レディの時間Ⅱ
窓一つない地下室に、いくつものランプが掲げられ、部屋の中を煌々と照らす。ランプの光で揺らめく人影が二人分。
メアリーは肩で息をして、深呼吸を繰り返す。体がだるい、重い。この体になってから、こんなに疲れるのは初めてだ。
「少し休憩しようか。私も珈琲が飲みたくなった」
息ひとつ乱れないカッシーニの姿に、本当に人間なのだろうか? とメアリーは内心疑った。
一時間以上、ノンストップで組手を続けて、この余裕。年を考えれば体力だって衰えそうなものなのに。
ここはカッシーニの行きつけのイタリア料理店の地下室であり、ロンドンでのアジト。上のレストランから、珈琲とミルクティーが差し入れられた。
メアリーは甘いミルクティーを口にして、体が芯から生き返る思いだ。
一緒に運ばれてきたビスコッティは、そのままだと固すぎるが、ミルクティーに浸すと柔らかくなり、程よい甘さで、思わず頬が緩む。
「レディ……私がどうして疲れて見えないかわかるかね?」
「ノー。不思議ですわ」
カッシーニは珈琲の香りを楽しむように、鷲鼻をひくひくとさせた。
「それはね……私はレディの力を受け流すだけで、自分の体力を温存してるからだ。逆にレディは全力を使ってる。その差だよ。力の加減は長年の経験の積み重ねだ。君は今修行中なのだから、限界まで頭も体も酷使して、学ぶべきなのだよ」
カッシーニの技を盗もう。グスタフのように。そう思っていた。しかしあまりに圧倒的な情報量の海に、溺れそうだ。
明らかにレベルが違う。グスタフはパワーもスピードも技のキレも凄かった。だが、メアリーには見えていたし、何をされたのか理解できた。
しかしカッシーニの技は緩慢なようでいて隙がなく、何が起こっているのわからないほどに変化していく。
「レディは観察力が素晴らしい。とっさの判断力にも優れている。考えるより感じる。直感は女性の方が得意分野だと言われている。ベアトリクスも直感に優れていた」
「わたくしもあの女のような事ができるのでしょうか?」
「ベアトリクスの柔軟性を真似るのは不可能だ。人間の中でも飛び抜けた才能であるし、君の体は物理的に硬い。これはどうしようもできないことだ。だが……相手の力とぶつかり合うのではなく、力を吸収し流す技術は、君の役に立つと考える。私が先ほどまでしていたことだ」
メアリーは目をつぶって、カッシーニの動きを必死に思い出してみる。
力の受け流し、吸収。体の動かし方、柔らかな動き。
「ティータイムが終わったら、一人で復習してみるのも良い。あまりに一度に多くのことを教えても身につかない。反復練習は大切なことだ」
早速メアリーは立ち上がって、イメージにそって体を動かしてみる。
滑らかに動きが繋がらないことに苛立ちつつ、何度も繰り返す。
「ブラーヴァ。一度見ただけでそこまで覚えているのは素晴らしい」
「わたくし……才能がありますか? ミスターの足を引っ張らない程度に」
「レディとリチャードは、最高のコンビになると、私は予測する」
カッシーニの言葉に、メアリーは思わず笑みが溢れた。
リチャードと共に道を歩むなら、最高の相棒になりたい。
「リチャードは五感に優れている。それは長所であり短所だ。The darkest place is under the candlestick. 遠くのものが見えすぎて、近くのものを見落とす。レディの観察力で、リチャードが見落とすものを埋めれば良い」
「わたくしがミスターのサポートをすることで、ミスターはより自分の力を発揮できると」
「イエス。もう一つ。リチャードは深く思考するタイプだ。考え抜いて決めたことは正しい。しかし考えるのに時間がかかる。スピードが勝負の時にはレディの直感で判断し、正しいではなく最善の道を選ぶことも必要だ」
カッシーニの説明はとてもわかりやすく、丁寧だ。教師として素晴らしい指導力があるのは、メアリーにもわかった。だが……真意がわからない。
「どうして……ここまでわたくしに教えてくださるのですか?」
「才能あるものを育てるのが私は好きだ。ぐんぐん伸びて成長し、私の予想を裏切るほどに力を発揮するのを見るのがとても好きだ。そういう意味では、エリオットは実につまらない生徒だった」
「エリオットが?」
思わず復習の手を止めて、カッシーニを見つめてしまう。苦笑いが浮かんでいるのを見るに、嘘とは思えない。
「でも……クリスは、七人会最強はエリオットだと言ってましたわ。クリスの見立て違いかしら?」
「クリスの言葉は一面的に見れば正しい。全ての授業において、エリオットはもっとも優秀な成績を残した生徒だ。メルヴィンと比較するとわかりやすい」
空に黒板があるかのように、右手で文字を書いて話し始める。
「全く同じ課題を出したとして、エリオットは100%模範解答をする。もしすぐに身につけられなくても、何度となく練習し、必ず身につけた。私の知識も技術も注ぎ込んだ、複製のようだ」
そのあと今度は左手で同じように文字書き始める。
「一方メルヴィンは90%は模範解答をし、9%は間違い、1%は私の予想を超える解答を導き出す。おそらく9%の間違いも1%の解答を導き出すための挑戦的失敗だ。この差が何かわかるかな?」
「……失敗を恐れずに挑戦すること?」
「惜しい。勇気だけでなく、常に自分で考え続けることだ。エリオットは私を信頼し、全て私の指示通りに動き、自分で考えて工夫することをしなかった。メルヴィンのように、教えられたことを疑い、自分なりに試行錯誤しなければ、私を超えることはできない」
メルヴィンは惜しい人材だった……と呟くカッシーニの言葉が、悲しげに響いた。
メアリーは不思議な気持ちになった。リチャードがいる時と、いない時、カッシーニは別人のように見えるのだ。
まるでリチャードに、わざとキツくあたっているようだ。
「どうして先生は、ミスターに厳しいのですか?」
「人はね、褒めて伸びるタイプと、叩いて伸びるタイプがいる。レディは前者で、リチャードは後者だ」
「それにしても……ミスターには厳しすぎますわ。ミスターは繊細な方ですし」
「この程度で潰れるなら、その程度の人間だったということだ。私はもっと叩き続けて、彼が化ける姿を見てみたい。私の予想を超える、もっと魅力的で、心が踊るようなそんな姿を見てみたい」
目を輝かせ、嬉々として語るその姿に、メアリーはうっすら不気味なものを感じる。
「あの……もう一つ質問してもよろしいでしょうか?」
「何かな? レディ」
「どうしてイタリアにいながら、リーの計画に気づいたのか。その理由をまだ聞いてませんわ」
「ああ……それか。ふむ。ではこうしよう。レディに課題を出す」
「はい」
「今日受けた講義について、自分なりの分析・解釈をレポートにして提出すること」
「レポート? わたくし……文章の作成はできますが、学校に通ったことはないですわ」
「形式はどんな型でも構わない。思考を言語化して、整理してまとめる。言葉を正しく使うということは、全ての思考をクリアにする。良いレポートを書けたら、ご褒美にレディの質問に答えよう」
できて当然とばかりに、穏やかな笑みを浮かべ、鷲鼻を指でこすった。
「期限は明日の朝。締め切りを破ったら、夕食の菓子抜きだ」
「やりますわ」
メアリーはすぐにペンを片手に、レポートと格闘を始めた。




