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ガス灯の灯りに照らされた石畳を歩き、何度か辻を曲がった路地裏に、古びた小さなパブがあった。
上客相手の落ち着いたテーブル席と、労働者階級が楽しむ立ち飲み席。その二つは入り口すら別れている。
テーブル席には、上等ではないが清潔なテーブルクロスとナプキン。古びた安物だが丁寧に磨かれたシルバー。それらが品よく並べられている。
サクサクのパイにナイフを入れると、ふわりと漂う肉の香りが食欲をそそった。
「ヘンリー。ここのキドニーパイは、学生時代からの君の好物じゃないか。手もつけずにどうしたんだい?」
リチャードは完璧なマナーを守って、フォークとナイフを操り、綺麗にキドニーパイを味わう。眼鏡越しにヘンリーを見る目にはどことなく意地の悪い笑みが滲んでいた。
「腎臓パイを食べる気になれない事件が続くものでね」
「ああ……。切り裂きジャック事件か。Timesで見たよ。昨日で十三人目だったか。内臓を綺麗に腑分けして、心臓だけを持ち去る。臓器の位置を正確に見抜くとは、医療関係者の仕業かな」
「そんな話をしながら、腎臓パイを美味しそうに食べられる、君の神経がいつもながらに理解できないね」
ヘンリーの皮肉に、リチャードはクククと笑った。銀のグラスコードがサラサラと音を立てる。それは滅多に見せない、リチャードの心からの笑いだ。ヘンリーは揶揄われたのに気づいて苦笑した。
「それで? 僕に仕事の依頼はないのかい?」
「ない。この事件はただの人間の殺人事件だ。警察の仕事で退魔師の出番はないよ」
「犯人が捕まってないのに、人間の仕業と断定する。それはいつもの君のカンかい?」
ふと食事の手を止めて、リチャードはじっとヘンリーを見た。
探るような目つきに、視線を彷徨わせたヘンリーは、エールをぐいと煽って答える。
「そうだ。僕のカンだ。君はそろそろいつもの休暇の時期じゃないか。今年はどこに行くんだい?」
「いつもの場所に行ってから、今年はエディンバラにでも足を伸ばそうかと、思っていたが……君のカンが何か告げてるのかい?」
「……根拠のないカンではない。カッシーニ先生がまた英国に来てるらしい」
ガチャンと音を立てて、ナイフが皿に落ちた。その不作法な様は、英国紳士を気取るリチャードには珍しい動揺だ。
「あの人は……イタリアに帰ったはずだろう。今更なぜ英国に……」
「わからない。だから嫌な予感がするんだ。リチャード。君の休暇が台無しにならない事を、僕は祈ってるよ」
ヘンリーはそう言ってから、やっとパイに手をつけた。反対にリチャードはそれっきり食事を辞め、パイプを左手で持って咥え、押し黙った。
蒸気を吐きながら、ゆっくりと機関車は駅のホームに止まる。田舎の小さな駅だから、降りる人もまばらだ。その中に混じってリチャードはゆっくり歩き出す。
綺麗に磨いた革靴が汚れる事も厭わず、インパネスコートが強い風に晒されても、歩くことを辞めない。山高帽だけは風に飛ばされぬように、しっかりと手で抑えていた。
町外れの小高い丘の上に着いた時、そこに名前も刻まれぬ墓標があった。広々とした丘の上には、何も遮るものはない。
リチャードは帽子を外し、それを墓の上に載せる。綺麗な金髪が風に晒された。
眼鏡を外すとその青い瞳の縁が、金色に輝く。
「貴方が嫌ったこの眼は、今も見えている。今も聞こえているし、匂いも、肌触りも、食感も酷く鋭敏だ。だから私は今、生きていられる」
そう呟いて、リチャードは目を瞑った。風の音を聞いているような、或いは別の何かを感じているような。
