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「ワン・ユーハンだ。どうぞ、よろしく」
「リチャード・チェンバーだ。よろしく頼む」
警察のヘンリーの私室で、ジュリアの恋人ワンという男と、初めて顔を合わせた。
流暢な英語を喋り、握手も慣れている。東洋人にしては骨格がしっかりした筋肉質で、日焼けの為か肌が黒い逞しい印象の男だ。
友好的な笑顔を浮かべて、和やかに話は始まった。
「姉さんの恋人って、良い男だね」
ワンが笑ってベアトリクスに話しかけるので、リチャードは突き刺さす視線でベアトリクスを睨んだ。
「あら……両想いとは言ってないわよ。私の愛は、昔からリチャード一筋じゃない」
笑いながら舌なめずりをして、じーっとリチャードの眼を見つめる。
その熱視線にリチャードは鳥肌がたった。ヘンリーは眼を白黒させてあっけに取られている。
「ヘンリー気にするな。前に話をした、七人会のベアトリクスだ。関係はそれ以上でも、それ以下でもない」
「ああ……うん。リチャードは、昔から……その、女性に好かれるタイプだし……うん。大変そうだね」
曖昧にモゴモゴと、色々察してしまったヘンリーは気まずそうに目をそらす。
「それで……探し人の話。リー・チュンミンって名前だけではわからないよ。英国人は知らないかもしれないけど、リーって名前は中国では一番多い名前なんだから」
「似顔絵も渡したが、見覚えはないかな?」
リチャードが書いたリーの似顔絵を、ベアトリクスに預けておいた。改めてワンは見直すが、首を傾げる。
「俺は見たことないし、顔と名前だけじゃなく、もっと何かないの?」
そう言われて、リチャードは考え込み、思い出した。ペンを紙の上に走らせて、サラサラと描いたのは、首にあった双頭龍の刺青。
それを見た途端に、ワンは顔を真っ青にして、慌てた。
「首に、その刺青……。冗談じゃない。俺は帰る!」
「待って、ユーハン。どうしたの。知ってることがあったら教えて。今日だけで、これっきりで良いから」
ベアトリクスが慌てて引き止めると、ワンは観念したように、重い口を開く。
「それは清の裏社会を牛耳っていると噂される、龍の一族李家の模様だ。裏社会だけでなく、皇帝にまで陳述が可能だって噂だ。李家を敵に回したら、清で生きていけない。いや……英国のチャイナタウンにも、配下がいるはずだ。俺が探すのは不可能だ」
ブルブルと震えるワンの姿から、相当の大物だということが伝わってきた。
「その刺青を許されるのは、李家直系の証。それなら李・陳敏は……元当主の四男だろう。人形使いの陳敏」
「人形使い?」
「李家の宝とも言われた、李家の末妹愛玲。若くして死んでしまったんだが。特に陳敏は可愛がってたから、愛玲そっくりの等身大の人形を作って、持ち歩いてるなんて噂されてる」
「アイリン?」
リチャードの眉が跳ねた。メアリーの本名はアイリーン。名前が似ている。その上妹の人形を持ち歩く。それを聞いて一つ閃いた。
「ミスター・ワン。中国語で女性を『メイ』と呼ぶ場合、何を意味する?」
「めい……ああ、妹のことを、妹もしくは妹妹と呼ぶ」
リチャードは軽く目をつぶった。リーは、メアリーを妹扱いしているのだ。しかもメアリーの体の元は、その妹代わりに作った人形の可能性が高い。
だとするならリーがメアリーに執着する理由がわかってきた。
「他に……何か噂を知らないか? 何でも良いから」
「李家の中でも、特に陳敏は反英派で、英国人を憎んでると聞いたことがある。わざわざ清から英国まで来てるとは……」
「どうして憎んでいる?」
問い続けるリチャードの顔をワンが睨む。
先ほどまでの友好的な表情とはうって変わって、まるで見下すかのような目つきだ。
「俺はジュリアが好きだし、英国人には、良い奴も、悪い奴もいると思ってる。だが……英国人を憎む中国人ならいくらでもいるよ。当然だろう。あんたは、その理由もわからないのか? そんな簡単に忘れ去るようなことか?」
苛立たしげな声音に、リチャードも、ヘンリーも、ベアトリクスもびくりと身を震わせて沈黙する。
「アヘン戦争……」
ヘンリーが零した言葉に、ワンは頷いた。二度に及ぶ清との戦争が終わって十年以上たつ。
リチャードにとって子供の頃の話で、遠い中国で行われた争いのニュースは、時ともに風化し、実感に乏しい。
「申し訳ない、ミスター・ワン。無神経な話をして。あれは我が国の恥ずべき行為だと、僕は思っている」
「……そうだね。国と国の戦いだ。あんたに責任があるわけじゃない……」
そう言いつつも、それ以上もう何も言いたくないという雰囲気で、ワンは帰っていった。
ワンが帰った後、残された三人は、沈痛な面持ちで顔を付き合わせた。
「リチャード……。これは退魔師だけの問題じゃない。そんな清に影響力の高い人間を、英国人が殺したら、国際問題でまた戦争になるぞ」
