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リチャードとメアリーはお昼過ぎまでしっかり休んだ。
今夜ビッグ・ベンへ向かうと決めたから。危険な戦いになる前に、しっかりとした休息が必要だ。
「ミスター。アフタヌーンティーへ行きましょうですの」
「喫茶店に?」
「ええ。緊張する時ほど、普段通りの事をして、リラックスするのも大事ですわ」
メアリーがお菓子を食べたいだけだろうとも思ったが、一理あるとも思ったので、了承して喫茶店へ向かった。
「ああ……ヴィクトリアケーキ……。久しぶりですわね」
ケーキをうっとり眺めて、おもむろにフォークを突き刺す。菓子に夢中になるメアリーを放置して、リチャードはTimesを読みつつミルクティーを飲んだ。
「流石にこれだけの人間が消えれば、話題にならないわけがないな」
Timesには、最近ロンドンで失踪者が多数出ていることが話題になっていた。切り裂きジャック事件がまだ終わってないのではないか? とも書かれている。
ユニバー社の菓子に毒物が入り込んでいたので、食べないようにという注意喚起の記事も話題だ。
闇の世界の事件が、じわじわとロンドンを蝕んでるような、そんな感覚がし始めた。
二人がのんびりアフタヌーンの時間を過ごしていると、クリスとベアトリクスがやってきた。
預り所を通して連絡を入れておいたのだ。
さっそく、二人に魔法陣が完成間近なこと、今夜ビッグ・ベンに行くので協力して欲しいことを話した。
「問題ない。もとより最優先事項を、ロンドンの大魔術阻止に切り替えたのだから、協力するつもりだった」
「クリス。君の部下はどうするんだ?」
「……女王が危険になるかもしれないから、バッキンガム宮殿を見回るように、言っておいた」
クリスの懸念は正しく、適切な処置だと思う一方、やはりあの三流にビッグ・ベンへやってこられたら、足手まといだと考えているんだろうと、リチャードは推測する。
「エリオットの所に行ってみたのよ。ほら……私はまだ目をつけられてるわけじゃないし」
今日の午前中、聖堂に行ったところ、グスタフもその場にいて二人で話をしていた。
エリオットはロンドン市内の魔力の流れがおかしいことに気が付き、その中心がビッグ・ベンだろうという推測を導き出した。
「つまり……二人もビッグ・ベンに来る可能性が高いな」
「そうでしょうね。まあ……ロンドンの危機の方が重要だもの。それが解決するまでは、こちらを襲ってこないんじゃない?」
「魔術阻止までの協定だ」
クリスがわざわざ念を押したのは、阻止した後は、カッシーニを襲うという宣告だろう。メアリーの眉が跳ね上がり、視線が落ちた。
リチャードだけが気が付いた。この短期間の間に、メアリーはカッシーニにずいぶん好意を持った。教師として尊敬しているのだろう。死んでほしくないと思うくらい。
リチャードは小さくため息をつく。
メアリーの願いを叶えてあげたいところだが、エリオットとグスタフだけでなく、クリスまで敵に回すことはできない。
「西洋と東洋のかけあわせ、東洋趣味だそうだ。こんな魔術は、今までに例がない。何が起きるかもわからないし、攻撃手段は複数持っていったほうがいいだろう。特にベアトリクス。君の得意の組み技は辞めておいた方がいい。どんな毒や呪いがあるかもわからない相手に、生身で触れるのは危険だ」
そう言ってリチャードは他の客に目立たぬように、真鍮のリボルバーを差し出した。リチャードが愛用している霊銃だ。
ベアトリクスは驚いたように目を見開き、少女のような笑顔を浮かべ受け取る。
「射撃は苦手だけど……リチャードの武器を預けてくれるのは嬉しいわ」
メアリーは羨ましそうに、ベアトリクスをじっと眺めた。
「お嬢さんは銃の扱い方がわからないですものね」