「お伽話が嫌いだった、貴方がたった一つ語った物語。虹の鳥は今も私の中にあります。例え羽がボロボロになって、死ぬだけだとしても、それでも私は運命と戦い続ける。それこそが貴方の望んだ英国紳士でしょう」
強い突風が吹いて、墓の上に置かれた帽子が空へ舞い上がる。それを気にもとめずにリチャードは眼鏡をかけなおし、歩き始めた。ブツブツと独り言を呟きながら。
「相変わらず君たちは煩い。故人と対話する間くらい、そのおしゃべりを辞めてくれ」
この場に人間は誰もいないのに、不思議な独り言を繰り返し、リチャードは溜息を零して肩を竦める。
墓から十分歩いて、街の郊外の一軒の荒れ果てた館の前にやって来た時、リチャードはピタリと足を止めた。
「何のために僕を尾行してるのか。そろそろ教えてくれたまえ」
その言葉を聞いて観念した様に、建物の影から一人の男が現れる。
背が低く、腹が出るほど太り肉、目つきも悪い。黒髪に黒い瞳。黒いコートに黒い靴。
黒づくめの影のようだが殺気と熱気に溢れている。リチャードを睨む様にじっと見た。
「いつから気づいていた」
「同じ汽車に乗って、僕の後をつけていただろう。流石に隠れる場所もない、墓の側までは近づいてこなかったが」
「何のようがあってここに来た。何か意味があるんだろう?」
「墓参りだ。見ればわかるだろう?」
「嘘をつけ。異端の退魔師リチャード・チェンバー。お前は何かを隠している」
「何かを隠してる? そんな理由にもなってない理由で、休暇中の僕を尾行する為に、わざわざヴァチカンからやってきたのか? カトリックの退魔師というのは、随分暇人なんだな」
「馬鹿にするな! 半端者が!!」
男が激昂してリチャードに掴みかかろうとする。リチャードはコートの中から、短い杖を取り出して、その手を振り払った。
「ここは英国だ。紳士的に、理知的に、対話で話すべきではないかね? 猿でもあるまいに、名前くらい名乗りたまえ」
「お前なんかに名乗る義務はない!」
冷静に淡々と、皮肉たっぷりに語るその様が、男を煽ることがわかっているのに、リチャードは言葉を辞めない。
「もう一度問おう。何の為に僕をつけている。何の為に英国に来た。ヴァチカンの狙いは何だ」
「お前に言うことはない。こっちが聞いてるんだ。大人しく言うことを聞かないなら……」
男は袖からナイフを取り出して、リチャードを切りつける。それを杖で難なくいなして、リチャードは皮肉げに笑った。
男の動きは大ぶりで、動く度に揺れる脂肪と、上がる息。
「よくそんな動きで、退魔師を名乗れるな。カトリックの退魔師も質が落ちたもんだ。先生なら落第だと言うだろう。それとも落第者だから、こんなつまらない仕事を与えられたのか」
「煩い、煩い、煩いぃぃ!!」
男は両手にナイフを取り出し、やたらめったらに斬りかかる。怒れば怒るほど、動きが単調になって、動きの予測が容易だった。
だから攻撃を簡単に躱し、杖でいなし、揶揄うように冷笑して踊る。その足運びは円を描き、その杖の軌跡は紋を刻み、唇は呪いを唱える。男はそれに気づいていない。
コツン。軽くリチャードが男の頭に杖を当てると、唐突に男の体がピタリと止まり、どさりと倒れた。
リチャードはそっと男の首に触れ、まだ息がある事を確認する。
「眠りの術。初歩の初歩に引っかかるとは、本当に三流だ」
男の上着のポケットを漁り、小さな手帳を取り出して、さっと目を通した。だが意味のありそうな言葉はたった一つしかない。
「ベイリー男爵。あの事件を探ってるのか? ああ……本当に面倒だ。休暇は辞めてロンドンに戻った方が良さそうだ」
リチャードはうっとおし気に、頭をかいて、手帳をポケットに戻し、そのまま駅に向かった。