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パイプから甘い香りの煙が漂い始める。リチャードが煙とともに、何語かも解らぬ言葉を紡ぎ出すと、パイプの煙と男爵の口から漏れ出る煙が絡み合い、結びつく。
「グハァ!」
初めて男爵は悲鳴をあげた。喉をかきむしって、体をひくひくと痙攣させる。
もがき苦しみながらリチャードに駆け寄って、大きな腕を振るいあげて殴りつけた。リチャードはとっさに躱したものの、パイプが遠くに飛ばされ、言葉は途切れた。とたんにピタリと男爵の悲鳴は収まった。
「そのパイプと呪文が鍵のようだな……面白い」
勝利を確信したように、男爵はその両腕でリチャードに殴りかかる。膨れ上がった男爵の鋼の筋肉で、殴られ蹴られれば一撃で死にかねない。リチャードは銃で捌き、飛んで跳ねて、巧みに男爵の攻撃をかわし続けるが、それでも全ては躱しきれずに、徐々に腕や足を削られ、コートを切り裂き、血が流れだす。
「魔の生物に効く研究によって生み出された化学物質と、伝統的な魔除けの薬草の融合。それを呪術で掛け合わせる……理論は同じだ。お前程外道ではないがね」
リチャードは男爵の攻撃を避けながら、少しづつパイプの方へ近づこうとする。何度となく殴られたリボルバーは、既に銃としての機能を失うほどに歪んでしまった。
金属の塊になったリボルバーを男爵の顔に叩きつけ、リチャードは首元からロザリオを手繰り寄せて外し、男爵を打ちすえた。
それは一瞬怯ませる程度にしか効果はなかったが、その一瞬のうちにリチャードは男爵から距離を取ることができた。
だが……そこまでだった。男爵はすぐさまリチャードではなくパイプの方に駆け出す。
勝利を確信したように、高笑いをあげて男爵がパイプに足を踏み降ろしたその時だった。
床に滑り込むように、メアリーが飛び込んできて、パイプを搔き抱いて庇う。男爵に踏みしだかれて、メアリーは苦痛の声をあげたが、即座にパイプをリチャードに投げ渡した。
受け取ったリチャードは、パイプを咥えて煙を出した後、また呪文を口にした。
「ウガァ!」
男爵が悲鳴をあげて苦しむ間に、メアリーは起き上がって男爵の体に、後ろからしがみつく。
そして……その首元に牙を突き立てた。
「グハァ……」
リチャードの力か、メアリーの力か、あるいは両方か。男爵の黒い影は薄くなり、嗄れた老人となり、体が黒い消し炭に変わっていく。男爵の苦悶の表情が途切れる間際、ギリギリのところでメアリーは男爵の左胸を刺し貫いた。
ボロりと黒い灰の塊が崩れ落ちる。
ほんの数分沈黙が漂った。リチャードとメアリーが息を整えるのに、それだけ時間がかかったのだ。
「君に助けられるとは思わなかったよ。ミス・ベネット」
「それは少し間違いですわ。ミスター。私はこの男を殺したかった。けれど、一人では倒せなかった。貴方の力を利用しただけですの」
そう言いながら握り込んだ手のひらを見せた。そこには禍々しい色で輝く石があった。
「あの男の魂がこの石に残ってますの。体が死んでも、記憶も苦痛も感情も、この石の中で生き続ける。今後はわたくしがこの石を道具に弄んでさしあげますわ」
ぞくりとするほど壮絶な笑みから、どれほど男爵を憎んでいたか伝わってきた。
「なるほど。実に合理的だ。おかげでこちらも助かった」
「それで……どうなさるの? 私も殺しますか?」
メアリーがリチャードの方を向いて、身構えたところで、リチャードはパイプをコートの下にしまって、首を横に振った。
リチャードが負った傷は浅いものではなく、武器も多くは破壊され、無傷のメアリーと戦うには分が悪かった。
「案内人を殺した事は目をつぶっておこう」
「見逃すのですか? お優しいのね」
「僕の仕事は、この化け物屋敷の事件の解決だ。そしてミス・ベイリーは既に数年前に死んでいる。君はこの男爵家と何の関係もない。それでいいだろう? ミス・ベネット」
それだけ言ってリチャードは、炎に包まれ始めた屋敷をでた。ちらりと振り向くと、扉の向こうで炎に包まれたメアリーが、じっと男爵だった消し炭を見下ろしていた。
「随分危険な仕事を回してくれたな、ヘンリー。この借りは高くつくぞ」
「すまん。大変だったそうだな」
「まさか君の東洋趣味が役に立つ日が来るとは思わなかったよ。ヘンリー」
「『備えあれば憂いなし』東洋の諺だ。報告書は確認したが、まさかベイリー男爵がここまでの研究をしていたとは……」
「報告書?」
リチャードは眉根を寄せた。汽車でまっすぐロンドンに帰ってきて、一番に警察に来たのだ。報告書を書く時間も届ける時間もなかった。
「先ほど、ミス・ベネットが届けてくれたよ。君からと言ってね。報酬の支払い手続きが残ってるのに、ミス・ベネットの連絡先がわからないんだ。リチャード。教えてくれないか?」
「なぜそれを僕に聞く」
「ミス・ベネットは君の紹介状を持って来たんだよ。君が一番彼女の素性を知っているだろうに」
ヘンリーはおかしなことをと首を傾げたが、リチャードは紹介状など書いた覚えもない。
ミス・ベネットが本物の案内人だったとしたら、あの鞄の中身は何だ? とリチャードは顔を強張らせる。
「ヘンリー。ベイリー男爵の娘は三年前に亡くなっているのだよな?」
「ベイリー男爵の娘? 事前調査で貴族年鑑も調べたが、ベイリー男爵家に子供はいない」
リチャードは背筋が凍ったかのように身震いした。
自分は何か重大な間違いを犯したのではないかという予感。
……そう。ミス・ベネットの正体が、ベイリー男爵の娘であり、化け物であるという事。それを今この世で唯一知ってるのは、リチャードだけなのだ。
「そうそう。報告書の合間に、リチャードへの手紙が入っていたよ。安心しろ。中身は見てない。可愛い少女からの恋文か? 中々罪作りな男だな」
ヘンリーの揶揄いを無視して、手紙の封を開けた。そこにはこう書かれていた。
『二人だけの暑い夜をお忘れになってください。でないといずれ貴方を殺しに伺います』
リチャードは深く深呼吸をして、パイプを口に銜えた。
「とんでもない恋文だ」
誰かに彼女の話をしようものなら、おそらく殺される。今、この時も見られてる。そんな予感がした。
霧に包まれたロンドンのどこかで、彼女はタイプライダーを打つ。禍々しい色の石を埋め込んだ、漆黒の陶磁器製のタイプライターに、強く指を叩きつけるように、毎日、毎日。
カタ、カタ、カタ、カタ……。
今日もタイプライターの音が、悲鳴のように鳴り響く。
東洋趣味の英国人END
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