後半
熱が落ち着いて、うつらうつらとリチャードは浅い眠りに沈む。
くっきりと鮮やかな夢を見た。いつかのメルヴィンとの会話だ。
「noble obligation。七人会の中で、私と君にしか理解できない概念だ」
「エリオットは? 彼はとても善人で、責任感もある」
「彼は優しすぎる、潔癖すぎる。規則に囚われ、上の人間に判断を委ね、自らの思考停止をする。だからダメだ。例えば……目の前に飢えに苦しむものがいて、自分の手に来年植えるための種もみしかない。エリオットならどうすると思う?」
「ためらいなく、その種もみを使ってパンを作り、飢えたものに差し出すだろうな」
「そうだ。だが……その為に種もみを失って、翌年麦が取れなくなり、より多くの人間が餓死する。来年の為に、目の前の餓死者を諦める覚悟も必要なんだ」
「弱者を切り捨てるのか?」
「そうではない。種もみを手元に残したまま、飢えたものを救う道が本当にないのか、検証はすべきだ。そしてより多くの弱きものを助ける為に、最善だと判断したら諦める」
諦めるときっぱりと言い切って、メルヴィンは表情を陰らせた。
「世界で一番、最悪な予想を聞くことを好むのが、英国人さ。悪いと解れば備えられる」
「我慢強く、粘り強く、冷静でタフで、苦境に陥っても、ユーモアに変えてしまう。それが英国紳士か?」
「そうだ。リチャード、常に考えろ、一歩も二歩も先を読め。未来を見据えて、考え抜いた上で、決めるんだ」
「その最善だと判断する基準は何だ?」
「それは人によって違う。エリオットは宗教に答えを求め、ベアトリクスは鋭い直感を信じ、ジミーは仲間に相談し、グスタフは利に聡い、クリスは……彼の考えはわからないな。違う考えの人間が意見をぶつけ合って議論するのが我が国の伝統だ」
「メルヴィン。君の基準は何だ?」
その時、彼は皮肉な笑みを浮かべた。
「女王さ。昔から、英国は女の尻に敷かれるのが伝統だ」
「違いない。この英国に、女に勝てる男はいない」
メルヴィン特有の自虐ユーモアだと、リチャードは解釈し笑った。
思い返すとリチャードは笑えない。リチャードは昔も今も、女の尻に敷かれる伝統に、悩まされ続けているのだから。
メアリーはバーバラに料理を教わりつつ、リチャードの回復を待っていた。半日以上寝込んで、やっとリチャードの熱が引いてホッとする。
あまりにバーバラが優しくニコニコと、受け入れてくれるので、メアリーは何だか申し訳なくなった。
自分は化け物だから、リチャードの妻になることなどできはしないのに、期待させてしまっただろうかと。
だから勇気を振り絞って手袋を外した。
「すみません。わたくし……わたくし……人間じゃな……」
「人間だよ。優しい女の子だ。体がどんなに不思議でも、心はちゃんと人間だ。初めて見た時からわかった。お嬢ちゃんが優しい子だから、坊やは信じてここに連れてきたんだよ」
バーバラの優しい言葉に、メアリーは緊張の糸が解けたように、ポロポロと泣き出した。
そしてそのまま、寝てしまう。あどけない寝顔は、普通の子供にしか見えない。
リチャードが目を覚まし、声が出せる程に体力が回復した。バーバラは栄養たっぷりのスープを作って、食べさせた。
懐かしい味に、リチャードの顔も自然と柔らかくなる。
「最近、鎮静剤を取りに来なくなったね。あの子のおかげかい?」
「そう……ですね。ミス・ベネットが側にいる時は、余計な物を見なくて済む」
「それは良い事だ。きっと私よりずっと強いんだろうね。あたしじゃあ、坊やの足手まといだ。人質にならないように、隠れるしかできない」
「お祖母様のおかげで、怪我をしても生き残れる。足手まといじゃありません」
温かいスープの匂いが漂って、リチャードの体に染み渡る。
「この前、坊やの友達……ヘンリーがうちにきたよ。坊やと連絡が取れない。心配だ。何か知らないかって、真っ青な顔をして。せめて生きてる事だけでも、教えておあげ。坊やの大切な友達なんだろう?」
リチャードは顔をしかめて、ポツリ、ポツリと弱音をこぼす。
「でも……ヘンリーは普通の人間で、危険な事件に関わらせたくないんです」
「彼は普通の人間でも警察だ。命がけで仕事をする覚悟はあるんだよ。坊や。お前さんは、一人で抱え込みすぎだ。せめて友達くらいは信頼して、頼ってあげなさい」
肩をバシンと叩かれて、リチャードは観念したように頷いた。
丸一日静養して、リチャードは大怪我から嘘のように回復した。傷は塞がり、顔色が良くなって、毒も貧血も吹き飛んだ。
「凄いですわね……人ってこんなに回復力があるものかしら?」
「あたしの治療……もあるが、坊やの体は特別なのさ。まあ、あたしにしか治せないがね。念のため、解毒薬、解熱剤、貧血の薬もいれておくよ」
ニコニコと笑うバーバラを見て、リチャードは神妙な顔で、ためらいがちに言葉を紡ぐ。
「お祖母様。お願いがあります。もう鎮静剤は必要ありませんが、以前いただいた退魔の薬を多めにもらえませんか? それと対人で効果的な物を」
バーバラは眉を跳ね上げて、ため息をついた。目が憂いを帯びて行く。
「また……戦いに行くんだね」
「ええ。事件はまだ解決していない。それに……友人と約束をしたので。助けると」
「その友達は女の子かい?」
「……ええ……困ってる女性と子供には親切にしなさいと、お祖母様が教えてくださったことです」
「そうだね。坊やは優しいね」
バーバラの言葉に含まれた、揶揄いの色に、リチャードは苦笑を浮かべた。
「一つだけ約束しておくれ、絶対生きて帰ること、生きてさえいれば、あたしが絶対に直してあげるから」
「約束します」
「わたくしも、ミスターを守りますわ」
「頼もしいお嬢ちゃんだね。坊やを任せたよ」
笑顔の老婆に見送られ、家路に向かう。街中を歩いていたら、唐突にリチャードは立ち止まった。
「アフタヌーンの時間だ。喫茶店に寄って行こう。口直しにミルクティーが飲みたい。あの人の薬は良く効くが、味は最悪だ」
「わたくしもお菓子が食べたいですわ」
問題は山積みで、危険だらけ。でも……二人は束の間の休息を満喫した。
メアリーはアフタヌーンティープレンドのミルクティーとヴィクトリアンサンドイッチ。
リチャードはアールグレイのミルクティーとキューカンバーサンドイッチ。
紅茶を飲みつつ、Timesを読む。新聞を騒がすような事件はないようだ。だが新聞に乗らない、闇の世界の事件がロンドンで今も起こっているだろう。
「ミスター。この後、どうしますか?」
「一度家に帰ってから、調べに行きたいところがある。ベアトリクスが無事に逃げだせたかも気になるな。彼女はノースブルックの何かを掴んでいたようだ」
「そうですわね。ドレスの約束を果たしてもらわないと」
ドレスに目を輝かせるメアリーを見ながら、ベアトリクスと交わした約束を思い出す。
「ベアトリクスとの約束を守る為には、ヘンリーと会わないわけにはいけないな」
約束は必ず守る。それが紳士として当然の義務だ。
小休止ーa short breakーⅡ END
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