3
老メイドに案内され食堂に着いた時、リチャードは眉をしかめた。食堂に誰もいなかったからだ。
「旦那様はすぐいらっしゃると」
「ミス・ベネットは?」
「お仕事があるそうで、食事は部屋に運んで欲しいとお聞きしてます」
リチャードはため息をこぼして、黒いインパネスコートを着たまま、椅子に座った。
この食堂もまた東洋趣味で、しかも香まで薫きしめられている。その甘ったるい香りにリチャードはますます機嫌悪そうに、こめかみをひくひくと動かした。
運ばれてきた食前酒は、鮮やかな緋色で、それもまたリチャードを苛立たせた。
「僕は赤ワインが嫌いなんだ。下げてくれ」
そう言って、コートの中からスコッチの小瓶を取り出した。老メイドは無言でお辞儀をし、赤ワインを下げ、代わりに空のグラスを置いた。リチャードは空のグラスの縁を指でなぞってから、スコッチを注ぐ。
ちょうどその時ベイリー男爵が入ってきた。皺だらけの張りのない肌は青白く、陰気な表情を浮かべたその体は、背筋だけはぴんと伸びていた。
「ようこそ、ミスター・チェンバー。ロンドンからこんな田舎までわざわざ来ていただいて申し訳ない。面白いものなど何もありませんがね」
皮肉めいた物言いも、声に感情がこもっていない、まるで人形のようだった。男爵が席に着くと、老メイドが食事を持って来た。乾杯すらなく、食事は始まった。
男爵はごく自然に食事を始めたが、リチャードはスコッチに口をつけるだけで、シルバーを手に取ろうともしない。
「なぜ僕がここに来たのか、何者なのか聞かないのかい?」
「警察と関わりのある方だというのはわかっています。調べられて困る事はない」
「調べられても、口を封じれば、困る事はない……かな」
リチャードの言葉に、初めて男爵は表情を変えた。不遜な程の微笑を浮かべ、リチャードを見下すように視線を向ける。
「何を馬鹿な事を……」
「馬鹿な事というなら、客が口にするものに、血や人肉を混ぜてくれるなよ。吐き気がする」
そう言って料理の乗った皿を男爵に投げつけた。男爵は年老いた男とは思えぬ素早さで半身を捻り、それを避けた。
「香を薫きしめて、誤魔化したつもりかもしれないが、あいにく僕は鼻がいいんでね。死臭は鼻につく」
そう言いつつ、並べられたナイフとフォークを両手の指に挟む。即座に放たれたソレは、男爵と老メイドに向け、正確に投げつけられた。男爵は余裕の微笑のまま投げつけられたナイフを腕ではらったが、老メイドは避けきれずにその肩にナイフが食い込み、かしゃんと音を立てて腕が落ちた。
落ちた腕から砕けた白い粉末がこぼれ落ちる。
「メイドは陶器人形かい?」
男爵は眉ひとつ動かさず、手元のベルを鳴らした。ちりんと響いた途端に、天井に穴があき、ぐしゃりと音を立てて人が落ちて来た。
男に女に子供に老人。次々と落ちてくるが、誰も彼も背筋が固まったようにまっすぐの棒立ち。両腕をまっすぐに前に突き出し、ぴょんと跳ねながらリチャードの元へと近づいてくる。
その目は闇のように真っ黒で、生者でない事は明らかだ。
「屍人……とも少し違うな。これも東洋趣味か? 悪趣味な」
「僵尸と中国で呼ぶらしい。これは失敗作だがな。それでも噛みついた人間を僵尸にする程度の事はできる」
「それはまるで吸血鬼みたいだ」
男爵が食堂から出ていくのを見て、リチャードは後を追おうとした。しかし老メイドが片腕で体当たりをして行く手を阻もうとする。リチャードはそれを飛んで躱しつつ、机の上に華麗に着地を決め、懐から札束を取り出した。
「ヘンリー。君の感は当たり過ぎて、気味が悪いよ」
そう言って札束の間から、紙を一枚引き抜き、両手で印を結んで投げつける。僵尸の頭に紙が張り付くと、ピタリと止まった。それは中国語で書かれた呪符だった。
「ここまで予測が当たるとはね。道術は専門外なんだが。ヘンリーの東洋かぶれが役に立つ日が来るとはな」
そう言いつつ、机の上をタップダンスを踊るように、華麗に飛び跳ね、次々と呪符を投げつける。僵尸達の動きを止めながら、ついでに老メイドの頭を蹴りつけた。
