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ベアトリクスは素早くメアリーに近づき、トレイを受け取る。
「ありがとう。お嬢さん。ここから先は二人だけに……」
色っぽい匂いにメアリーが戸惑っている隙に、ベアトリクスがメアリーの首を舐めた。
「ひぃぃぃ!」
思わずメアリーは、ベアトリクスの肩を突き飛ばし、腹に蹴りを入れた。
ベアトリクスの体が宙を舞い、天井に叩きつけられる──と思ったが、器用に天井に足をつけて勢いを殺し、シルバートレイを持ったまま、床に飛び降りた。
かたり。小さく茶器が音をたてたが、紅茶は一雫も溢れていない。
「中々良い蹴りね。腕力も素晴らしい。それに……ティーカップみたいな、冷たく硬い肌も好みだわ」
メアリーはガタガタと震え、リチャードは頭を抱えた。もはや言い訳は通用しそうにない。
「リチャード。後ろめたい事があったとしても、誰にも言わないと約束したわよね。だから……このお嬢さんの事、もう少し教えてほしいわ。でないと……エリオットに話しちゃうわよ」
「わかった。話す。その代わり聞いたら君も、エリオットに恨まれる覚悟でいてくれたまえ」
「もちろん。エリオットの瞳も綺麗だけど、私はリチャードの瞳の方が好みだもの」
ベアトリクスの舌なめずりに、怯えそうになるのを、ぐっと堪える。そして観念して、洗いざらい全て吐き出した。
メアリーがベイリー男爵の娘である事。吸血鬼の血筋を引き、東洋式の屍人(僵尸)となって蘇生し、頭以外の体のパーツが人骨を素材にした特製のボーンチャイナとなった事。
ベアトリクスは満足そうに頷いて、熱を帯びた目でメアリーを見つめる。
「ねえ……よかったら、その体、もっと見せてちょうだい。その素敵なボーンチャイナの肌。気に入ったわ。女同士ですもの。見られたって良いわよね?」
メアリーは本能的な恐怖で、歯をカタカタ鳴らせながら、首を横に振る。
「ベアトリクス。揶揄うのは辞めてくれ。怯えているだろう」
「あら……揶揄いだけじゃないのよ。ねえ……綺麗な女の子ですもの。流行のドレスを着てみたくない? 冬になるからベルベットのスカートの下に、モスリンのペチコートをたっぷり入れて。シルクのリボンやオーガンジーの花をあしらってみるのも良いわね」
ベアトリクスの語るドレスの魅力に、メアリーは目を輝かせた。
「着てみたいですわ! だいぶこの服も擦り切れて。替えのドレスが欲しくても、この体をお針子に見せるわけにもいかなくて困ってたのですわ」
「私。採寸と縫い物が得意なの。貴方の体の秘密にも理解があるし……。体を見せてくれたら作ってあげるわ。だから……ね。ちょっとだけ……」
メアリーもかなり迷ったようだったが、結局新しいドレスの誘惑に勝てなかった。ベアトリクスに体を見せる事を了承する。
女二人きりにしてと言われたので、リチャードは大人しく、一人居間で紅茶を飲んで待つことにした。
離れた部屋から、メアリーの悲鳴が聞こえてくるのを、無視しながら。
「舞踏会の日までには、ドレスを仕立ててあげるわ。楽しみにしててね、お嬢さん」
メアリーは返事も返さず、ベアトリクスを見送るのを拒否した。
夕暮れ時の曇り空のロンドン。日差しの関係か、ベアトリクスの表情が陰って見える。
「リチャード……舞踏会はよろしくね」
「ああ……頼りにしてる」
別れ際に近距離まで近づいてきたので、リチャードは身構えたが、ベアトリクスは触れる事なく真面目な顔で囁いた。
「私の見立てでは、エリオット、グスタフ、クリスは何かを隠してる。ジミーが一番安全かもしれないけど、彼の得意は暗殺。注意したほうがいいわ」
ベアトリクスの観察眼の鋭さは、リチャードも一目置いている。だから無言で頷く。
人差し指を舌で舐めながら、微笑んでベアトリクスが帰っていった。
リビングに戻ると、メアリーはぐったりと椅子に座っていた。
「ねえ……ミスター。ドレスが出来上がったら、あの痴女を殺しても良いかしら? これからも付き合うのは耐えられませんわ。だってわたくしの正体を知っていながら、採寸中、何度も肌を撫でたり、舐められましたのよ!」
両腕で自分の体を抱えながら、メアリーは真っ青な顔で震えた。
リチャードもあまりの変態ぶりに、流石に引いた。こめかみをヒクヒクさせる。
「気持ちはわかるが、辞めておきたまえ」
「それは……ミスターの恋人だから?」
「違う! あんな変態女と僕が恋人など、ありえない!」
「だって……とても親しそうに……」
