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マクレガーの足取りは、奇妙な程に遅かった。そのせいで何とか追いつく。
「動くな。動くと打つぞ」
リチャードは両手にリボルバーを構えた。右手の方は銀の弾丸。人間であっても殺傷能力はある。
マクレガーが立ち止まって振り返った。その時リチャードは違和感を感じた。直感のままに、横に飛び跳ねる。直後にマクレガーは蟲を吐き出し、リチャードの脇を掠めた。
反射的に左のリボルバーを蟲に向け、青白い光を放ち穿つ。
ぱあん! 蟲が弾け飛び霧散した。紫色の霧となり、ロンドンの霧に混じって消えた。
「虫を吐く? こいつも化け物か!!」
リチャードはしゃがんで、そのまま地面を転がりつつ、マクレガーの背後に接近。右手の銃を頭に突きつけた。
「チェックメイトだ……」
引き金を引く直前、突然マクレガーの足がありえない方向に捻れる。ズボンが引きちぎれ、細く長く伸びて、リチャードの足に絡みついた。
「な!」
絡みついた足に弾丸を打ち込もうとして、咄嗟にリチャードは上半身を後ろに反らせた。
マクレガーの背から、二本の足が生えたのだ。その姿はさながら蜘蛛のようだ。
足を拘束されたリチャードへ、背中から生えた二本の腕が襲いかかる。二つのリボルバーが火をふいた。
青い光は敵を焼いたが、銀の弾丸は弾かれた。
「銀は効かないか……」
リボルバーは連射できない。霊的なナイフに持ち変える隙もなく、腕がリチャードの体を引きちぎる……寸前に、その腕へメアリーが飛び込んできた。
「ミスター。ご無事で良かったですわ」
「あまり無事とは言えないがね」
リチャードとメアリー。二人に増えたことに、敵の意識が取られた。
その隙にリチャードは銀の銃を投げ捨て、袖から青白く輝くナイフ取り出した。
青い光に包まれた刃が、絡みつくマクレガーの足を切り裂き、引きちぎれて落ちる。
メアリーがマクレガーの背中に飛びついて、後ろから羽交い締めにする。マクレガーは強靭な腕力でそれを振りほどこうとした。
「ミスター」
「準備はOKだ」
リチャードが取り出したパイプから、煙が漂い、唇から呪いの言葉が溢れ出す。大人しくなったマクレガーの首筋に、メアリーは牙を立てた。
びくんびくんと体が痙攣し、徐々に力を失っていく。
弱った所で左胸を手で刺し貫く。体は灰のように崩れ落ちた。
「申し訳ありません、ミスター。東洋人の方は見失いましたわ」
「いや……助かった。これは……マクレガーだったモノか?」
「ですわね。恐らくこれは、蠱毒の蟲が寄生したのですわ。もうマクレガーから情報を引き出すのは不可能でしたので殺しました」
「蠱毒?」
「東洋の呪術ですわ。恐らく……先ほどの取引中に、密かにあの東洋人が蟲を体に仕込んだのでしょう。不味い……。毒虫の味は気持ちが悪い」
メアリーはハンカチを取り出して、口元を抑えた。そして手の平を差し出すと、禍々しい色の石があった。
「それはこの前の……」
「ええ。あの男と同じ。でもマクレガーはただの人間で虫に操られただけ。たいした力もないからすぐに消滅します」
その言葉通り、ぴしりみしりとヒビ割れる音がする。
「ミス・メアリー。君が追っていた男は銃を使っていたかい?」
「ノーですわ。ありえない。あの男は銃を手に取ったこともないでしょう。蠱毒の蟲を操る呪術使いなら、銃より呪術の方がよっぽど確実ですわ」
だとしたら……先ほど、カトリックの退魔師を撃った相手が別にいる。
リチャードは五感を研ぎ澄ませようとして違和感を感じた。これほど霧は濃かったか?
