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古い石造りの壁に、ステンドグラスの色とりどりの光が降り注ぐ。
聖堂内は信者達の歌う聖歌に満ちていた。
最後列にたつリチャードも口を開け閉めして、歌ってる振りをする。
聖歌の後は説教の時間。背が高く痩せた若い司祭が、熱心に語りかける。
リチャードは椅子に座って、手を組み、目をつぶって、熱心に説教を聞いてる振りをしながら、その実体はうたた寝をしていた。
「そろそろ起きてほしいな、リチャード。そんなに私の説教は眠くなるのかい」
子供を嗜めるような優しい司祭の言葉に、ようやくリチャードは目を開いた。
すでに礼拝が終わっている事に今更気づく。聖堂内にいるのはリチャードと司祭だけだった。
司祭を見上げてリチャードは思う。天使という存在を形にしたら、この男のようになるのではないだろうかと。
陽の光に透けた金色の髪。透き通った青い瞳。いつも絶やさぬ柔らかな笑み。
シミひとつない、真っ白な司祭服がとても似合っている。それは昔から何一つ変わらない。
「聖堂というのはとても清らかな場所だ。不浄なものは何もなく、何にも妨げられる事なく、非常に寝心地が良い。エリオット。君の声もとても良い子守唄だ」
「変わらないね……君は。また余計なモノが見えて寝不足かな? 大丈夫かい?」
心配そうに覗き込み、エリオットがそっとリチャードの顔に手を伸ばす。目の下のクマに触れようと、眼鏡に手をかけた所で、リチャードは片手で遮った。
「大丈夫。最近は調子が良い」
「そのようだね。とても顔色が良い。それで今日はどんな用事かな?」
「地下に、今何人いる?」
「君で全員だ。ちょうど君を呼びに行こうと思っていたところだ」
エリオットの優しい微笑に影が差し込み、リチャードは嫌な予感がした。
聖堂の脇にある、司祭用の住居から地下へ下る階段を、一歩一歩踏みしめる。
「懐かしいね。ここで皆と話していた頃が。カッシーニ先生がいなくなって、君も皆もここに来なくなって、散り散りになって……一人で待つのは寂しかった」
「司祭として信徒に慕われて、表業は十分充実してそうだが?」
「そうだね。でも私は退魔師でもあるんだよ。この世の不浄の全てを消し去りたい」
潔癖なエリオットらしい。裏表のない真実の言葉であると、リチャードは理解していた。
だからこそ信用できるし、一番警戒している。
エリオットがメアリーの正体を知ったら、許さないだろう。
階段を降りきって、ギギギと音を立てて地下の扉を開く。カビ臭い匂い、香水の匂い、焚き染めた香の匂いが混じり合い、リチャードは顔を顰めた。
「あら! リチャード久しぶり。会いたかったわ」
一番に赤毛の女が飛び出してきて、リチャードに抱きつきそうなほど迫る。
ぽってりとした赤い唇からちろりと伸びた舌が、リチャードの眼鏡のガラスを舐めた。
扇情的で情熱的な仕草に、反射的にリチャードは突き飛ばす。
「ベアトリクス……僕に触れるなと、昔から言ってるはずだが? 僕は慎みがある淑女が好きなんだ」
「身持ちが堅い男って、色っぽいよね」
まるで応えてないかのようなベアトリクスの態度に、リチャードはこめかみをヒクヒクと痙攣させる。
鮮やかな赤毛の髪に、タレ目気味の菫色の瞳。コルセットで締め上げた、細い腰から繋がる豊かな胸元。
男心をくすぐるような、色香を放っているが、リチャードの眼は突き刺すように冷ややかだ。
「相変わらずモテる男は辛いな、リチャード。そのおこぼれを俺にも分けてくれよ」
ケラケラと笑いながら茶化すのは、小柄なグスタフ。鳶色の巻き毛と、まん丸の榛色の瞳、そばかす混じりの肌が子供っぽい。
「グスタフ。あいにく淑女はモノではないので、くれてやることはできない。勝手に持ち去って、僕の前から消してもらえるとありがたいんだが」
「相変わらず厳しいな。他に女でもできたのか」
「いない」
「……街中の喫茶店で……美少女と一緒にお茶をしているの……見かけたって、噂を聞いた」
背を丸めた大男ジミーが、陰気にボソボソと痛いところをつく。髪も目も漆黒で、死神のような陰気さだ。
グスタフは口笛を吹いて囃し立てた。
「可愛い女の子? リチャードって、少女趣味好きだったの?」
「違う。仕事上の協力者だ」
「……一緒に住んでるって……噂も聞く……」
ジミーの言葉が、まったくのデタラメでもないせいで、余計にややこしい。
「メルヴィン。この馬鹿達を黙らせてくれ。話が進まない……」
「メルヴィンはいない」
怜悧な刃物のように冷たい声が、地下室に響いた。
栗色の髪と切れ長の翡翠の瞳。神秘的な雰囲気の青年の姿にリチャードは息を飲んだ。
五年ぶりのはずだが、まったく年をとった気配がない。いまだに十代と言っても不思議でない姿が、いっそ不気味だ。
「クリス。どういう事だ? エリオットは全員いると……」
改めて部屋を見渡して、六人しかいない事を確認する。曲者揃いのこの集まりで、もっとも指導力に優れた男の存在が欠けている事に、リチャードの不安が増した。
「七人会筆頭のメルヴィンがいない。どういう事だ?」
「メルヴィンは死んだ」
クリスの言葉がリチャードを貫く。調子が良いグスタフさえ、神妙な顔をしているのを見て、それが嘘ではないとリチャードも認識した。
「……だから全員集まったのか。クリス……メルヴィンは誰に殺された?」
「なぜそう思う?」
「彼が病気や事故で死ぬような、やわなわけがない。カッシーニ先生の教え子で、最も優秀だったメルヴィンだ」
「誰にというのは人間にという事だろう? 化け物に殺されたとは思わないのか?」
「思わない。退魔師として彼より強い人間を、僕はカッシーニ先生以外知らない」
「リチャード」
気づくとエリオットがすぐ側で、背を撫でていた。とても心配そうな顔をしている。
「ショックなのはわかるが……少し落ち着いた方がいい。お茶を入れよう。君の好きな茶葉を用意してある」
そう言われて、やっと手が震えていることに気が付いた。体の芯が冷えてるのに、妙に汗ばんで気分が悪い。
瞼を閉じると今もメルヴィンの姿が、鮮やかによみがえる。
すらりと背の高い男だった。いつも姿勢が良く、堂々とした態度が、とても器が大きく見えた。皮肉とユーモアを理解する知性と理性を兼ね備えていた。
リチャードは自分を紛い物の英国紳士だと思っている。メルヴィンこそ、真の英国紳士だ。
だからリチャードは彼を尊敬していた。
だが……彼はもうこの世にいないのだ。
一度深呼吸をしてから、姿勢をただして椅子に座る。丁寧に礼を言いながら、差し出されたティーカップを受け取って、上品な仕草で口にする。
いつも通り、英国紳士らしい事をして、やっと動揺がおさまった。