「そうだな。ヘンリー。君から警察を通じて、上に報告をあげて指示を仰ぐことはできるか?」
「できるかもしれないが……国の上層部まで意見が届くのに、時間はかかるし、まだ不確定な情報ばかりだ。退魔師だ、化け物だなんて話、一般人は知らないし、そう簡単に信用されない」
悩む二人の間に、ベアトリクスが一石を投じる。
「リチャード……。今ふと思いついたのだけど……」
ベアトリクスの声が珍しく上ずっている。
「メルヴィンは誰かの指示を受けて、ベイリーやノースブルックの調査をしていた。わざと手出しせず、情報が教会に流れないようにしていた……。これってもしかして、メルヴィンの上にいるのは国?」
「そうか! 確定した証拠もないうちに、リー・チェンミンに危害を加えれば、国際問題になりかねない。だから手出しせずに観察を続けた」
ふいにリチャードはメルヴィンと交わした、noble obligationの話を思い出す。
目の前に飢えたものがいても、それを見捨てて、より多くの弱きものを助ける覚悟。
メルヴィンが、ベイリーやノースブルックの所業を、ただ見逃していたというのは、腑に落ちないものを感じていたが、そう考えると、とても納得がいった。
「だとしたら……すでにこの問題は、メルヴィンから報告が上ってる可能性がある。しかし問題は……どこまで情報が伝わってるか。メルヴィンの死後、どうなったかわからない。そもそも国といっても誰が……」
そこまで言ってから、リチャードの頭が高速回転を始める。
たどり着いた思考に戦慄し、思わず言葉を失った。
「リチャード。どうしたの? 急に固まっちゃって」
「いや……何でもない。とにかく、メルヴィンの上の人間については僕が調べる。二人とも何かわかったら連絡してくれたまえ」
そう言ってからリチャードは立ち上がった。
外を見ると陽が落ちかけて、もうじき夕暮れ時だった。落ち着かない気持ちで外へ出ようと歩き出す。
ヘンリーの部屋を出たところで、ベアトリクスが追いかけてきた。
「リチャード。どうして今日、あのお嬢さんを連れてこなかったの? リーと彼女は……深い接点があったのだもの。ユーハンに詳しい話を聞くなら会った方がよかったでしょう?」
「ミス・ベネットは今レッスンで忙しい……」
そう言いながら、ベアトリクスを見ると、寂しげに視線を落としている。
その表情を見て、不意にリチャードは思い出した。
「ノースブルックの舞踏会の日。僕がリーに捕まった後、ミス・ベネットとどんな話をしたんだ? どこまで聞いている?」
「……朴念仁のリチャードに話せない、女同士の秘密よ」
ベアトリクスの棘を含んだ言葉が、リチャードには気にかかった。
「将来の約束もしない甲斐性のない男と、自分を守ってくれそうな男。どっちが良いか……迷うわよねって話はしたわね」
リチャードはこめかみをヒクヒクさせて、肩を落とす。耳に痛い。
「過去にどんな恩があったか。それを気にするより、今一緒にいたい男を選んだら? とは言ったわよ。それであのお嬢さんは、リチャードを選んだの。もう……これ以上私の口から言わせないで」
ベアトリクスは、人差し指でリチャードのこめかみをコツンと叩く。そっと指先で、眼鏡を上に押し上げた。
「私は貴方の眼をずっと見てきた。ずっとずっと……眼を見てると色んな事がわかるの。リチャード。貴方変わったわね。舞踏会の夜に別れて再会した時。貴方の眼に弱々しさが消えて、急に強くなった。今日はさらに強い。こんなに短期間に変わるのは……あの子のため?」
「ベアトリクス……君の目からみて、僕が変わったと感じるなら……ミス・ベネットの影響はあるだろう。彼女と約束した。長い友人でいると。だから英国国教会を敵に回す覚悟をした」
そう言った後、ベアトリクスを見ていられなくなって視線を落とす。
リチャードは迷っていた。もう英国国教会だけでなく、下手をしたら清まで敵に回す大事件だ。
ベアトリクスはここで引いた方がいいのではないか。姉を想うジュリアの姿を思い浮かべると、無理はしない方はいい……それを言うべきかどうか、悩んでいいよどむ。
ふと袖口が目について思い出した。カフスボタンに手をかける。
「君の妹さんから頼まれた。このカフスボタンはベアトリクスに返して欲しいと」
カフスボタンを外そうとして、手で止められた。
「まだ……預かってて。あげるんじゃなくて、貸しておくわ。私はこれからも貴方の味方でいるし、さよなら、するつもりなんてないの」
リチャードの迷いを見透かしたような言葉に、リチャードは笑った。
「ありがとう」
「どういたしまして。良い笑顔ね。舐めたいくらい」
舌なめずりして見せたベアトリクスの表情を、リチャードは不思議と怖いと感じなかった。緊張をほぐすユーモアな気がしたのだ。




