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「お帰りなさいませ、ミスター」
玄関の扉を開けると、胸を張って踏ん反り返るメアリーがいた。その自慢げな様子にリチャードは呆れた。
被っていた帽子を差し出すと、メアリーは不服そうに唇を突き出して受け取った。
「何ですの。その表情は。この屋敷を、そのよく見えるお目目で、よーく観察してくださいませ」
灯りに照らされた暗い部屋でも、夜目が効くリチャードにはわかった。窓も柱もピカピカに磨かれ、塵一つないかのようだ。
ここまで掃除をしたのは、純粋に褒めるべきだろう。
「ありがとう。ミス・ベネット助かった。お礼にこれを」
エリオットからもらった菓子を渡すと、メアリーの目が輝いた。
「ショートブレッドに、野いちごのパイ、イチジクとナッツのパウンドケーキ……ああ……どれも美味しそう……」
「淑女。深夜のお茶の時間としようか」
「作戦会議ですわね。わたくしもミスターに報告したいことがあったのですわ」
メアリーは嬉しそうに菓子と一緒にミルクティーを飲み、リチャードは紅茶にスコッチを垂らした。
メアリーにどこまで話すべきか悩みつつ、簡単に七人会について、その一人が殺されたこと、その仲間と協力してノースブルック子爵の舞踏会に行く事を話した。
「ご学友……というのかしら? 仲がよろしかったの?」
リチャードは咄嗟に言葉を返せずに沈黙した。
メルヴィンが生きていたなら、文句なく仲が良かったと言った。
だが他のメンバーは、大なり小なり、油断ならないところがある。
「仲が良い……ように見えるかもしれないな。でも、全て敵と思った方が良い。全員退魔師だ」
「わたくしの正体を知ったら、殺されそうですわね」
リチャードは小さく頷いた。ベアトリクスは既にメアリーを怪しんでる節がある。
「それで、ミス・ベネットの報告も聞かせてもらおうか」
「以前ミスターの墓参りをつけていた、あの退魔師が屋敷の周りをうろついてましたわ」
リチャードは思わず顔をしかめた。三流とはいえ敵に回したくないヴァチカン。
だが前回の事で恨まれているだろう。メルヴィンの事も考えると、何か任務がありそうだ。
「ガルシア・マルケス。ヴァチカンの退魔師で、上司の命令でミスターを監視するようにと言われているそうですわ。理由は不明だけれど、裏切り者シモーネ・カッシーニの弟子だからじゃないかって。ベイリー男爵の一件も怪しいと」
「……ずいぶん詳しいな」
「本人が言ってましたの」
思わずリチャードはガタリと椅子を鳴らしてしまった。
「本人が……というのは、会って話したのか? ミス・ベネット」
「ええ。この屋敷の雇われ家政婦で、主人の仕事は知らないと言っておきました」
「君の正体に全く気づいてないと?」
「ええ。全く。化け物に襲われて危ないから、仕事を辞めた方が良いと、熱心に勧められましたわ。女性には親切な方ね」
自分の任務をベラベラと家政婦に話し、メアリーを化け物と見抜けずに、化け物に襲われるから危ないと言う……。四流以下だ。
「太ももを撃ち抜かれたと、ミスターにお聞きしてましたけど、ピンピンしてましたわ」
「雑草並みのしぶとさか。また仕事の邪魔をされたくないものだ」
翌日。買ってきたパンと、スープと、ミルクティーだけの簡素な朝食をとる。
メアリーは掃除の腕は確かだが、料理はまだまだで、適当に野菜を煮込んだスープを作るので精一杯だった。舌が超えたリチャードだったが、その料理に不満はない。質素を重んじるのが英国紳士だと思っているからだ。
遅めの朝食を食べ終えた頃、リチャードは唐突に背筋を強張らせた。
「どうされましたの?」
「屋敷の外から香水の匂いがする。それなのに足音がない。ベアトリクスだ」
足音を立てない歩き方は、退魔師の習性だ。匂いを消さないのは、わざとだろう。
「舞踏会にご一緒されるのですわよね? その打ち合わせかしら?」
「ただの打ち合わせなら良いが……ミス・ベネット。隠れていてくれない……」
リチャードが言い切る前に、玄関の扉が開いた。
「リチャード。会いに来たわ。何処にいるのかしら?」
何処かと問いつつ、真っ直ぐにリチャード達のいる居間へと向かっている。初めての屋敷とは思えない程、正確に。
メアリーを隠す余裕は無いと諦め、リチャードは軽く目をつぶって深呼吸をした。
居間の扉が開いた時には、既にリチャードはいつも通りの英国紳士らしい、堂々とした態度を作り上げる。
「ベアトリクス。ノックもなしに入るなど、淑女の礼儀作法を勉強し直したらどうかな?」
「いつも通りに冷たいわね。リチャード。そこが素敵だけど」
じっとリチャードの目を見つめて、舌なめずりするベアトリクスの姿に、メアリーは嫌な予感がしたのか、びくりと身を震わせた。
