3
薄暗いロンドンの地下を、リチャード達は歩いていた。
近年作られた英国が世界に誇る地下鉄だ。すでに終電を過ぎて、列車は車庫に入っている。
「ミスター……それでは手筈通りに」
「予定通りの場所に準備はしてきた。後はミス・ベネットに任せる」
任せるの言葉に、メアリーは思わず口元を綻ばせる。
「かしこまりました。ミスター。そちらもお気をつけて」
綺麗にお辞儀をしてから、メアリーはちらりとカッシーニを見た。
「先生。次は銃のレッスンをお願いしたいですわ」
「向上心がある事は良い事だ、レディ。上手く作戦を成功させたら、次のレッスンだ」
メアリーは花のような笑顔を浮かべて、再度お辞儀をして駆け出した。
「エクソシストの銃は使えないでしょうに」
「対人間用の一般的な銃なら、レディにも使える。リチャード。君が教えてもいいはずだがね」
対人間用の銃の扱いを教える。それはメアリーに、化け物ではなく、人殺しをさせるという事でもある。そこにまだリチャードは、微かなためらいがあった。
地下の途中でメアリーと別れ、リチャードとカッシーニはビッグ・ベンへ向かった。
今は英国議会の議事堂として使用されているウェストミンスター宮殿。その最北端に、ビッグ・ベンはある。
ウェストミンスター駅に辿り着き、階段を駆け上がって地上へ足を踏み出した時、思わずリチャードは目をみはった。
濃い霧に包まれても、その存在感を主張し、地上からそびえ立つ、ビッグ・ベンの大きさは、何度見ても息を飲む。
世界最大の時計塔にして、英国の栄光の象徴。その針は休む事なく時を刻み続ける。
女王でも議員でもなく、この英国の象徴を破壊することこそ、敵の狙いかもしれない。そんな事をふと思いついた。
その時、ビッグ・ベンの鐘がなり、午前十一時四十五分を告げた。
「リチャード。約束より早いな」
少し離れたところから、クリスの声が聞こえた。
今日のロンドンを包む霧は一段と濃く、近づくまで姿が見えない。ゆっくり歩いて、やっとクリスとベアトリクスの姿が見えた。
「久しぶりだね。クリス。君の実力を見るのが楽しみだよ」
「お久しぶりです。カッシーニ先生」
大事件が起こる前とは思えぬほどに、楽しげに笑うカッシーニに対して、クリスの無表情もいつも通り。カッシーニに殺意を抱いているとは微塵も感じられない。
「あら? お嬢さんは?」
「ミス・ベネットには別の場所に行ってもらった」
「いいの? リーへの切り札でしょう? それとも……エリオット達を警戒して?」
「それもある……が、リーへの切り札だからこそ、やって欲しいことがあった」
ベアトリクスは納得してないようだったが、それ以上追求を辞めた。
リチャードは左手に樫の杖を持ち、右手の銀のリボルバー。ベアトリクスは揃いの真鍮のリボルバーを、両手で握りしめる。クリスは杖を片手に持っていた。
カッシーニは猟銃を手に持ち、ビッグ・ベンの文字盤を見上げた。
「ロンドン中に力が満ちている。今ここにkeyが揃えば完成だ」
「keyは何ですか?」
リチャードの問いに返事をせず、カッシーニはクリスを指差した。まるで授業中に生徒を指名するように。
「触媒……ですね。ロンドンに満ちた力を、陣で纏めて、触媒に憑依させる。それで魔術は完成する。問題は触媒が何かわからないこと」
「その通り。魔術の成功は、触媒の質にかかってくる。これだけ大きい魔術を行うならどんな触媒か。聖遺物だったら楽しそうだ」
カッシーニの言葉に、リチャードは内心ひやりとした。聖遺物ならクリスの体に埋め込まれここにある。
その事をカッシーニが知っているのか、知らないのか。クリスを指名して答えさせた事さえわざとな気がして、落ち着かない。
「よう! リチャード、クリス、数日ぶり」
振り返ると霧の中から、軽薄な笑みを浮かべたグスタフとエリオットがやって来た。この前殺しあったというのに、そんな事件などなかったようにいつも通りだ。
エリオットも変わらぬ柔らかな笑み。
「先生。お久しぶりです。お元気そうで」
「エリオット。君も相変わらずかね。私はまだまだ現役を続けるよ」
互いに笑顔で、恩師と生徒の久しぶりの再会。しかしエリオットには奇妙な緊張感があった。笑顔で殺意を誤魔化すように。
「これで全員揃ったね。メルヴィンとジミー以外は。けっこう、けっこう」
カッシーニの言葉にエリオットの目が一瞬険しくなる。当然だ。二人を殺したのはエリオットなのだから。
わざとエリオットの神経を逆撫でしているかの如く振る舞いに、他人事なのにリチャードは苛立つ。
「リチャード? 敵の様子は?」
カッシーニの言葉に、リチャードは杖を握りしめて、五感を研ぎ澄ませる。
その時ビッグ・ベンの鐘がなり午前0時丁度を告げた。
まるでその時間を測ったかのように、気配が一気に膨らんだ。
──あまりの衝撃に、吐き気をもよおして、がくんと地面に膝をつける。
「リチャード! 大丈夫」
「……いる。……とんでもない数の化け物がいる。ビッグ・ベンの中は真っ黒だ。それに囲まれている」
あまりにも大量の死臭や気配を感じ取って、リチャードは気分を悪くした。すぐに感覚を遮断して、立ち上がる。
濃い霧の中で、ひたひたと忍び寄る化け物の群れ。
