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霧の都ロンドン。
冬も近ずく秋の朝霧が日差しに溶け、太陽が頂点に登る頃、近頃のロンドンでは珍しく綺麗な青空が広がった。
騒がしく人が行き交う通りに面した喫茶店で、リチャードとメアリーはアフタヌーンティーの時間を過ごしていた。
「これがヴィクトリア女王が愛したケーキですのね」
メアリーが嬉しそうにヴィクトリアサンドイッチを頬張る。どっしりとしたプレーンのパウンドケーキの間に、甘酸っぱいラズベリージャムを挟んで、飾りに粉砂糖を乗せただけのシンプルなケーキ。
だが、その素朴さが、紅茶と最高の相性なのだった。
メアリーは革手袋をつけたまま、器用にフォークを振るっている。
「君は……ロンドンにいたのではないかね? 例の事件の後。食べる機会はいくらでもあっただろう」
「それは少し間違いですわ。ミスター。ロンドンには滞在してましたが、食べる機会はありませんでした。淑女は昼間から一人歩きはしないのですわ」
リチャードは夜の間違いだろうと言いかけて口を噤む。
代わりに左手にTimesを持ち、右手でティーカップを持った。今目の前にいる少女は、どこからどう見ても、普通の人間にしか見えない。
じろじろ女性を見るのは紳士的ではない。誤魔化すように、視線を新聞へと移動させた。
また昨夜、切り裂きジャックの犯行があったと、新聞記事には書かれている。被害者は抵抗するそぶりもなく、殺されたようだ。
今頃ヘンリーは好物を食べる気にも慣れない程、頭を悩ませているだろうとリチャードは想像する。
「ミスターも紅茶と一緒に、召し上がりませんか?」
ずいとケーキ皿を差し出され、リチャードはとっさに新聞を落として、左手でその皿を払いのける。
「甘いものはミルクティーだけで十分だ。サンドイッチもある」
そう言ってから、カップを置いて右手でキューカンバーサンドイッチを摘んだ。流れるように自然に、綺麗にサンドイッチを食べるリチャードの姿を、メアリーはじっと見ていた。
その視線が気になって、イライラと机を指で叩く。
「君はヤケに馴れ馴れしい。淑女だというなら、もう少し慎みを持ちたまえ」
「ミスターはわたくしが普通の少女らしくある姿が、お嫌なのね。だから子供のように振る舞うと、すぐ不機嫌になって隙を見せる」
そう言った後、手袋をずらし、そっとリチャードの指に押し付けた。
直接触れた肌は、つるりと滑らかで、硬く冷たい。まるでティーカップのようだ。無邪気な笑顔に滲む悪意に、リチャードは思わずゾッとした。
あまりにメアリーが普通の少女らしさを見せるから、警戒心を薄れさせすぎたかもしれない。
「汽車の中では堂々と振舞っていたのに、ロンドンでは随分と大人しいものだ」
「汽車というのは、遠い土地へ旅に出る、非日常なのですわ。そこに異質な物が混じっても、あまり違和感を感じない。当たり前の日常にこそ、人は敏感になる」
化け物だと知られるリスクを回避する為、昼は密かに隠れつつ行動し、夜の闇で生きていた。メアリーはそう語った。
普通の人間らしく振る舞うこともできるのに、一人で昼間に動き回らない。その慎重さにリチャードも舌を巻く。
ティーカップを右手に持って、姿勢を正し、メアリーと向き合う。紳士らしく振る舞うのは、リチャードの戦闘体勢でもあった。
「それで? ベイリー男爵に関するどんな情報を、君は持っているのか?」
メアリーは上機嫌でケーキを食べ終えて、ミルクティーを一口。
「先日お見せした融資記録。ベイリー男爵へ援助を行なっていたのはマクレガー商会ですの。そこから調べるべきですわ」
「なるほど。優秀な君の事だから、既に下調べを終えているのだろう」
「もちろん。答えはイエスですわ」
マクレガー商会は表向き中国と取引がある、貿易商として真っ当な商売をしている。
しかし月に一度、深夜に不自然な動きを見せる。しかしその夜の現場に、まだ近づいていない。
「一人で乗り込んで、逃げられても厄介ですの。だからミスターと協力して、片方が追い詰め、片方が退路を断つ」
「なるほど。実に合理的だ。それで、次の機会は?」
そっと手と手を合わせてメアリーは微笑む。視線と視線がぶつかった。
「今夜ですわ」
夜もふけり、気温がぐっと下がると、またロンドンは霧に包まれた。
