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カッシーニが帰って、静かになった部屋で、メアリーはまだ震えていた。
「ミス・ベネット。暖炉の前に座ると良い。温かいミルクティーを持ってこよう」
部屋を出て行こうとしたリチャードの袖を、メアリーが引く。
「申し訳ありません……ミスター。ずっと……話ししてなかった事があって……聞いてくださいますか?」
おずおずと怯える子供の様な眼差しで、メアリーはリチャードを見上げる。
メアリーを椅子に座らせて、リチャードは床に跪いて、視線を合わせた。
「何を聞いても怒らないから、安心して好きなだけ話をしたまえ。私は女性と子供には優しい」
メアリーは目に涙を浮かべながら微笑んで、コクリと頷く。
リチャードは近くに椅子を持ってきて、ミルクティーとスコッチを用意して、暖炉の前で二人で並んだ。
「四年前、私がまだ生きていた頃リー・チュンミンに出会いました。その頃は名前を知らなかったんです。ベイリーからも磁器職人を雇ったと説明され。私は『ミスター中国人』と呼んでました。ミスター……と」
メアリーに中国語を教えたのは中国人だった。見知らぬ東洋からやってきた不思議な青年が興味深くて、色々教えてとせがんで、ついて歩いて。
「まるで……兄がいるみたいに……ミスターこれは何? と質問するのが……楽しくて。中国人もわたくしに『メイ』というあだ名をつけて、可愛がってくれましたわ」
しかしそういう平和な時間はわずか一年で終わりを告げた。ベイリー男爵はメアリーを殺して僵尸に作りかえたのだ。だがそれは失敗だった。
「不完全で、今にも……私の心が壊れて、バラバラになって、意思のないモノになりかけた時、中国人は助けてくれたんです。私の腐った体を、全部チャイナボーンに作り変えてくれて……だから、私はあの人を、命の恩人だと思ってました」
その後ベイリーへの復讐の機会を狙って、生き延びたメアリーは、リチャードのおかげで念願を果たした。
「中国人は……私を助けてくれた恩人だから……関係ない。人骨のボーンチャイナもベイリーに脅されて作ってるんだ……そう言い聞かせて。ベイリーが死んだ時、その灰と石を持っていったら、あのタイプライターを作ってくれて……」
マクレガーとの取引で見かけた時も、メアリーを庇って『あの火事で燃え尽きた』と言ったのだと思い、あの時は追わずに見逃したと。
「でも……マクレガーに蟲がついているのを見た時、初めて中国人を疑ったのです。蠱毒について教えてくれたのがあの人だったから」
それからずっと悩んでいた。中国人が良い人なのか、悪い人なのか。
リチャードと一緒に調べていたら、きっとわかると信じて。
「ノースブルック子爵の夜会の日。ミスターを追って地下室の隠し通路に入った時……中国人……いえ、リー・チュンミンが待ってました。私に言ったのです。一緒に行こうと。そうしたらミスターを無事に返すとも……」
そこで思わずメアリーは啜り泣いた。リチャードが無言でハンカチを差し出すと、それで目を覆った。
「ベアトリクスが駆けつけてくれなかったら……私はあの時、ミスター・チェンバーを捨てて、ミスター・中国人の手をとっていたかもしれません……」
メアリーの言う「ミスター」という言葉には、兄のように慕う、特別な意味が込められていたのだ。
「ミスター・チェンバーが酷い怪我をしたのを見て……本当に申し訳なかった……私のせいじゃないかって……何度も、何度も……後悔して……ごめんなさい……」
「謝る必要はない。IFと後悔しても何も解決しない。初めからこれは退魔師の事件だった。それをミス・ベネットは助けてくれた。感謝してる」
「私……こんな体じゃ、英国に居場所なんてないって。事件を追う間は、ミスター・チェンバーの隣にいられても、終わってしまったら……もう側にはいられない。それなら東洋に逃げたほうがいいんじゃないかって……思ってしまったんですの。酷い女でしょう?」
「酷いとは思わない。僕も『一時的に』としか約束しなかった」
メアリーの居場所は不安定だ。もしも……英国国教会に正体を知られたら……エリオットが気づいたら……その時どうしていただろうか? と考える。
何も覚悟をしていなかった。答えを先延ばしにしていただけなのだ。
怪我をしたリチャードを抱えて、メアリーは逃げてくれた。
目覚めた時に泣いているメアリーを見て、反省した。
淑女を泣かせるのは、英国紳士の風上にもおけない。
「ミス・ベネット。ベイリー家の事件で、東洋趣味を見すぎて毒されて……あの後しばらく、東洋の書物を読み漁った事がある。その時、面白いことを発見したのだ」
