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夕暮れが近づくサウサンプトン港。
エンジンを暖めた蒸気が船の煙突から噴き出し、乗組員がせっつくように、しきりに乗船を促す。大型の貨物は運び込まれ、客は次々と船の中に飲み込まれていく。
出発時間が近づき、乗船客と見送りがしばしの別れを惜しみ、港は人で溢れていた。
「……ヘンリーも忙しいだろう。わざわざ見送りに来なくても良いのに」
「生きて帰って来いよ。リチャード」
「君は心配性だな。解っている。帰ってきたら殺人未遂の被害者として証言するから」
「そういう話じゃない。リチャードが心配なんだ。船の上で何かあったら、逃げ場がないだろう」
「わかった、わかった、帰ってきたらいつものパブで、キドニーパイを食べよう。もう切り裂きジャックはいないから遠慮無く食べれるだろう」
見送りに来たヘンリーをからかうように、リチャードはクククと笑った。
そのやりとりを、メアリーとベアトリクスは微妙な目線で見ていた。
「ミスターのあんな笑顔、初めて見ますわ」
「私も長い付き合いだと思ってたけど……上には上がいるのね」
あれこれとヘンリーに荷物を押しつけられ、リチャードは肩をすくめながら乗船した。
港で必死に手を振っているヘンリーへ、船の上からリチャードは手を振り返す。
海風に乗って、銀のグラスコードがさらさらと音を立てて揺れた。紳士用ステッキをしっかり握りしめ、甲板にトンと突き立てる。
「ずいぶんと心配されてましたわね」
「ヘンリーの感によると、この航海は危険だそうだ。彼の感はよく当たるから、馬鹿にできないのだけれどね」
「未来予測……だったかしら?」
「ああ。感の良さだけは、カッシーニ先生も認めてたよ」
カッシーニの暗躍を、ヘンリーとリチャードが阻止したことがある。あの時もヘンリーの感は良く当たった。
だから、今回の感もあたるのだろう。
血のように真っ赤な夕焼けと、悪い予感が、不吉さを滲ませて、船は港を離れた。
「これが一等旅客用のラウンジ……美味しそうなお菓子がいっぱいですわ!」
「お酒も上質、客も上質。見て、あの方のドレス。今、流行のデザインよ」
メアリーとベアトリクスは、本来の目的を見失っている。リチャードは、苛立たしげに紳士用ステッキでコツコツと床を叩いた。
「ここに何のために来たのかな? レディ」
「少しだけでも一等旅客の気分を味合わせてくださいませですの。このあと三等旅客用の食堂に参りますから」
「ミス・ベネット。あそこはガラが悪い者も多い。レディが行くより僕が……」
「リチャードはここにいなさい、私は二等旅客の方に行ってみるわ」
「ベアトリクスまで。何故だ?」
リチャードの戸惑いに、解ってない……という呆れ顔で溜息をつきあう。
「三等旅客は船の下の方。薄暗くて、不潔で、匂いもきついし、騒がしさはここの比ではないですわ」
「三等に比べれば、二等の方がずっとマシだけど、ここの上品さの方が楽よね」
リチャードが杖の助けで、耳も鼻もいつもより効かないとはいえ、限度がある。
騒音・悪臭で体調を悪くさせたくない。そう気遣う女性陣に、リチャードは美しい所作で礼をした。
「レディに手間をかけさせてすまないが。そうしてもらえると、正直助かる……ありがとう」
リチャードの素直な礼の言葉が珍しくて、メアリーとベアトリクスは照れたように目を伏せて微笑んだ。
その時だった。
「……リッチ? リチャードよね?」
懐かしい愛称に、思わずリチャードが振り返ると、やぼったいくらいに古風なドレス姿の女が立っていた。
年は20代前半くらい。貞淑に黒髪を結い上げ、黒目がちの瞳で、リチャードをじっと見上げるその顔に、どこか覚えがある気もするが、思い出せない。
ふと耳が目についた。上の方が尖った変わった形の耳。それを見て思い出した。
「エリザベスよ。エリザベス・シンクレア。忘れてしまったかしら?」
「リズか! ずいぶんと久しぶりで……見違えた」
「「……お知り合い??」」
同時に問われて、リチャードは言葉に迷う。血のつながりもないし、親戚ではない。だが、どこか妹のような心境もある。
「昔、近所に住んでいた、幼馴染み……と言えば良いのだろうか?」
「そうね。最後にリッチと会ったのは、私が10歳の頃だったわ。リッチはその頃パブリックスクールに通ってたから、休暇にしか会えなくて」