「そちらのお嬢さんが協力者の女の子? まあ……本当に可愛らしいわね。食べちゃいたくなるくらい」
満面の笑顔を浮かべ、メアリーに抱きつきかねないほど、急接近する。
とっさにリチャードがメアリーを背に庇うように、立ちふさがった。
「おふざけはその辺で辞めておくように。君は馴れ馴れしすぎだ。子供を怯えさせてどうする」
「とっさに庇いたくなるくらい、大切な子なの? 妬いちゃうわね」
メアリーの体に抱きつかれれば、その感触で人間じゃ無いことは、簡単にわかってしまう。それは避けたかった。変に邪推されたままの方が都合が良い。
「ああ……大切な協力者だ。ベアトリクス。君よりも」
「それなら……舞踏会のエスコートは彼女の方がよかったんじゃないかしら? 私を選んだ理由は?」
「君の方が強い。もしもの時に、確実な戦力がある方がありがたい」
「その子を危険な目に合わせたくない? お堅いリチャードが骨抜きね」
メアリーはリチャードの背からおずおずと顔を出し、ベアトリクスを見上げる。
頬を赤く染め、怯えるようなそぶりは、まさに普通の子供だ。良い演技だと心の中でリチャードは褒める。
「あ……あの。立ち話ではなく、お座りになりませんか? お茶をいれて参りますので……」
「あら。ありがとう。お嬢さん。ミルクも砂糖もなしの、ストレートで。トワイニングのアールグレイがあれば最高ね。美容の為に砂糖は口にしないことにしているの」
「かしこまりました。淑女」
優雅にお辞儀をして、メアリーは足早に立ち去る。
それを確認したところで二人は座って向き直った。ベアトリクスの表情も、すっと真面目になる。
「要件を聞こうか。ただ遊びに来たわけじゃないだろう?」
「あの子の顔を見たかったのもあるのよ。でも、昨日話せなかった話もあるわ。リチャード。貴方だって考えたでしょ。七人会の中に裏切り者がいる可能性を」
リチャードはその言葉に動揺は見せなかった。それは当然の考えだったから。それよりもなぜベアトリクスがその話題を真っ先に出したのか。その真意を素早く計算する。
「完璧なメルヴィンであっても、七人会の人間には油断して隙を見せるかもしれないな」
「ええ……。だから寝首をかかれない為にも、信頼できる者同士、手を組んで警戒しておいた方が良いと思うの」
「僕が裏切らないと君は信頼してくれるのかね?」
「ええ……もちろん。愛してるから……という理由だけでもないのよ」
軽薄でふしだらな女に見せていても、ベアトリクスも退魔師だ。
命がかかる状況で、油断も甘い考えも切り捨てる。
「警察の記録は確認したわ。貴方がベイリー男爵の事件を解決し、その時の協力者はメアリー・ベネットという少女。それは記録上間違いない。貴方の友人ヘンリーが切り裂きジャック事件の担当だった。それなら貴方が切り裂きジャック事件に関わったという話も信憑性が高いわね」
「一晩でそこまで調べたのか?」
赤い唇の端が釣り上がる。この程度の事という余裕が感じられた。
「メルヴィンが殺されたのは、最後の切り裂きジャックの犯行の直後。貴方がロンドン近郊にいたのなら、犯行は不可能だわ。彼が殺されたのはエディンバラよ。あまりにも遠すぎる」
「なるほど。アリバイがあるということか。それで? 君のアリバイは?」
「残念ながらないわね。でも……貴方にここまで話をしたのだもの。信用してもらえないかしら? それに……あのお嬢さんの事で、貴方が何か後ろめたい事があったとしても、誰にも言わないから」
リチャードの弱みを握ってる。その確信がベアトリクスをこれほど大胆にさせているのだ。リチャードは内心苦々しいものを感じた。だが、それは顔に出さない。
「後ろめたい事などないが、彼女がベイリー男爵事件の、有力な情報源なのは確かだ。生かして利用する価値がある。丁重に扱ってほしい」
「そういう事にしておきましょうか」
そこまで話をした所で、メアリーが部屋に近づく気配を感じ、リチャードは沈黙した。
ベアトリクスもそれで気づいたのだ。真面目な顔を綺麗に洗い落として、笑顔を浮かべる。立ち上がってリチャードの横まで素早く移動した。
メアリーが扉を開ける瞬間を狙ったように、リチャードの眼鏡に手をかけた。
「リチャード。貴方と私の仲じゃない。二人きりの時くらい……もう少し優しくしてね」
二人の唇が触れそうな距離まで、顔を近づけたのを見て、メアリーは驚いた。
うっかり茶器を乗せたシルバートレイを落としかけ、慌てて抱え込む。顔が真っ赤だ。
「えっと……あの……お邪魔でしたら。わたくしお茶を置いたら下がらせていただきますわ」
リチャードはわずかに迷った。
変な誤解を解きたい衝動と、メアリーとベアトリクスを引き離す、良い口実だという打算。
その迷いが命取りだった。