「面白い……こと?」
「中国のさらに東の島国で、小指と小指を絡める約束があるらしい。しかし……実は似たような約束がスコットランドにもあるのだ」
「……え?」
メアリーは驚いて、思わずリチャードの方を見た。リチャードがそっと小指を差し出す。
「お祖母様に聞いた。小指と小指を絡めてする約束は、破ってはいけないそうだ。もう一度約束をしよう。紳士・淑女の名誉にかけて、僕たちは長い友人となろう」
「わ、わたく……し、人間じゃない……」
「僕は子供の頃、人間の友達がいなくて妖精と遊んでいた。それと何も変わらない。人間か、人間じゃないかなど関係ない。言葉が通じ、礼儀を重んじ、相手を尊重できる。信頼できる相手を友人と呼ぶ」
メアリーはハンカチで涙を拭って、とても綺麗に笑った。
「ありがとうございます……ミスター。私の……大切なお友達……」
人形の小指が、そっとリチャードの小指に絡んだ。
名残惜しげに小指を離した後、メアリーはやっとミルクティーを口にして、やっと気が緩んだように見えた。
「ミスター……最初に私が、協力者になりたいと言った時、怒ってらっしゃったのに、どうして了承されたのですか?」
スコッチを垂らした紅茶を口にしつつ、リチャードは苦笑する。
「あの時、ミス・ベネットは居場所がないと困っていた。困った女性には親切にするように。それがお祖母様の教え……というのは建前だ」
火のついてないパイプを取り出して、手の上で弄ぶ。
「五感が鋭すぎると、酷く精神を削られるというのは、前に話をしたと思う」
「ええ……だからパイプを……」
「あの時気づいたのだよ。ミス・ベネットと一緒の時は、煩い声が聞こえないと。僕は……少し疲れていて、静かに過ごしたかった。君と一緒の時は静かに過ごせるだろうと思った。僕は何かを決める時、判断を他人任せにしない。僕は自分の意思で、君の協力者になることを選んだ」
だから君が気に病むことはない。そう言葉を付け足す。メアリーは嬉しくて泣きそうになるのをぐっと堪えた。
「……質問をしても良いかな? ミス・ベネット」
「はい」
「気を悪くしないでほしい。……メアリー・ベネットというのは、偽名だ。生まれた時の名前は?」
「……アイリーン・ベイリー」
「メアリー・ベネットという名は、誰が、どうやって名付けたのだ?」
メアリーはビクッと震えて、体を強張らせた。一度深呼吸をして、ポツポツと語り出す。
「……中国人ですわ。ボーンチャイナに体が変わった後、ベイリーの家に戻りたくなくて、しばらく中国人に匿ってもらったのですわ。何も知らない私に、掃除や家事を教えてくれて……。といっても中国式なので、英国料理は作れませんが」
その語り口の優しさから、その日々がどれだけ、幸せだったのか伝わってきた。だからこそ……メアリーは苦しげに唇を撼わす。
「優しい……優しい人……だと、思ってたのに……」
「ミス・ベネット。ベネットの意味を知ってるかい?」
「いいえ……」
「ベネットも、ベアトリクスも、語源は同じ。言葉の先祖はラテン語で『祝福があるように』。ミス・ベネットが新しく生まれ変わる道を祝福しよう。そういう気持ちがあったのだと思う。だから……例えどれだけ残酷なことをしたとしても、ミス・ベネットへの優しさには、嘘はなかったと私は考える」
地下室でリーと対峙したとき、まだリーは『メイ』と愛称で呼んでいた。メアリーを連れて行こうとしたのは、リーの愛着の現れなのかもしれないと、リチャードは思考する。
ほっと気が緩んだように、メアリーは眠ってしまった。
こうしてみると、出会った頃よりずっと人間らしくなった。もはや化け物などと呼べない。
リチャードは、自分が退魔師を目指したきっかけを思い出す。
死者や化け物の姿が、見えた、聞こえた。それが不快で、排除できる力が欲しかった。
でも……今まで自分が討伐してきた、化け物の中にも、メアリーのように対話ができる存在がいたかもしれない。
「三人の淑女と約束をしたのだ。覚悟を決めないといけないな」
ヘンリーへ向けて、ユニバー社の菓子の販売停止を頼む、手紙を書いた。メアリーを心配させないように書き置きもする。
家を出てすぐに警察に向かい、警備員に手紙をヘンリーに渡してもらうように頼んだ。
それから深呼吸をして目をつぶって集中した。
リチャードはまだ、退魔師同士『昔の仲間と』殺しあう覚悟をしてなかったと思い知る。
でも……その甘い考えは捨てるべきだ。
目を開け、ぴんと背筋を伸ばして歩く姿は、まごう事無き紳士だ。