港に積み降ろされた荷物を保管する倉庫街で、リチャードとメアリーは密かに隠れ潜む。
標的が逃走を測った場合に、互いに補い合えるように、二人は距離を置いていた。霧と夜の暗さで、距離を置いてしまえば、互いにどこにいるかわからなくなりそうな状況。
だが……リチャードにはメアリーがどこにいるか、手に取るようにわかった。そしてメアリーもまたリチャードの気配を感じてるようなそぶりを見せる。
リチャードは目を細め、視覚より、聴覚や嗅覚を鋭く研ぎ澄ます。倉庫の外から漂う悪臭に眉をしかめた。
「死臭とは少し違うな……むし?」
匂いの事は横に置いて、足音にじっと耳をすませる。
マクレガーが待つ倉庫へ、近づく男が一人。目を凝らしてよく見て、目を見張った。
その男はベイリー男爵家の庭で陶磁器を焼いていた東洋人だ。館が燃え尽きた時に死んだかと思っていたが、生きていた。
しかもここに来たという事は、あの事件の有力な手がかりを持っているのだろう。
マクレガーと東洋人の男が中国語で会話をする。隠語混じりで交わされる会話の為、内容がわかりづらい。ただ時折ベイリーの名前が出る。
『ベイリーは失敗だ』
『いや、成功品があったはずだ』
『あの火事で燃え尽きた』
『女が生きていると噂を聞いた』
女が生きている……それはメアリーの事だろうか? とリチャードは推測する。
マクレガーは女の行方を聞こうとし、東洋人の男はそれを否定していた。
あの事件の日、メアリーとあの東洋人は親しげに話をしていた。案外仲が良かったのか、庇っているのか。だがしかし、それならなぜメアリーがそのことを話さないのか。
リチャードが思考の為に、五感を鈍らせていた時だった。二人の男に向かって歩み寄る影。その姿にリチャードは見覚えがあった。思わず舌打ちを打つ。
「三流どころか、三流以下か。愚か者め!」
背が低く、でっぷりとした腹と黒づくめの男。距離があって、顔が見えなくてもすぐにわかった。墓参りの後にリチャードを尾行した退魔師だ。
こっそり潜んでるつもりのようだが、まるで殺気を隠しきれていない。取引中の二人の男はその気配を敏感に察知した。即座に二人は別方向へと駆け出す。
メアリーは東洋人へ。リチャードと退魔師の男はマクレガーを追う。男はリチャードの存在に気づいてなかったようで、激しく動揺していた。
「お前は! ……やはり知ってて隠していたな」
「今はそれどころじゃないだろう」
霧でマクレガーを見失わないよう、必死に追いかけるが、退魔師の存在も無視できない。
見通しの悪い霧の中で、二つに意識を割っていたのが仇となった。
「異端の退魔師!」
いつの間にか男がリチャードの懐に入って、ナイフを振りあげた。とっさにリチャードは片腕を掴み、足を引っ掛けながら投げ飛ばす。
「投げ技はあまり得意ではなかったが、上手くいったな」
そのままマクレガーを追おうとするが、男はしつこく追いかけてきて、ナイフを振り回す。それを跳ねて飛び、距離をとるが、その間にマクレガーとの距離が離れていく。
「あの男が逃げる。そちらが優先だ」
「どうせお前の仲間だろう。お前を捕まえれば居場所などわかる」
リチャードはコートの下から杖を取り出し、男のナイフを受け止めて、肉薄して説得を試みる。
「違う。落ち着け。あの男を追うことが任務ではないのか?」
「そうだ。悪魔の儀式を行ったベイリー男爵。その関係者も悪魔祓いの対象だ」
リチャードの言葉は全く届かなかった。初対面で挑発しすぎたと後悔したが遅い。
マクレガーの位置を見失う前にけりをつけようと、右手の杖を鳩尾に突き刺して後ろに飛び、その隙に左手に真鍮のリボルバーを取り出す。
杖の間合い分距離があいた。
「ここは引きたまえ、そうでなければ打つ」
本気で打つつもりはない。銃をちらつかせ、相手に距離を取らせたかった。下手にヴァチカンに喧嘩を売らないために、怪我させるわけにはいかない。
男の意識が、銃に目を奪われたその時だった。
バーン! 銃声が轟き、男の太ももに弾丸が突き刺さる。
「貴様!」
「違う!」
――この真鍮のリボルバーでは、普通の人間に傷をつける事はできない。
魔を穿つ霊銃は物理的な力を持っていない。別の第三者が撃ったのだ。だが弁解の言葉を投げつけてる暇はない。
マクレガーを追わなければならない上に、さらに銃を撃った第三者がいるのだ。
太ももを撃ち抜かれ、うずくまった男を置き去りにして、リチャードは駆けた。