前編
聖堂の地下は迷宮のようだ。
初めて入ったとき、リチャードはそう思った。
地下へ通じる階段をひたすら下り、煉瓦造りの壁を伝って、なんども角を曲がる。湿って淀んだ空気に、どこか静謐で犯しがたい神聖さが漂っていた。
ここは地下と呼ばれる、退魔師の拠点だ。
メアリーは、ここに立ち入るだけで具合が悪くなる。だから、警察に引き渡した、リーのほうを任せた。
何もない突き当たりの壁に見える場所で立ち止まる。
コツ、コツコツと、リチャードがステッキで床を叩くと、壁に見えたそこに扉が生まれた。開くとそこにベアトリクスが待っていた。
「お疲れ様。リチャード。……そちらは上手くいったのかしら」
「ああ……問題ない。ベアトリクス。君は大丈夫だったのか?」
「怪我はないわ。疲れたし、早くベットで寝たいくらいだけど……お嬢さん大丈夫だったの?」
言われてリチャードは、一瞬眉をひそめる。ビッグ・ベンで起こった出来事を、メアリーに話をした。
まだ、信じられない、信じたくない。あの無敵のカッシーニが魔物に取り込まれたなんて。そういう顔をしていた。
「エリオットが先生を幽閉したわ。今の所、大人しく囚われているわね」
「グスタフも一緒か?」
「もちろん。貴方を待っていたのよ。カッシーニ教室の生徒も、もう残り少ないし、戦力が足りないわ」
クリスはもう助からない。そう思っているのだろう。だとしたら残り4人、そのうち2人は敵だ。
ベアトリクスの案内で地下を歩く。その方向からリチャードも推測できた。この先には監獄塔と呼ばれる、牢獄がある。
強力な退魔術で封印された、脱獄困難な牢獄。そのはずだった。
あの化物をどれだけ囚えておけるのかわからないが。
監獄塔に入ると、エリオットが案内人のように待っていた。
深夜の教会で会った。あの日、エリオットは壊れた。
だが、真っ白な司祭服を着て、いつも絶やさぬ柔らかな笑みを浮かべた姿は、何も変わっていないかのように見えた。
「リチャード。よかった。無事だったんだね。聞いたよ。あの術式を行った東洋人を捕まえたとか」
「ああ。中国の要人だ。秘密裏に手出しすれば国際問題になる。警察に任せておけばいい」
「警察に君の友人がいたね。それなら安心だ。ところで……君が言っていた、会話が通じる屍人はどこにいるんだい?」
笑顔を張り付かせたまま、そう問いかける。場所さえわかれば殺しにいく。そう言わんばかりだ。
「知らない。ロンドン中にあれだけ死人の群れが湧いたんだ。どこかで死んでいるかも知れないな」
「だったらよかった。君が魔に魅入られる前に殺しておかないと。リチャードは昔から、良くない物に愛される大変な体質だからね。僕は君の力になりたいんだ」
屈託のない笑顔だからこそ、ぞっとした。エリオットは完全なる善意でメアリーを殺すだろう。決して悟られてはいけない。
ちらりと後ろを見ると、グスタフが軽薄な笑みを浮かべて、ひらひら手を振っていた。
「遅かったな、色男。また可愛い女の子でも泣かせてたのか?」
「冗談はよしたまえ、グスタフ」
オックスフォードで殺し合った、あの時のことがなかったかのように、いつもと変わらない。
「まあまあ、そうカリカリするなってーの」
そう言いながらリチャードの肩を抱いて、耳元で囁いた。
「エリオットには話してないからさ……あとであのボーンチャイナの謎、聞かせてくれよ」
「タイプライターで満足したのではないかね?」
しっとエリオットに聞こえないように、背を向けて小声で話し始める。
「タイプライターの件はエリオットに言わずに、英国国教会内部で調べてもらったよ。……実物だけ見ても、作り方はわからないってさ。あれはリーって男が作ったんだろ? 尋問して何か解ったら教えてくれよ」
仲間であるはずのエリオットに言わずに、ボーンチャイナの謎に迫ろうとする。それはグスタフの打算だ。
そこにつけいる隙がある。
「何か解ったら教える」
そうとだけ答えて、歩みを進めた。
まるで告解室のような格子の向こうに、カッシーニが座っていた。体中に拘束具をつけられ、目隠しもされている。
しかし額の瞳は健在だ。
「クリスが、リチャードも揃わないと何も言わないってね。だから待ってたんだ」
エリオットが困ったように首を傾げたので、苦笑いを浮かべ格子の前で座り、問いかけた。
「クリス……でいいのか?」
「ああ。今カッシーニは中で戦っている。この体に封じ込められた化物と。時間稼ぎにしかならないが」
「中で? カッシーニはまだ死んでない?」
「……イエス。まだ、だ。僕も、カッシーニもそう長くは持たない。僕らが死んだとき、この化物は解放される。その前に、先に従僕を倒さなければならない」
「わかった。急ぎ倒そう。場所は解るか?」
「おおまかには。12体のうち、10体はイングランド島の中に留まってくれてるようだが、2体はサウサンプトン港に向かっている。船に乗って英国を脱出する可能性がある。まずはこの2体を早急に止めないと」
「海外に逃げられては、後を追うのは苦労するな」
「ああ……残りの10体の位置の特定をしておく」
肩に手を置かれて顔をあげると、エリオットが微笑んでいた。
「英国領域内の様子は、英国国教会が監視し探ろう。いざとなったら、僕とグスタフで押さえる。カッシーニの監視も引き続き必要で、僕達はここに留まるしかないんだ」
「僕とベアトリクスで、港の従僕を倒しに行けば良いのかな」
「危険な任務を頼んですまないね。最近事件を追ってばかりで、リチャードは疲れているだろうに」
気遣わしげに、エリオットの手がリチャードの頬を撫でる。眼鏡に触れたところで、さりげなく手を払いのけて、リチャードは立ち上がった。
お人好しのエリオットらしく、心底リチャードを心配してみせたのだろう。
だが眼鏡なしで視線を合わせたら、本音を見透かされそうな気がした。底の知れない実力者との争いは、できるだけ遅らせたい。
「構わない。これはエクソシストの仕事で、事は一刻を争う。ベアトリクスは大丈夫かね?」
「ええ。でも港に向かう前に休憩させて。流石に疲れたわ」
「解った。僕の家を提供しよう。あそこはそれなりに頑丈に作ってある」
「あら。リチャードが家に招いてくれるなんて、嬉しいわ」
舌舐めずりするベアトリクスと、口笛を吹いて囃し立てるグスタフを無視した。
昔と変わらない光景だが、もう3人も欠けている。
これ以上減ってしまっては、英国の危機だろう。
「サウサンプトン港の何処にいるか、正確な位置が解ったら知らせを送るよ」
エリオットの言葉に会釈で返す。
まるでマナーのお手本のように、ベアトリクスに腕を差し出して、眉を跳ね上げた。
疲れた淑女を支えるのも、紳士の役割であり、同時にベアトリクスへもう少しお淑やかにしろという皮肉もこめていた。
「淑女を待たせている。急ごう」
メアリーが待っている。
そういう意味だと気づいて、ベアトリクスは不機嫌そうに荒っぽく、リチャードの腕を掴んで歩き始めた。