「……今はまだ……でも、いずれ覚えますわ」
メアリーは唇を突き出して拗ねる。
普通の銃なら、練習すればメアリーも使えたかもしれないが、退魔師用の銃は不可能だ。
銀はメアリーを傷つけ、霊銃は退魔術を使えないものに意味をなさない。
だからカッシーニも、メアリーに武器を使わせるレッスンはしなかった。
それが悔しいのか、メアリーはわざとらしく、首元のチョーカーを弄った。
「あら、綺麗なチョーカーね。どうしたの? お嬢さん」
「ミスターにいただきましたの」
いきいきとした笑顔で胸をはるメアリーを見て、一瞬ベアトリクスがリチャードを睨んだ。
二人の女に挟まれて、居心地の悪そうなリチャードを見て、クリスがポツリと呟く。
「ジュリアもリチャードを褒めていた」
メアリーとベアトリクスの視線の鋭さにいたたまれず、リチャードは立ち上がった。
「ヘンリーの所に行ってくる。今夜の市内警備を厳重にしてもらうよう、警察に頼まないといけないから」
元々行く予定であったのだが、逃げるための言い訳じみて聞こえた。立ち上がったリチャードへ、クリスが声をかける。
「今夜0時。ビッグベンの前で」
「ああ……わかった。それまでにやるべき事を終えておく」
警察について、ヘンリーに事情を話すと、暖かいミルクティーを差し出された。
「いつもながら、リチャードは色々大変だな。僕にできることは愚痴を聞くくらいだが、まあ……今度またパブに飲みに行こう」
一話せば、十理解する。それくら察しの良いヘンリーだから、リチャードの気苦労をよく理解していた。
「男同士の方が気楽だ」
「贅沢な悩みだが、僕がリチャードの立場でも同じように困ると思う」
リチャードの気持ちに寄り添う、ヘンリーの優しさが心に沁みた。
「リー家の問題は、ハーウッド伯爵が介入してくれそうだし、どうにかなりそうだな。リー・チェンミンに刺された件、立件に向けて、調書を纏めておくよ。今夜の警備も、重要施設に重点的に警官を配備して、ビッグ・ベンに近づかないように通達しておく。最近物騒だから、市民も夜は出歩かないようになったし、君たちの仕事の邪魔にはならないと思う」
「とても助かる」
「もうアドベントに入って、クリスマスまで一ヶ月を切ったのに、ロンドンが静かすぎる」
「そうか……もうそんな季節か」
クリスマス礼拝の四週間前から、アドベントというクリスマス期間に入る。例年ならクリスマスに向けて、人々が買い物をし、街が賑わう季節だ。
「……ヘンリー。覚えてるかい? カッシーニ先生のラテン語の授業」
「ああ、覚えてるさ。わざとこのアドベントの期間に、山のように宿題を出して、終わらないとクリスマスが来ないと脅す奴だな」
「やり方は意地が悪いが、それで僕たちは必死に勉強してラテン語を身につけたわけだ。悔しいが教師として優秀だったな」
ヘンリーが呆れたようにため息をついて笑った。
「リチャードは、なんだかんだ文句を言いつつ、結構先生が好きだな」
「そうかい?」
「子供に厳しい父親と、反抗期の息子みたいだ」
「あんな趣味が悪い父親は願いさげだ」
そう言いつつもリチャードは、実の父親を思い出そうとして、あまり記憶がない事に気がつく。
祖母や母との想い出は多いが、父との想い出が乏しい。
忙しくて、あまり家にいない上に、パブリックスクールに入って以降は、休暇の時に顔を合わせる程度になっていた。
「ミス・ベネットも先生を慕ってる。でも……僕にはクリスを止められないし、見殺しにするしかできないんだ」
「仕方がないよ。リチャード。君のせいじゃない」
この愚痴をヘンリーに言いにきたのだと、やっとリチャードは気がついた。ヘンリーならリチャードの気持ちをわかった上で、慰めてくれるだろうと。
どれだけ嫌だと思いつつも、恩師を見殺しにする、良心の呵責を慰めるために。