「リチャード。君は昔から、自分の感覚に頼りすぎだ。気をつけなさいと教えたはずだよ」
その声にリチャードは射抜かれたように体を強張らせた。メアリーは咄嗟にリチャードの右で構える。
霧の中から唐突に、初老の男が現れた。鷲鼻に彫りの深い険しい顔立ち。しかし相反するような柔らかい笑みが、異様なまでの落ち着きを生み出していた。その手には猟銃がある。
「カッシーニ先生……まさかさっきの銃は……」
「悪い生徒には鞭の体罰を。それは厳しいパブリックスクールでもあった事だろう」
猟銃を投げ捨てて、両手を広げ無抵抗のそぶりを見せたが、リチャードもメアリーも、全く緊張を解けなかった。
「ミスター・チェンバー。お知り合いですか?」
「パブリックスクール時代の恩師……だった。表向きはイタリアから来たラテン語教師。だが……」
リチャードは汗が吹き出すほどに震えつつ、何とか息を整えて言葉を紡いだ。
「先生。今、貴方は、ヴァチカンですか? 英国国教会ですか?」
「落第だよ。リチャード。私が英国国教会であるはずがない。そして今もヴァチカンにいるのなら、あの男を撃つ必要もない。まだあそこに私が所属していれば、位階は上だ。口で命令するだけで、あの男は引き下がるだろう」
「今も? という事は……ミスター・チェンバー。この男は……」
「元カトリックの退魔師で……僕の退魔師の師匠でもあった」
「過去形かね。リチャード。私はまだまだ君に教えるべき事がある。例えば……」
カッシーニがメアリーをちらりと見た。優しい程の眼差しなのに、メアリーは震える。
「私が声をかけた時、彼女は咄嗟にリチャードの右に立った。彼女は気が付いてる。リチャードが左利きだと。利き手の邪魔にならない、右に立つべきだと。彼女の冷静な判断力と観察眼を見習いたまえ」
リチャードは驚いてメアリーを見た。薄紅色の唇が、小鳥のように囀る。
「ミスター・チェンバーは、右利きか、両利きであるように見せたがっていらした。両手で銃を持ち、ティーカップを持つのは必ず右手。でも……咄嗟の時に左手がでる癖があった。だから左利きかと……」
「ブラーヴァ」
カッシーニは拍手をしながら賞賛の言葉を口にした。
「彼女はとても素質があるね。是非私の生徒にしたい。さて……そんなレディに最初の授業だ。何故、リチャードは左利きを隠そうとしたか。何故、この霧の中でマクレガーを見失わずに済んだか」
メアリーの目が揺らめく。カッシーニの言葉には確かに気になることが含まれている。
リチャードは抵抗を諦めたように銃とナイフをコートの中に仕舞った。呼吸を整えるように深呼吸をしつつ、カッシーニの言葉をじっと待つ。
「レディ。もう一つヒントだ。君の身のこなしは見ていた。人間離れをした跳躍力。一瞬で胴を貫く腕の力。まるで化け物のようだ」
「ばけもの……」
メアリーはぎゅっと唇を噛み締めて、悔しそうに睨みつける。
「化け物である事を恥じる必要はない。何故なら私の教え子リチャードも、化け物なのだから。人外であっても私は君達の味方だ」
「ミスター・チェンバーが……化け物?」
リチャードは視線を落としてポツリと呟く。
「取り替え子という言葉を聞いたことがあるかい?」
「ええ……。幼い子供が親の気づかぬうちに、こっそりと妖精と入れ替えられるという伝承が。特に金髪の子供が狙われやすいとも……」
そこまで言って、気づいたかのように、リチャードの金髪を凝視した。
リチャードはそっと眼鏡を外す。霧に包まれた薄暗い闇夜の中でも、青い瞳の縁の金は煌いていた。その瞳の異様さに、メアリーは見入った。
「僕は母から取り替え子だと言われて育った。確かに幼い頃、不思議なものが見えていた。聞こえていた、感じていた」
「過去形ではなく、現在形だろう。リチャード。言語は正しく使うべきだと教えたはずだよ。君は超常的な五感を持ったまま大人になった、稀有な例だ。実に興味深い」
カッシーニは、まるで空に黒板があるかのように、指で文字を書き諭す。
「取り替え子は皆、左利きだと言われる。決して珍しい症例ではない。しかし利き手を矯正するように、教育によって超常の力が失われ、普通の人間に退化するか。野放しにされた結果、超常の力を持つならず者になるか。リチャードのように紳士的な大人でありつつ、五感を保ち続けるというのは稀なケースだ」
何かを思いついたように、パンと軽く手を叩いて、カッシーニは二人に手を差し伸べた。
「どうだろう。二人とも。今日からまた私の教え子として勉強してみないかい? レディは力はあるが、使い方がまだまだ荒い。もっと洗練した身のこなしを身につければ、さらに強くなれるよ。リチャードも、まだ私から学ぶべき事があるはずだ! さあ……」
「……先生。はぐらかさないでください。ヴァチカンでも英国国教会でもなくなった。今の貴方の目的は何ですか?」
「決まっているだろう退魔師だ」
「信仰を失った背教者が?」
カッシーニは大きな声を立てて笑った。
「何を今更。ヴァチカンの退魔師でありながら、英国国教会に招かれて、英国国教会の退魔師の教育を行った。私の信仰に教派の垣根などない。リチャード。君もそうだろう?」
「……僕はまだ、ギリギリ英国国教会所属です。異端の退魔師などと言われていますが、真の意味で異端ではない。貴方こそが異端の退魔師だ」
リチャードは一歩身を引き、メアリーを背に庇うように立った。教え子の敵意を感じ、カッシーニは初めて、笑みを消して不機嫌そうに眉を跳ね上げた。
「リチャード。君は何を言いたいんだい?」
「『Fides, ut anima, unde abiit, eo numquam redit.』貴方に習ったラテン語です。長年、所属したヴァチカンを裏切り、貴方を信頼する人間が存在すると本気で思っているのですか?」
「思っているよ。だから手を差し伸べている。リチャード、メアリー。さあ、一緒に行こう」
「何処へ?」
「新世界へ。私達は人も化け物も超えて進化する。楽しいと思わないかい?」
「お断りだわ!」
黙って聞いていたメアリーが大きな声で叫んだ。
「友好的な言葉を並べ立てたところで、言ってる中身はあの男と一緒。私の体はおもちゃでも、研究対象でもない。私はメアリー・ベネット! 人間よ!」