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リチャードとメアリーが帰ったのは、日が沈む頃だった。
あの三流が見張っているかもしれないと、注意して屋敷に近づく。リチャードが門のノブに手をかけた時だった。
「……リチャード元気そうだね」
リチャードのすぐ隣に大男が立っていた。こんな至近距離にいたのに、リチャードもメアリーも、まったく気づかなかった。
「ジミー……驚かせないでくれたまえ」
「……ごめん。……隠れるの。いつもの癖……だから」
「ミスターが気づかないって……凄いですわね」
「何か用事があるんだろう。よかったらお茶でもどうかな?」
「……うん。エリオットから、お菓子の差し入れ……もらった。お茶菓子に……」
「お菓子! 食べたいですわ!」
リチャードはいつも通り紳士的に振舞っていたが、内心冷や汗がでた。ジミーに殺す気があれば、殺されていてもおかしくなかった。それくらい、ジミーの隠潜術は完璧だ。
アフタヌーンにケーキを食べたばかりなのに、既にメアリーの目は差し入れに釘付けだった。
「このショートブレッド。先日もいただいたものだわ。癖になるような不思議な香りがして美味しかったですの」
嬉しそうに箱から取り出して、齧りつく。
ぽちゃん、ぽちゃん、ぽちゃん。ジミーが角砂糖を七個もいれた。流石のメアリーもお菓子より紅茶が気になって凝視する。
ジミーがティースプーンでかき混ぜると、どろっとして、砂糖なのかミルクティーなのか、よくわからないものが出来上がった。ズズズ……と音を立てて啜る。
「……リチャードの家の紅茶は、昔と変わらず……美味しいね……」
「どうも。君のために上質な角砂糖を用意しておいた」
リチャードは皮肉のつもりだったが、ジミーはまったく応えた様子がない。
ジミーが、もそもそと、ショートブレッドに手をつけて、齧る。マイペースに茶を飲みつつ、ボソボソと言った。
「……ベアトリクスが、リチャードは大怪我したって言ってたけど……元気そうでよかった……」
「ベアトリクスに会ったのか? 無事だったか?」
ジミーは首を横に振った。
「ベアトリクスに会ったのは……エリオット。俺は……エリオットから聞いた。特に怪我したとか……聞いてない」
ベアトリクスの無事が確認できて、ほっと胸を撫でおろす。
自分のせいで危険な目に合わせたのは、リチャードも申し訳なく思っていたから。
「他に、ベアトリクスから聞いてることはないか?」
「……ううん。ノースブルック子爵に……逃げられた。情報は引き出せなかった……。そう言ってたって……エリオットが、言ってた……」
ベアトリクスはあの時、何か掴んだようなことを言っていた。それをエリオットに話さなかったのか。エリオットがジミーに話さなかったのか。
「ノースブルック子爵の家……大変だったんだって? 骸骨いっぱいって……」
「ああ。子供を材料に人体実験をしていたようだ」
思い出すだけでムカムカする。ジミーが菓子を食べる手を止めて、リチャードをじっと見た。
「……リチャードは……女と子供には、優しいよね……」
そう言ってから、メアリーに視線を移し、ニヤリと不気味に笑った。メアリーの表情が引きつる。
「……可愛い子だ……。リチャードは、この子を助けて、あげてるの?」
「……そうだな」
ジミーはメアリーの正体に気づいてないようだ。それなら勝手に勘違いさせたままの方が良い。そうリチャードは考えた。
「わざわざここに来たのは、僕に何か用事があるんじゃないかね?」
ジミーはこくりと頷いて、そっと両手でティーカップを包んだ。
「……カッシーニ先生と、会ったんだ」
「どこで?」
「……ロンドンの様子を、隠れて調べてたら……先生が人を殺すところを、見つけて。気づかれないように……そっと覗いてたんだ。胸から石を取り出してた……」
まだロンドンに巣食う、化け物狩りは続いていた。問題は相当に根深い。
「……隠れてたつもりだったのだけど……先生に、見つかっちゃって……。宿題出された」
「宿題?」
「……切り裂きジャック事件の、被害者の共通点、は何か……。警察も気づいているはずだって……。俺たちの中で、警察の知り合いがいるのは、リチャードだけだから……エリオットが、聞いてみたら? って……」
そんな話はヘンリーから聞いてない。ますますヘンリーに会う必要が出てきて、頭が痛かった。