メアリーは言いかけて口をつぐんだ。視線だけで人を刺し殺せそうなリチャードの目に、この話題に触れてはいけないという、危機感を感じたのだ。
「君も先ほど見ただろう。彼女は七人会の退魔師だ。そう簡単にやられる相手じゃない。僕も彼女の力量の全てを知らない」
「一緒に学んだ学友ではありませんの?」
「カッシーニ先生の授業は特殊だ。全員で行う授業もあったが、個人の適正に合わせた個別授業も多かった。個別授業で何を教わったのか知らない」
「という事は……他の七人会の退魔師も、どんな能力を持ってるか、わからない所があると?」
リチャードは頷いて、少し考え込むように眉根を寄せた。
「全員退魔師としての基礎は身につけた上で、得意分野は……退魔術はエリオット、冷静さと知識量はクリス、近接格闘術はグスタフ、隠潜術と暗殺はジミー、観察力と組み技はベアトリクス」
そう言った後、メアリーをじっと見て言った。
「たぶん……ベアトリクスとメアリーの相性は最悪だ。組み技は効かないし、打撃技を軽減する能力もある。先ほどの動きみたいにね」
基本的にメアリーの力は、腕力に任せて殴ったり、しがみついて血を吸ったり。武器を使う訓練を受けていない。
「ミスターの得意分野は?」
「射撃センスは先生に褒められた。それと五感を使った探知能力」
「なるほど。どなたも厄介な方ばかりですけど、あの女と戦うなら、一番相性が良いのはミスターかしら?」
メアリーの言葉を肯定するようにリチャードが頷く。
彼女がリチャードと組む事を選んだのは、自分にとって一番厄介な相手を、味方に引き込みたいという打算があったのだろう。
ベアトリクスの思惑を推測していたせいで、メアリーがすぐ側まできていたのに気づかなかった。
「なるほど……だからミスターはあの女に油断するのですわね」
「油断? 変な勘ぐりは辞めたまえ」
「ノーですわ。ミスターは無意識のうちに『あの女には勝てる』と優越感があるのですわ。それで油断してる。そもそも男性より女性の方が弱いものですし、殿方ってそういう油断しやすいですもの。でも……」
手袋を外したメアリーの手が、リチャードの頬に触れた。冷たく硬い人形の手。
「女は強かで恐ろしいのですわ。弱いと思って油断したら……ガブリですわよ」
メアリーが口を大きく開けると、犬のような牙が見えた。改めて目の前の少女は化け物なのだと認識する。
なのに……怖くなかった。メアリーの目があまりに優しい色をしていたから。慈愛に満ちた、まるで母親のような優しさ。
「ミスター。顔色が悪いですわ。朝食の後、何も召し上がってないですわよね」
「ああ……そういえば紅茶を飲んだだけだった」
「それはいけませんわ。食べられる時に食べておかないと。わたくし何か買ってきますわ。この時間だと、パブぐらいしか空いてないかしら?」
「それはいけない。夜のパブに淑女が行くなど。危険だ。酔っ払いに絡まれる」
メアリーはぽかんと口を開けた後、くすくすと笑った。そこでやっと気がついた。
普通の淑女なら当然の忠告だが、彼女は普通でない淑女なのだ。
「失礼。ミスター。前言撤回しますわ。ミスターは女性に優越感を抱いているのでも、油断してるのでもない。女性は守るべきものと、骨のずいまで英国紳士なのですわね」
メアリーの言葉がじわじわとリチャードに染み渡り、それが無性に嬉しかった。多分メアリーも同じなのだろう。
紳士である、淑女である。そういう自負が二人の共通点で、紳士・淑女と認められたいという思いが強い。だからこそ信頼が成り立つのだ。
「もしあったら……キドニーパイが食べたい」
「かしこまりました。ミスター」
丁寧にお辞儀をして、メアリーは屋敷を出て行った。
暖炉の前でパイプを薫せ、深く思考する。
ベアトリクスの忠告が気になる。彼女を完全に信用したわけではないが、他のメンバーはさらに信用できない。
ジミーを味方に引き込むべきか……だが、彼がどこに隠れているか、見つけ出すのも一苦労かもしれない。
堂々巡りの思考を中断し、胸元から一通の封筒を取り出す。
キドニーパイが食べたい……などと言ってしまったのも、これのせいかもしれない。
封蝋はヘンリーのものだ。ペーパーナイフで丁寧に開けると、彼らしい細やかで丁寧な文字が目に入る。
嫌な予感がする。何か危険なことに巻き込まれているのではないか、そうリチャードの身を案じた内容だ。
「君のカンはいつもながらに鋭いね。でも……君は何も知らないままの方がいい」
返事もせずに、暖炉に投げて、封筒を燃やした。
警察とはいえ、ヘンリーはただの人間。闇の世界の住人、退魔師の抗争に巻き込みたくなかった。