奇跡の一投
瑞樹が真芯で引っ張った打球は、レフト方向のフェンス目がけて、上空の風などもろともせず一直線に飛んでいく。
「お、終わった……」
打球を見上げ、がっくりと肩を落とす。
今度こそ、正真正銘疑いの余地もないホームラン。
そう誰もが確信した――ある異変を察知するまでは。
『な、なんだあれ!?』
蓮が上空を指さす。
その声に、由香も空を見上げる。
はるか遠方、点のように小さくなった白球に焦点を合わせる。
ボールが――揺れている。
まるで乱気流に突入する旅客機のように。
そして突然、空気の壁にでも弾かれたように、不自然に進路を変えた。
「なにッ!?」
目の前で起きた信じられないような現象に、瑞樹も思わず声を上げる。
それでも打球は失速せずに、勢いそのままにフェンスを襲う。
そして、軽々とその上を越えていった。
「……」
息を吞む。
誰が見ても文句なし。
推定飛距離100 m越えの――大ファールだった。
「は、はは……」
由香は糸が緩んだように声を漏らす。
そして、マウンド上の才子に向けて、
「ナイスボール……」
と、震え声で言った。
上空で起きた異変。あれは、紛れもなく才子の仕業だ。
由香は才子の言葉を思い出す。
『私のサイコキネシスで操れるのは、ボール1個分、1回につき1方向だけ』
才子は、投球自体に超能力を使うのではなく、投球後、打たれた打球に対して超能力を行使した。
その結果、ファール方向に打球を誘導することができたのだ。
「チッ。風に嫌われたか」
舌打ちをしながら打席の土を整える瑞樹を、
(それにしても……)
いくら才子の球が素人のものとはいえ、あそこまで打球を飛ばせる女子高生が全国に何人いるだろうか。
その全国レベルの選手と勝負をしている。
由香の心には、瑞樹に対する恐怖心よりも大きな思いが芽生えていた。
「さすが、関東選抜」
「……」
由香の発した独り言に、。
しかし、由香が続けた言葉には反応せざるを得なかった。
「私も瑞樹先輩と一緒に野球がしたくなりました」
由香の心からの気持ち。
瑞樹はその言葉の端に違和感を感じた。
「私も……だと?」
「ええ、私も」
バックネット裏を一瞥して、由香が続ける。
「先輩たちに、野球部に、去年何があったかは知りません。詮索もしないです。だけど、この1ヶ月、部室に顔を出し続けてわかったことがあります」
「瑞樹先輩。本当は野球を続けたいんじゃないですか?」
「何を根拠に言ってやがる」
「私が部室に来るときはいつも、先輩たちがいました。4人全員、一人も欠けず。まるで部室に居ることが当たり前みたいに」
「……」
本当に野球が嫌なら、部室などには顔を出さないはずだ。
さっさと野球部を辞めて廃部にでもしてしまえばいい。
「あの3人は、瑞樹先輩がもう一度野球を始めることを望んでいます」
蓮は言っていた。『瑞樹先輩に辛い思いをしてほしくない』と。
でもそれは、瑞樹が野球を嫌っているからではない。
瑞樹が野球を好きだからこそ、これ以上野球のことで悩み、苦しんでほしくなかったのだ。
「あとは瑞樹先輩が、自分に素直になるだけです」
「私は……」
瑞樹が口を開く。
「誰に何と言われようと、もう野球はしない」
「そうですか……」
瑞樹の芯の通った言葉に、由香が諦めたように下を向く――が、すぐに向き直ると、
「ということは、先輩に無理やり野球をさせるきっかけを作れば万事解決! みんなハッピーってことですよね!」
朗らかな笑顔でそう言った。
「はぁ!? お前、何言って――」
「だから1つ提案です」
突っかかろうとする瑞樹から、先手を取るように由香が詰め寄る。
「もし、私と才子ちゃんがこの勝負に勝って野球部を復活させたら、瑞樹先輩がキャプテンになってください」
「ふざけんのもいい加減にしろ!」
「こちらは先輩たちが待ち焦がれていた奇跡を起こそうっていうんですから、それくらいしてもらわないと割に合いません」
瑞樹を煽るようにニコッと口角を上げる。
「それが嫌なら、私たちが起こそうとしている奇跡を全力で阻止すればいいだけのことです」
「……」
由香の言い分は、まさに横暴で身勝手なものだ。
おいそれと従っていいはずがない。
しかし、奇跡を信じられない――信じたくない瑞樹にとって、その条件を飲まないということは、暗に“奇跡を信じている”と言うようなものだった。
「わかった。その条件を飲もう」
「よしっ。交渉成立です!」
元気よくマスクを被る由香。
瑞樹もそれを見て、打席に入り直す。
相手がどんな条件を提示しようと、自分が打てばいいだけだ。
これまでの2球で、球筋は把握した。
打ち損じも、風に嫌われてファールになることもない。
万に一つ、素人に打ち取られるなどという奇跡は起こらないのだ。
グリップを握る瑞樹の手に力が入る。
「しっかり見ててください。今から才子ちゃんが投げるボールが、私たちの起こす奇跡です」
1つ大きく息を吐いて、才子が振りかぶる。
少し足に馴染んできたマウンドと別れを惜しむように、左足を踏みこむ。
才子は、真ん中に構える由香のミット目がけ、腕を振った。
「――ッ!」
才子の指からボールが離れても、瑞樹はバットを始動させない。
どんな変化をしようとも確実に捉える。
その一心で、ボールに集中する。
そう、どんな変化をしようとも――
「なッ――!?」
瞬間、瑞樹は自分の心臓の鼓動が跳ね上がるのを感じる。
確かに、言った。
どんな変化をしようとも捉える、と。
そのボールが下に沈もうが、斜めに曲がろうが、横に滑ろうが、自身の全身全霊を持って捉えると。
しかし――
目の前の白球は、こともあろうか――真上へと変化したのだ。
カキィィィン!
金属音が鳴り響く。
白球が高々と舞い上がった。
3度目の正直。瑞樹の打球はフェアゾーンへと飛ぶ。
だが、その打球にこれまでのような飛距離はなかった。
「才子ちゃん!!」
由香が打球を見上げて叫ぶ。
落下点には既に、1人の少女が立っていた。
「ははっ、なんだよ今のボール……」
校舎よりも高く上がった打球を見上げて、瑞樹が呟く。
何が起こったのかわからない。
でも、確かに見たのだ。白球がわずか1個分浮いたのを。
普通ならあり得ない。もし、あるとするならそれこそ奇跡の所業だ。
「そうか、これが奇跡――」
私は待っていたのかもしれない。
とんでもなく不器用で、意地っ張りで、不貞腐れた自分を救ってくれるようなきっかけを。
あの暗がりの中で閉じこもっていた自分を無理やりにでも外へと引きずり出してくれるような人間を。
待っていたのだ。
野球をもう一度始めるための――奇跡を。
白球が墜ちる。
風がやんだ静かなグラウンドに、グローブの音が響いた。