ぱりんと音がしてあっけなく頭が砕け散る。ずるりと髪の束が禿げ、白い陶磁器の頭が露出した。
「人形も案外脆いものだな。それとも……これも失敗作か?」
リチャードが思考に浸る間を与えぬ程、事態は追い詰められていく。呪符で僵尸の動きを止めても、次々と天井から落ちてくるのにリチャードはうんざりした。
「この呪符……手軽に使えるのは便利だが、効果時間もわからない。あまり期待するのも危険か」
即座に机の上から飛び上がり、食堂から逃げ出した。廊下には既に男爵の姿はない。
「ひとまずミス・ベネットと合流か」
そう呟いて駆け出した。
メアリーの部屋に辿り着いた時、一応手でノックしたのは、英国紳士としての最低限のマナーだ。返事が帰ってこなかったが、力づくで扉を開ける。中には誰もいなかった。
「逃げたのか……」
部屋の片隅に置かれた、二つの旅行鞄に目を留め、つかつか歩いて、無言で鞄を蹴り飛ばした。鞄が、ぐしゃりと潰れ、隙間から血が滲み出てくる。
「その鞄の中にいるのが本物の案内人か。ミス・ベネット」
「ミスター……いつから気づいていたのですか?」
いつの間にか部屋の入り口に、メアリーが佇んでいた。
「初めて会った時からだよ。ミス・ベネット。香水の匂いに混じって死臭がした」
リチャードはケープの隙間から、右手で銀色のリボルバーを取り出し、メアリーに銃口を向ける。放たれたのは魔を穿つ銀色の弾丸。それを踊りのように軽やかに躱して、リチャードの真後ろに回り込む。
即座にリチャードは左手にもう一つの真鍮のリボルバーを取り出して、接近したメアリーのこめかみに銃口を突きつけた。
頭を捻って避けたメアリーの額を、青白い光が掠めた。しかしその光はメアリーに傷一つつけることができなかった。
「銀の魔弾と、霊銃。二段構えという事ですわね」
「どんな敵と、いつ遭遇しようとも、備えを怠らないのが紳士の嗜みさ」
「犬みたいに鼻がよろしいのね。さすが退魔師。まさか呪符まで持ち歩くなんて」
「たまたまさ。僕の正体を調べるなら、さらにその友人まで調べるべきだったね」
メアリーは鋭い牙で、首に噛み付こうとしたが、リチャードはリボルバーの銃身を盾に受け止め、左足でメアリーの腹を蹴りつけた。
硬く鈍い感触に、リチャードは舌を巻いて飛び退る。
「随分硬い体だな。まるで金属みたいだ」
「特製のボーンチャイナですわ」
リチャードは横に飛んですれ違いざま、左右のリボルバーを続けざまに打ち込む。
メアリーは銀の弾丸は避け、青白い光は真正面から受け止めた。光を浴びても、メアリーの体はやはり傷一つない。
リチャードは霊銃は効かないと判断し、即座に左手のリボルバーを投げ捨てた。
右手でリボルバーの引き金を弾きつつ、袖の中から左手で銀色のナイフを引き出して、一気にメアリーに詰め寄る。メアリーが体をひねって弾丸を避けた所に、すかさず畳み掛けるように、リチャードはナイフを握って振り上げた。
ナイフをメアリーの首に突き刺そうとしたが、それはメアリーの手に弾かれた。革手袋が切れ、中から白い陶磁器の手が露出した。
「人骨を使用したボーンチャイナか?」
「それも気づいてらしたの?」
「あいにく僕は中国語もわかるのだよ。君が職人と話をしていた時、人骨と言っていたのは気づいていたさ」
メアリーは美しい顔を歪めて毒づいた。
「知ってて知らぬ振り。偽物の紳士だわ」
「それぐらい用心深くないと、退魔師としてやっていけないのさ」
顔と顔を間近に付き合わせ、リチャードは囁いた。
「ミス・ベネット……いや、ミス・ベイリーかな?」
一瞬メアリーの体が硬直し、目を見開いた。
「君は死んだことになっている、ベイリー男爵の娘だろう?」
メアリーは凶暴な目で睨みつけて、リチャードのナイフに噛みつき、噛み砕いた。メアリーは口から血を垂れ流しながら叫んだ。
「その名で呼ばないで!! 私はメアリー・ベネットよ!」
その時、メアリーの瞳から涙がこぼれ落ちた。その人間じみた姿に思わずリチャードも立ち止まる。その隙をついてメアリーはその場から逃げ出した。