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久しぶりにThe Crystal Palaceを訪れたリチャードは、こんなに静かな場所だっただろうかと驚いた。
閉園間際だったのもあるだろうが、幼い頃両親と一緒に訪れた時は、もっと活気があった。
ロンドンで初めて行われた万国博覧会は、リチャードの記憶にない程の昔で、今ここにあるThe Crystal Palaceはその後、移転されたものだ。
大英帝国の頂点が、The Crystal Palaceができた年であったなら、もはや英国は傾き始めてるのかもしれない。そんな寂しさを感じさせる佇まいだ。
警備員の目から隠れ、閉園時間を待つ。ガラスに差し込む月光を頼りに、薄暗いThe Crystal Palaceを、ゆっくりリチャードは歩いた。
「光の女王に挨拶をしてから、怪物の下をくぐり抜け、鷲獅子の見つめる方向へ百歩歩いて、鬼の顔をノックしろ。異界への扉は夜開く」
メルヴィンの残した暗号を口ずさみ、バッキンガム宮殿の方角へ向かって一礼する。
異国の怪物があしらわれた門を潜り、東洋的な木彫りの獅子像の前にきて、百歩歩いてたどりついたのは、中国の鬼の面が飾られた場所だった。
杖をついて立ち止まり、その鬼をじっと眺めていたら、人が近づく気配を感じた。振り向くと白髪の老人がランプを片手にこちらを見ている。
仕立ての良いスーツを着こなし、洗練された佇まいは、警備員とはとても思えず、深夜のThe Crystal Palaceに不釣り合いだった。
「そこで何をしている」
「異界への扉が開くのを待っています。メルヴィンと同じように」
「メルヴィン?」
「ええ……昔、共に学んだ学友の名前です」
「君の名前は?」
「リチャード・チェンバー」
そう名乗った時、老人が小さく目を見開いた。ランプを片手にゆっくりと近づき、リチャードの目をじっと見る。
「眼鏡を外してくれないかね?」
リチャードは大人しく眼鏡を外して、老人の視線を正面から見据える。老人は小さく頷いた。
「青い瞳に金の縁。メルヴィンに聞いていた通り、不思議な色だ。リチャード・チェンバー本人に間違い無い。ついて来なさい」
リチャードは眼鏡を掛け直して、大人しく老人の後ろを歩く。
The Crystal Palaceを出て、ロンドンの街を歩き、立派な邸宅につく。老人に案内され書斎に入ると、ずらりと並ぶ本棚と、漂う紙の匂いが、オックスフォードを思い起こした。
「君が呼ぶメルヴィンという男が言っていた。七人会の中で、リチャード・チェンバーが最も信用できると。自分にもしものことがあったら、彼に託したいと」
そう言いながら老人は、椅子に座ってリチャードをじっと見た。
七人会の名前を出すのは、老人が退魔師について、よく知っているからだとリチャードは理解した。それで覚悟が決まった。
「メルヴィンは死んだのかね」
「はい。英国の異端審問官に殺されました」
「そうか……惜しい男を亡くした」
老人は目をつぶり、祈りの言葉を口にして、しばらく沈黙する。その姿は、本当にメルヴィンの死を悼んでいるように見えた。
「君があそこに来たのは、メルヴィンの意思かね?」
「ノー。オックスフォードでこの手記を見つけたので、あそこがわかりました」
懐から出したラテン語で書かれた中国文化史。メルヴィンの手記だ。それを老人に差し出した。
「確かに……あの男の筆跡だ。だが、これだけでどうしてThe Crystal Palaceにまで辿り着いたんだね?」
「昔……メルヴィンと話をしたことがあります。最善だと判断する基準は何かと。メルヴィンは女王だと言っていました」
それから手記に書かれていた暗号をそらんじる。
「それを思い出したら、The Crystal Palaceこそ光の女王だと考えました」
「この手記だけで、そこまで到達したとはね……流石、彼が見込んだ男だ。他にも……何か気づいたことがあるのではないかね?」
「その手記の終わりに紋章がありました。The Crystal Palaceに行く前に、紋章院に立ち寄って調べましたが、それはハーウッド伯爵の紋章ですね」
そう言いつつ、ちらりと書斎を見渡す。置かれたいくつかの品々に、手記と同じ紋章があった。
「推測通り、私がハーウッドで、メルヴィンに命令を出していた。だが彼と連絡が途絶え、何が起こっているのか調べてもわからず困っていたところだ。さて……メルヴィンの意思ではなく、君の意思で私に会いにきたのだろう? 聞かせてくれたまえ。君の話を」
老人──ハーウッド伯爵はメルヴィンとどういう関係なのか言わなかった。だが伯爵という爵位の高さと、女王にこだわったメルヴィンを結びつければ簡単に答えはでる。
これから話すことは、ヴィクトリア女王にまで届く。
今まで起こったことをただ一点を除き、正確に話をした。話さなかったのは「ミス・ベネット」のことだけだ。それでもハーウッド伯爵は満足したように頷いた。
「リー・チェンミンの件もただ手をこまねいた訳ではない。今までもリー家に対して抗議は行ってきた。だが、今までは証拠がない、の一点で突っぱねられていた。逆に言えば、リー・チェンミンが犯罪を犯したという証拠があれば、英国の法に乗っ取り裁く事も許容すると、リー家の言質を取っている」
「ベイリーとノースブルックの事件。ロンドンで行われようとしている事件についての証拠ですか?」
「ノー。君自身が生き証人ではないか」
「僕が?」
リチャードが首を傾げると、ハーウッド伯爵は呆れたように苦笑した。
「君はリー・チェンミンに刺された。首の刺青まで確認して、本人に間違い無いのだろう。明確な殺人未遂だ」
そう言われてようやく気が付いた。
生死をかけて戦い続ける退魔師の習性で、自分が殺されかけたことが、事件になる事に気づいてなかった。
マクレガーに蟲をとりつかせ、僵尸や骸骨作りに協力したのは、確実にリーだが、その証拠はどこにもない。だがリチャードへの殺意は、明らかな犯罪だ。
「もしロンドンでこれからより多くの人間が死ぬ事件が起こるなら、それは未然に防がなければいけない。しかし、犯罪を立証する証人として、君には死んでもらっては困る」
「いまさら僕が、この事件から手を引くことはできません。リーも僕を見逃すとは思いません」
「そうだろうな。リーが直接君に手をかけるほどの何かが、君にはあるのだろう」
そう言ってから、ハーウッド伯爵は顎を撫でた。
「君は……メルヴィンと『最善だと判断する基準は何か』話をしたことがあると言ったね。君の基準はなんだね?」
「とある淑女のために。昔から、英国は女の尻に敷かれるのが伝統でしょう。もっとも尊き女王陛下との共通点は、ヴィクトリアケーキが好きなくらいしか見当たらない、ごくありふれた淑女ですが」
「なるほど。彼が君を気にいるわけだ」
ハーウッド伯爵は皮肉な笑みを浮かべて笑った。
「君と、君の淑女の無事を祈っている。何かあれば私の所に連絡をくれれば、可能な範囲で協力しよう」
「ありがとうございます」




