前編
霧の街ロンドン。
夜明け前から起きて働き始める人々に気づかれぬよう、メアリーは声を殺して廃屋に篭っていた。
眠るリチャードの顔を覗き込み、震える。
怪我人の看病などした事がない。医者の伝手もない。子供が大人の男を抱えて歩き回るのも異常だ。屋敷に帰えることも考えたが、例の三流退魔師が現れたら、リチャードが危ないかもしれない。
メアリーの心は罪悪感で一杯で、何度も心の中でリチャードに謝った。
そして祈った。どうか無事に目覚めますようにと。
リチャードの瞼がピクリと動き、思わずメアリーは手を握りしめた。
「ミス……ベネット? ないて……」
掠れたリチャードの声に、初めてメアリーは自分が泣いている事に気が付いた。
まだ涙を流せる人間なのかと嬉しくなる。
「ミスターには治療が必要だと思います。どなたか医師の心当たりはございますか?」
「……ああ。いつもパイプの薬をもらっている医師がいる」
「ああ、あのパイプの。ミスターの体質もご存知のかかりつけのお医者様ですわね」
リチャードは深呼吸をして、自力で起き上がろうとする。慌ててメアリーが支えた。
廃屋の外をそっと覗いて、様子を伺う。
「ここは……ロンドンか。都合が良い。あそこに近そうだ。ミス・ベネット。先に帰っていてくれたまえ」
「何を言ってるのですか? ミスター。そのお体で一人で歩くつもりですか?」
「ああ……目的地までそう遠くない。一人でも大丈夫だ」
「いけません」
リチャードは苛立たしげに、壁をとんとんと叩く。
「ついてきてほしくない」
「どうしてですか!! ……もしかして、また女性とか?」
そこでメアリーが唇を尖らせて、ツンと横を向いた。
リチャードには、なぜメアリーが拗ねているのかわからない。
「ミス・ベネット。君が何故不機嫌なのかはわからないが、たぶん君の懸念は、はずれている」
「疚ましい事がないなら、どうしてついて行ってはいけないのですか!」
「声が大きい。耳が痛い」
弱った体に、音が響き、リチャードが呻く。
メアリーは慌てて謝った。
「失礼、ミスター。でもやはりその様子で、一人にはできませんわ。絶対についていきますの」
リチャードは迷ったが、メアリーが本気で心配している気持ちが伝わってきたので、諦めることにした。
ロンドンの外れ、路地裏の小道をぐねぐね曲がった奥。特別な所など無いような、小さな家の扉の前に立つ。リチャードはとても緊張した顔をしていた。
これほど余裕がない姿を、メアリーは初めて見る。
トン、トン。ト、トン。トン、ト、ト、トン。
不思議なリズムのノックをしたら、ガチャリと扉が開いた。出てきたのはシワの深い老婆。
「まあ……坊や。またこんなに怪我をして。随分やんちゃをしてきたのね」
「……」
「なんだって? 謝るときはしっかり声をお出し」
「すみません……お祖母様」
「お祖母様!」
思わずメアリーは声をあげてしまった。老婆の視線がメアリーに移る。
「おや……可愛らしいお客さんだ。リチャードが女の子を連れてくるのを初めてみたよ。とうとう嫁を……」
「違います!」
思わず大きな声を出して、咳き込んで崩れ落ちる。慌てて老婆とメアリーの二人で、リチャードを抱えて部屋に入った。
「初めまして……メアリー・ベネットですの」
「礼儀正しいお嬢さんだね。私はバーバラ・チェンバー。坊やをここまで連れて来てくれてありがとうね」
ニコニコと嬉しそうに、両手でメアリーの手を包み込んで握手。そのままバーバラはリチャードの服に手をかけて、脱がそうとする。
「お祖母様! ストップ」
「何を今更恥ずかしがってるんだい? 服を脱ぐくらい。坊やのおしめだって、変えたんだよ」
「淑女がいますから」
「わ、わたくしは、見ませんわ」
メアリーが背を向けたのでホッとしたのか、そのままリチャードはベットに倒れ込んだ。
リチャードの傷口を消毒し、塗り薬と、湿布をして包帯を巻く。リチャードの下まぶたをぐいと下に引っ張り、白い眼球の色を観察した。