僵尸、骸骨、人間蜘蛛、狼男。大量のそれらがゾロゾロと這い出して、退魔師達を取り囲んだ。
周囲がざわざわと音をたて始めると同時に、ビッグ・ベンから化け物が飛び出してきた。
「ククク……あはは……素晴らしい、最高の舞台じゃないか、諸君」
緊張感が走る中で、カッシーニは一人だけ、とても楽しそうに嗤っている。猟銃をリチャードに放り投げ、ナイフとリボルバーを取り出した。
「皆に課題を出そう。私より多くの数の化け物を倒す事。私に負けたら落第だよ」
そう言って、カッシーニはビッグ・ベンから出てきた敵の群に飛び込んだ。
ここにいるメンバーは、既にカッシーニの学校の生徒ではない。故にカッシーニの課題に付き合う必要もない。
だが、自分の身を守るために戦わなければいけないのは確実だった。
「先生より多く……ですね。もちろん課題はクリアします」
エリオットの表情は優しげでありながら、瞳は炎のように揺らめいた。カッシーニに煽られて、ムキになったようだ。
ビッグ・ベンの東、テムズ川にかかったウェストミンスター橋へ近づき、橋の上をゆっくりと歩く、化け物達を見据えた。
祈りの言葉と共に杖を振るうと、青い光の風となって、化け物達を薙ぎ払う。味方すら巻き込みかねない暴風雨のようだ。
グスタフはエリオットに背中を向け、ビッグ・ベンの西側へと駆け出した。片手に銀のナイフ、片手に青白い光を纏う退魔術のナイフ。敵によって使い分けて、敵の群れの中で乱舞する。
ベアトリクスとリチャードはピストルを持ち、背を合わせて、互いの死角を守りつつ、北からの敵に備えた。
銃で遠距離から攻撃。銀の銃弾が、青い弾丸が、敵を確実に仕留めていく。
クリスは一見何の意味があるのかわからない動きで、戦場を走り回り、杖から炎を生み出し、敵を焼いていく。
じっくりクリスの動きを観察していたものならわかっただろう。リチャードとベアトリクスを狙う敵のみを、攻撃してるという事に。
七人会の五人の学徒達の攻撃で、包囲していた敵の数は減っていった。
南側のビッグ・ベンから溢れ出す敵は、カッシーニが一人で狩り続けている。化け物じみた活躍で、化け物の骸の山ができつつあった。
その違和感に一番に気づいたのはリチャードだった。
「おかしい……。外の化け物の気配は減ってるのに、ビッグ・ベンの気配はむしろ強くなってる」
「どういう事? 数が増えてるの? リチャード」
「……わからない。気配が混じり合いすぎて数は確認できない。ただ……巨大な気配が膨れ上がってるような……」
「……リチャード。私が援護するから、こっちは任せてビッグ・ベンへ行って」
「ありがとう。ベアトリクス」
ベアトリクスが牽制射撃で、化け物を振り払った隙に、リチャードは走り出した。
ビッグ・ベンの中へ飛び込むと、まだ新しい白壁と黒い手すりが目に入った。吹き抜けの狭い螺旋階段をひたすら駆け上がる。
延々と続くのではないかと不安になるほど、長い長い階段を駆け上がって、やっと鐘の部屋にたどり着くかという頃に、不意に鐘がなった。
ゴーン、ゴーン、ゴーン。低音が三度響く。
ビッグ・ベンの鐘の音の回数やメロディーは、時間によって正確に定められている。早すぎる午前三時の音に嫌な予感を感じた。
階段を登り切って、ようやく鐘の部屋にたどり着いた。人が何人も入れそうなほど巨大な鐘が、真ん中に釣り下がっている。並んだ柱の合間から、剥き出しのロンドンの街並みが見えた。
霧のせいでぼんやりとしているが、深夜であるのに、まだ灯のついた場所がいくつも見える。眠らぬ霧の魔都。
巨大な鐘を打ち鳴らすのは、振り子に固定されたハンマーだ。カッシーニはそのハンマーの側で戦っていた。周囲に化け物の骸が積み上がっている。
「カッシーニ先生!」
リチャードは声をかけてみて、酷い違和感を感じた。
カッシーニは嗤っていた。嗤いながら、素手で敵を次々と屠っている。
全身に青い光を身に纏い、僵尸を殴り殺し、蹴りで骸骨の骨を砕き、人間蜘蛛を踏み潰し、狼男を投げ飛ばす。
「……馬鹿な……」
例えカッシーニが優れた退魔師とはいえ、武器を使わずに戦えば、毒や呪いを受けるはず。なのに、その気配がない。
しかも……一番の違和感は、カッシーニの気配だ。
──まるで化け物みたいな気配じゃないか。
この違和感の正体を考えようとした矢先、敵の中心に、リーがいる事に気が付いた。
その手に紙の呪符を持って、不敵に嗤ってる。
『蟲達が共食いを続け、もっとも強い蟲が、最も強い化け物になる』
中国語の言葉の後に、紙の呪符をカッシーニに投げつけた。呪符はピタリとカッシーニの額に張り付く。
「グォォォ……!!」
カッシーニが突然叫び声をあげて立ち止まった、体が小刻みに痙攣する。
その瞬間、ロンドン中に満ちた魔力が、カッシーニの体に吸い込まれていった。
巨大な魔術の奔流は眩しい程で、思わずリチャードは目を細めた。膨大な魔力を吸い続け、カッシーニはの体は、叫びと痙攣を繰り返す。
その体がぐらりとかしいだ。
たたらを踏んだカッシーニは、なんとか踏みとどまろうとしたが、その足元は既に床がない。
柱の合間から落ち、その身は宙へと吸い込まれて行った。