「わかった。調べておく。さっきからエリオットがって……そんなに頻繁に、エリオットと会ってるのか?」
「……うん。毎日、お茶してる。エリオットは……優しいから好き……」
「昔からジミーはエリオットに懐いてたな」
「……うん。エリオットは……天使みたいなんだ……」
ジミーは子供のように無邪気な笑顔を浮かべた。
ジミーは退魔師が似合わぬほどに、愚鈍で、純朴で、大人しい。リチャードも愚かだと思ってたし、他のメンバーだって、ジミーを見下してた。
そういう態度を見せなかったのはエリオットだけだ。だから子供のように懐いてる。
「僕もエリオットが天使みたいだと思ったことがある」
そう言ったら、ジミーは嬉しそうに笑った。その姿を心の中で嘲笑う。
天使の意味が違う。ジミーのそれは聖人君子という褒め言葉で、リチャードのそれはお人好しすぎるという皮肉だ。
リチャードは青い唐草模様で彩られた、透けるように薄い白磁のティーカップを眺める。
初めてこれを見た時、これがどれほど大きな意味を持つものか、知らなかった。
改めて観察して、このカップは呪われていると感じる。
「ヘンリー。どうして教えてくれなかったんだ。切り裂きジャック事件の被害者に、共通点があったこと」
「警察の捜査情報だ。あの事件は君に関係なかった。だから話す必要はなかった」
「……僕に関係ないね。カッシーニ先生が関わってたのに?」
「やはり君は会ってたんだな。先生に! 私は君が心配で、心配で、先生に会わせたくなかったんだ! ……だってあの人は、君の……」
「それ以上言わなくても良い。それはもう終わった事だし、それで僕は先生を恨んではいない」
リチャードの声は、静かに淡々と部屋の中に響く。ヘンリーも申し訳なさそうに口をつぐんだ。
ヘンリーの目の下には濃いクマがあった。少し痩せて見える。随分心配をかけてしまったと、流石のリチャードも申し訳なくなった。
「何か……何か先生が関わる事件に、また巻き込まれているのかい?」
「先生も……関わってる。ベイリー男爵のボーンチャイナ事件。切り裂きジャック事件。ノースブルック子爵の骸骨事件。それらは全部繋がっている。そしてまだ終わっていない。だから教えてくれ、何が共通点なんだ?」
「全部繋がってるなら……。あの時、私が君に、ベイリー男爵の調査を頼まなければ……」
眼鏡を外して、ヘンリーをじっと見た。伊達眼鏡で隠さず、素のままの視線がぶつかりあう。
「Alea iacta est!。もう後戻りはできない。IFと後悔しても何も解決しない。ヘンリー……君が気に病むことじゃない。初めから僕達、退魔師の事件だ」
「私は……ただ感が良いだけで、七人会に入ることもできなかった、ただの人間だ。それでも私は君の友人で、この事件は私の事件でもある。リチャード。私を仲間外れにしないでくれ」
お互い一歩も引かない、曲げない、根比べ。結局折れたのはリチャードだった。
「わかった。これからは君に話すし、連絡もする。仲間外れにしない。協力しよう」
リチャードが手を差し出したら、ヘンリーはその手を握り返した。それが和解の証だった。
「それで、改めて聞こう。切り裂きジャック事件の被害者の共通点は?」
「全員、そのカップを購入している」
リチャードはゴクリと息を飲んで、ティーカップを見つめた。
「確か……最初に君が言っていたね。大量にロンドンに流れてきてると。どれだけ売られたんだ?」
「マクレガー商会の系列店で売られていた。マクレガーが死んだ後、捜査の為に事務所を捜索したが、既に書類は全て処分されていた。どれだけの数、どこに売られたかもわからない」
「他に何かないか?」
「君はノースブルック子爵の事件も関係していると言ったね。ノースブルック子爵が経営するユニバー社で作られる菓子を、マクレガーは売っていた。そこに繋がりがあるかもしれない。……だが、それもノースブルック子爵が失踪した今、推測の域は出ない」
「ノースブルック子爵が失踪?」
舞踏会の日の夜に、唐突にいなくなって戻って来ないとヘンリーは説明した。
「ノースブルック子爵の屋敷からも、書類は出てこなかったのか?」
ヘンリーが首を縦に振った。夜会の夜に、不自然な火事で、書斎が全部焼失したと語る。
あの夜会の夜、リーがあの屋敷に現れたのは、証拠隠滅の為だったのだろう。
やはり鍵はあの男にある。
「ありがとう。ヘンリー。非常に有意義な情報だった。すまないが、もう一つ君に頼みがある」