「貧血と、毒……案外睡眠はしっかり取れていたようだね」
丸い鉄鍋に、お湯を沸かして、歌いながら、草や、干物を入れていく。
「The ash grove how graceful how plainly 'tis speaking,
The harp through it playing has language for me
Whenever the light through its branches is breaking
A host of kind faces is gazing on me」
バーバラの歌う歌をメアリーは知らなかったが、とても優しく部屋の中に響いた。
メアリーは何もできないのが歯がゆくて、リチャードとバーバラの間を、行ったりきたりオロオロと。
あまりに落ち着かない様子に、リチャードは苦笑した。
「お祖母様はドルイダスだ。普通の医者とは違う」
「ドルイダス! 確か……ケルト人の司祭ですわね」
「もう……化石みたいなもんだけどねぇ。英国はもうずっと長いこと、クリスチャンの国。今では世界に名だたる大英帝国さ」
「お祖母様は近代的なドルイダスではないですか?」
リチャードの言葉に嬉しそうにバーバラが笑う。
「そうそう。長く生きてると面白い事が色々あるね。細菌という小さな生物がいて、これが傷口が膿む原因なんだとさ。悪い呪いが降り懸からぬようにと、必死に拝んでいたのにさぁ」
そう言いながら、鍋でドロドロになった薬湯をビーカーに入れ、ガラスの試験管から数滴液体を入れる。
「また実験ですか?」
「そうそう。坊やの体は特別だからね。近代の薬を色々試せる」
「実験?」
「化学と魔術の融合だよ」
受け取ったビーカーに口をつけ、リチャードは顔をしかめる。相当不味いのは表情だけでわかった。それでも文句を言わずに最後まで飲みきり、またベットに倒れ込んだ。
「後は一日寝るだけだ。さて……待ってる間に、お茶でも飲もうかお嬢さん」
「は……はい」
「坊やの子供の頃の話をしようか?」
「是非、聞きたいですわ!」
メアリーの勢いのよさに、辞めてくれとリチャードは言いたかったが、体が熱を帯びてきて、声を出す力が出ない。バーバラはそっとリチャードの額に触れ、にっこり微笑んだ。
「ちゃんと熱が出てるね。悪い毒を体の外に追い出して、体を一気に治すんだ。しっかり熱が出ないといけない」
どんどん上がる熱のせいで、眠れないのに、声も出せず。リチャードはうつらうつらしながら、バーバラとメアリーの話を聞いていた。
「妖精や死霊が見える坊やの力。あれはきっと私譲りだね」
「ミセスにも見えるのですか?」
「坊や程ではないけど、見えるね。あたしの爺さんや婆さんの世代に遡っても、坊やほど強い力を持った人はいなかったよ」
それまで楽しそうに話をしてたのに、急に表情が陰る。
「坊やの母親……嫁はね。ドルイダスなんて化石、信じたくなかったんだよ。坊やが妖精や死霊が見えるって言い出したら、真っ青になっちまって。必死に『取り替え子だ。医学的な病気で、教育次第で大人になったら治る』と言い続けてたよ」
ハーブを混ぜたミルクティーは、独特の味がしたが、メアリーはそれが嫌ではなかった。干した果物と木ノ実という、質素なおやつをつまみつつ、黙って話を聞き続ける。
「あたしもいけなかったんだよ。坊やにドルイドの伝承を、口伝で教えてしまったからね。坊やはあたしと母親。二人の板挟みのまま育ってしまった。見えるのに、聞こえるのに、何もわからないふりをして、英国紳士になるんだって、背伸びして……可哀想に」
「わたくしはミスターが紳士で、とても優しくて、嬉しかったですの。ミスターの優しさは、お祖母様とお母様。お二人の愛のおかげではありませんか?」
メアリーの言葉に、バーバラは顔がクシャクシャになるくらいに笑って、目を潤ませた。
「優しい良い子に育ってくれて、嬉しいねぇ」




