レディの時間Ⅲ
濃い霧が漂うロンドンの石畳を蹴って、リーが走る。向かう先は港だ。このままテムズ川を下ればすぐに着く。
「船に乗って、清へ逃げるのかしら? ミスター・リー」
その声に思わずリーが立ち止まる。悲しげな目をしたメアリーが、ポツンと立っていた。
「メイ! そうだ。ロンドンは……英国は、もう終わりだ。化け物に食い尽くされ、国が滅ぶ。君も一緒に清へ行こう」
リーは流暢な英語を口にし、手を伸ばした。
リーが一歩、歩み寄るたびに、メアリーは一歩、後退していく。
「ミスター。貴方は今、幸せ? 憎い英国人を、何人も殺して、この英国を滅ぼす魔術を行って」
「……ああ、もちろん。英国人もクリスチャンも、大嫌いだ。皆死んでしまえばいい」
「わたくしも……英国人ですわ」
唇を尖らせ、ぷいっとリーに背を向ける。
「違う。メイは……特別で」
「ミスター。わたくし、踊りが好きですの。甘いお菓子も、可愛いお洋服も大好きな普通の淑女ですわ」
リーに背を向けて、一歩、一歩歩む姿は背中だけでも寂しげで、思わず引き込まれるようにリーは後を追う。
メアリーの肩に手を伸ばした所で、くるりと振り返る。愛らしい笑みが溢れた。
「今もそれを楽しめるのは、貴方のおかげ。とても感謝してますの。だから……最後にShall We Dance?」
無邪気に差し出された手を、思わずリーは握った。西洋式の踊りなど知らなかったが、メアリーにリードされるまま、霧の街中で踊り始める。
「この体は……ミスターの妹さんの?」
「そうだ」
「どうして……そんな大切なものを私に?」
こてりと首を傾げて、微笑むメアリーの顔はとても無邪気に見えて、リーは思わず目を細めた。
「その表情だ。人形に感情もなく、表情もない。それがたまらなくもどかしくて……。メイ。君の表情は私の妹にそっくりだ。また……あの子の笑う姿が見たかった」
「それだけ……ミスターにとって大切な人だったのですね。妹さんは」
くるくると、踊りながら、ゆっくりゆっくり街中を移動する。
どんどん霧が濃くなっていって、今ロンドンのどこにいるかも分からぬほどだ。
「でも……わたくしはミスターの妹の身代わりではないですの」
唇を尖らせて拗ねるメアリーに、慌てて機嫌をとるようにリーは口を開く。
「もちろん……。愛玲と君は違う」
「なら……メイではなくて、わたくしの名前を呼んでくださいませ」
「……メアリー」
掠れたリーの声に、満足げにメアリーが微笑み、リーの体を強く引いた。
うっかり躓きかけて、はたとリーは気づく。
静かすぎる。今ロンドンの街には化け物が徘徊しているのだから、そのうなり声が聞こえても、おかしくない。それに風も感じないし、どんどん霧は濃くなるばかり。
──ここはどこだ?
初めて目の前のメアリーを疑った。
どこからか、低い男の歌が聞こえる。何語なのかもわからぬ、奇妙な歌が繰り返し、繰り返し、耳に響く。
こんな不気味な声に気づかないなんて不自然だ。手を離そうとして、強く抱きしめられる。
「逃がしません……ですの」
その囁きで、リーは全てを察した。これは罠だ。
気づいた時には遅すぎた。メアリーの腕は恐ろしいほどの怪力で、しっかり掴まれては振りほどけない。
なぜだか思考がぼんやりとして、蟲を生み出す呪術も働かない。
「メイ……メアリー……君は……」
「ごめんなさい。ミスター・リー。貴方のことが、好きでした。でも……今はもっと好きな人がいるの」
ズドン!
薄紅色の唇が、残酷な言葉を零したその時、霧の中を突き抜けるように、銃声が鳴り響いた。
リーの太ももに弾丸が突き刺さる。思わず崩れ落ちるリーの体にメアリーはのしかかり、素早く腕を拘束し、猿轡を噛ませる。その後、太ももの付け根を布で縛り、止血をした。
「本当に……ごめんなさい。騙し討ちをしてしまって。でも……どうしても貴方を生きて捕まえなければ、いけなかったのですわ」
リーが苦悶の表情で、メアリーを見上げる。その視線には裏切りへの怒りが滲んでいた。
その視線に耐えきれずに、首筋に手刀を落とす。それでリーの意識は刈り取られた。
「遅れてすまない。ミス・ベネット」
「リーに気づかれずに、目的地へ誘導するのも大変でしたし、ミスターが来るまで、足止めできるかヒヤヒヤしましたわ」
リチャードはリーの顔に手を置いて、まだ息がある事を確認する。それから杖を握りしめて、低い歌声を響かせた。
すると濃い霧が徐々に薄まっていった。
「呪術封じのドルイドの呪歌ですの? 凄いのですわね。歌が始まっても、しばらくリーは気づいていませんでしたわ」
「気づかなかったのは、ミス・ベネットに意識が向いてたせいもあるだろう。ドルイドの秘術は時間がかかるし、下準備が必要だ。そこまで引き摺り込むのが難しい」
「ミスターとわたくしの連携作戦……ですわね。リーには……申し訳ないですが」
眠るリーを見つめながら、メアリーは強く唇を噛み締めていた。
震える体を、きつく抱きしめて、自分を強く責めているように。
そんなメアリーの体に、リチャードはコートをかけて告げた。
「ミス・ベネット。すまないが時間がない。すぐにリーの身柄を警察に引き渡そう」
「大魔術の阻止は失敗ですの?」
メアリーの問いに、リチャードは眉をひそめた。何か答えづらい事を告げるために、躊躇うように。
「ああ……それについて、歩きながら説明しよう」
メアリーはリーの体を抱き上げて、大人しくリチャードの後をついていった。
ロンドンの魔物 END
NEXT to be continued