「そうだった。二人でよく会っていたのはもっと前で……そういえば、リズはドイツに行ったのだったかね?」
「ええ。父の仕事の都合で、ドイツ、フランス、スペイン……本当に転々として大変だったわ。最近英国に帰ってきたの」
リチャードとエリザベスの親しい様子に、メアリーはどこか不満げに唇を尖らせ、ベアトリクスも苛立たしげに赤毛を弄った。
黒目がちな眼を細め、エリザベスはじっとメアリーを見た。
「何か?」
メアリーに問われ、失礼だったと慌てて眼を逸らすように、ベアトリクスへ視線を移す。
「リッチ……ミスターにそんな愛称があるのですわね」
「私も知らなかったわね。ねえ、パブリックスクールより前って、ヘンリーより、さらに古い付き合いじゃないかしら?」
「……何故不機嫌になるのかね?」
メアリーとベアトリクスが不機嫌な理由が解らないとばかりに、リチャードは肩をすくめる。
そっとリチャードの袖が引かれ、振り返るとエリザベスは申し訳なさそうな顔をしていた。
「あの……お友達と一緒の所を、お邪魔してしまったかしら。ごめんなさい」
「いや、迷惑というわけではないのだが……そういえば、リズ。君1人でこの船に乗ってるわけではないだろう? ご家族は?」
上流階級の女性は、普通1人歩きなどしないものだ。
問われて、ちらりと壁際を振り返る。お仕着せを着込んだ男が、窮屈そうに立っていた。
「メイドには、今客室に物を取りに行ってもらってるの。あそこにいるのが、うちの従僕よ。でも……家庭教師ならともかく、従僕にエスコートは頼めないもの」
使用人にも格があり、家庭教師であれば、時には舞踏会で令嬢と踊ることもできた。
階級社会の常識を思い出し、リチャードは久しぶりに、普通の淑女とはこういうものだと気づいた。
メアリーやベアトリクスが、あまりにも規格外すぎるのだ。
「……ミスター。わたくし、自分の持ち場へ戻りますわ。ごゆっくりどうぞ」
「そうね。私も行くわ。ごゆっくりどうぞ」
盛大に誤解している。そう言いたかったが、言う前にメアリーとベアトリクスはラウンジから去ってしまった。
エリザベスは申し訳なさそうにしょげていた。
「……ごめんなさい。久しぶりにリッチの姿を見かけて、嬉しくて、つい話しかけてしまって」
「旧友に会えたら、声をかけたくなるのは、人として当然だ」
エリザベスの顔がぱっと明るくなった。
素直で優しく無邪気な少女の顔が重なる。……大人になっても、子供の頃の面影はなくならないものだ。
「リズ。実は僕は急遽この船に乗ることになって、カテドラル号について詳しくないのだ。教えてくれないか?」
「もちろん。リッチの役に立てるなら、嬉しいわ」
船は中央にラウンジがあり、船頭と船尾に客室。客室の下、底の方に貨物用の倉庫がある。
ラウンジも最上階が一等。その下が二等で、更に下が三等の食堂となっている。
そう説明するエリザベスの英国英語が訛っていることが、少しだけ引っかかった。しかし海外暮らしが長ければ仕方が無いと聞き流す。
「もちろん、客室で休んでる人もいるけど、せっかくの豪華客船で、このラウンジを楽しまないのはもったいないでしょう? だから、今の時間帯なら、多くの人はラウンジにいると思うわ」
「……なるほど。夜遅くなれば、みな客室に戻っていく」
この船の規模から推測するだけだが、客室を1つ1つ点検して回ったら、時間がいくらあっても足りない。
だとするなら、人の多い時間帯に聞き込みを済ませてしまいたい。
「ありがとう。リズ。すまないが、少し1人にさせてくれないか」
「……ええ」
とてもがっかりした表情で、それでも小さく頷いてエリザベスは去って行った。
その後ろ姿を見て、ふいに実家の応接室を思い出した。両親が死んだあの日を。
あの家の住人が死んだのは、自分のせいだ。あれ以来、普通の人間と付き合うのを辞めてしまった。
エクソシスト候補生で警察のヘンリーや、ドルイドで家に引きこもる祖母のバーバラと違う。
エリザベスが、ごく普通の淑女なら、あまり関わらない方が彼女のためだ。そう心の中で言い聞かせる。
ふとメアリーとベアトリクスのことを思い出して、思わず皮肉気な笑みが浮かんだ。
色々と面倒で、淑女らしくない所だらけだが、だからこそ側にいられる。そういう女性達は希有だ。




