻の神経麻痺してるんじゃないのか……?」
罰を罰とも思わないような由香の言動に、真紀は額に手をつく。
隣で眠そうに立っている恵美も、どこか呆れ顔だ。
「てんめぇ、前々から思ってたけどよぉ! 先輩のこと舐めてるだろ!? 姉御にもし同じような口きいたらただじゃ置かねえぞ!」
後輩の態度に、蓮が声を荒げる。
しかし、そんな蓮に対し、由香の表情が急に真面目なものになる。
臆するどころか、逆に蓮を鋭い視線で睨みつけながら一歩ずつ近づいていく。
由香が醸し出すその妙な迫力に、蓮も思わず後ずさる。
「蓮先輩……」
「な、なんだよっ……? ちょっと俺より背が高くておかっぱだからって、先輩に暴力を振るうとかは――」
「話し方、戻りました?」
「ッ!?」
蓮の小麦色の肌が一瞬で赤くなるのがわかる。
「お、俺は元からこういうしゃべり方だっ……!」
「でも昨日は、最後のほう普通に、『私は~』とか『瑞樹先輩に~』とか言ってませんでしたっけ?」
「ち、ちげーしっ!? 別に、あれは、その……」
何とか反論しようとするが、蓮の声は尻すぼみに小さくなっていく。
「だぁ~っ、もう!! おいマキ、そのバット貸せ!」
そして、悶絶するように髪を掻きむしったあと、真紀からプラスチックバットを奪い取った。
そのまま大きく振りかぶると、
「そんなにケツバットがお望みなら、好きなだけ食わらせてやるよ!」
恥辱の過去を振り払うように、由香の尻目がけてフルスイングした。
「ギャーッ!? 先輩、そこ骨です! お尻の骨!」
「うるせぇ! つべこべ言わず俺の気が済むまで殴られ続けろ!」
「アイタッ!? れ、蓮先輩のケツバットには愛が無いです!」
「罰に愛を求めるな! いい加減にしないと――「殺されたくなければ静かにそこに並べ」
「「「「はい。静かに並んだので殺さないでください」」」」
その間、わずか2秒。
脅迫じみた物騒な号令がかかった瞬間、瑞樹の前に5人が集合した。
誰に言われるでもなく正座で整列しているあたり、この部の異常さがうかがえる。
瑞樹は場が静まったのを確認すると、いつもの低いトーンで話し始めた。
「不本意ではあるが、この野球部の主将を任されることになった早乙女瑞樹だ」
そう言って、瑞樹は由香を睨みつける。
昨日の敗北のせいか、由香に無理やり条件を飲まされたせいかわからないが、とにかく機嫌が悪そうなのは伝わってくる。
「今日を持って、鶴羽女子硬式野球部は再始動する」
ごくりと息をのむ部員たち。しかし、表情はどこか晴れ晴れとしていた。
とにもかくにも、これからこのメンバーで野球部として活動していくのだ。
「やっと……」
才子の隣で声が聞こえる。
見ると、由香が膝に置く拳を握りながら、笑顔を震わせている。
由香にしてみれば、ここまで来るのに1か月もかかったのだ、感極まるのも無理はない。
才子はそう思った。
「そんなに嬉しい?」
才子の問いに、由香は笑顔で答える。
「もちろんだよ。ありがとね、才子ちゃん」
「由香……」
由香の笑顔を見て、初めて出会った時のことを思い出す。
お礼を言いたいのは才子の方だった。
由香のおかげで今の才子があるのだ。
「才子ちゃんと出会えて本当に良かったよ」
「うん。私も由香と出会えて――」
才子は言葉を紡ぎながら、由香との出会いを振り返っていた。
(そうだ。由香があの時、私の超能力を信じてくれたからこそ、今こうしてめちゃ怖いヤンキーの先輩にいびられたり、筋肉痛に耐えながら正座させられたり……って、あれ?)
「……」
「どうしたの、才子ちゃん?」
言葉の途中でプルプルと震えだす才子を見て、由香が。
才子の震えの出どころは、由香のそれとは大きく違う。
「ねえ、由香」
「なーに?」
「私、由香と出会ってからろくな目にあってない気が……」
「へ? それってどういう――」
「おい、おかっぱとちんちくりん。聞いてるのか?」
由香が聞き返そうとしたのと同時に、瑞樹から注意が入る。
「あ、すみません」
「ったく。もう一度言うが、不本意とはいえ主将を任されたからには、この部を高みへ導く義務がある」
瑞樹は苛立ちを抑えつつ続ける。
「そこで、毎日の朝練に加え、放課後も練習を行う。無論、土日もだ」
「ッ!?」
当然のような口ぶりで語る瑞樹に、黙ったままだった才子がビクンと反応する。
「そしてそれは今日も例外ではない。今からジャージに着替えてランニングを――おい、ちんちくりん。どこへ行く」
「あ、いや、ちょっと、トイレに……」
「ダメだ。素人のお前は特に練習が必要だからな。まぐれでも私を打ち取ったからには、そうそうの努力をしてもらう」
「あれ? 瑞樹先輩、もしかして才子ちゃんに負けたこと根に持ってます?」
「言い忘れてたが、バッテリーには普段の練習に加えて特別なトレーニングを――おい、おかっぱ。どこへ行く」
「あ、いや、急に気分が悪くなってきたので早退しようかと……」
「……」
「……」
探り合うように視線を交わす由香と瑞樹。
「捕まえろ」
「「ひぃぃぃ!!」」
瑞樹の合図とともに、由香と才子は一斉に部室を飛び出した。
一目散に駆けだす。
「やってられるかー!!!」
顎を上げて空に叫ぶ。
「待てやゴラァーッ!!」
「おーい、今ならケツバット100回で許してやるぞー」
「……」
振り向くと、鬼の形相で迫る猪鹿蝶トリオが目に入った。
それを見てさらにスピードを上げる。
「おっ? 才子ちゃん気合入ってるね~」
隣を並走する由香が呑気にそんなことをのたまってるが、今の才子にツッコミを入れる余裕はない。
「このまま2人で地の果てまで逃げ続けようではないか。なっはっはっー!」
「やっぱりろくな目にあってないー!!」
奇跡の出会いが、常に良い方向に傾くとは限らない。
少なくとも今の才子にとっては。
でも、出会わなければ、物語は始まらなかったのだ。
それが本人の予期しない――例えば、仲間と共に白球を追いかける未来だったとしても。
物語は確かに今、始まったのだ。