いつもの一夜
使用したお題『英語以外の外国語』『夜道』『月が綺麗ですね』『魔王』『テキーラ・サンライズ』
「月が綺麗ですね」
夜道を一緒に歩いているとき彼女がそう言った。暗い夜道でもわかるくらいその頬が赤い。
「そうだね。でももっと綺麗なものがあるよ」
隣にいた男がそう言って彼女の肩にそっと手を置いて、自分の胸元に引き寄せる。彼女の熱い体温、何かを期待する口元、潤んだ瞳。
「君のことだよ」
そういって二人の影が重なりあう。そのまま二人の姿は歓楽街へと消えていった……。
「ってさー、そこまで行ったらどう考えてもお決まりのコースだろう? もうラブなホテルへゴーでニャンニャンでヒャッホーでいいじゃないか! なんでそこから『やっぱり家に帰らなくちゃ』になるんだよー」
男はバーのカウンターでグラスを傾けながら盛大に管を巻いていた。他に客のいないバーの静かな空気の中、彼の愚痴だけが延々と続く。
カウンターにいるマスターがグラスを磨きながら盛大に溜息をついた。
「あまりお客様に言うべきじゃないと思うんですけどね。アナタ、女性を見る目が無さ過ぎるんですよ。あの女性、間違いなく既婚者でしたよ。それくらいわからなかったんですか?」
マスターはまるで出来の悪い生徒を窘めるように諭す。確かに先ほどの女性客は左手に指輪こそしていなかったものの、手持ちのカバンやアクセサリーが独身者のそれとは微妙に異なっていた。夜の商売に関わる人間なら見間違えるわけがない。
しかし男はその言葉を肯定した。カウンターに突っ伏しながらブチブチと文句を言う。
「いやさー、それくらいわかってたよー。でもさー、そういうさー、遊びたいけど旦那がいる、でも遊びたいっていう女の人とさー、いろいろ楽しいことするのってさー、やっぱり楽しいじゃないかー。一晩くらいケチケチせずに付き合ってくれればいいのにぃ……」
泥酔一歩手前の男の愚痴はどこまでも続く。バーで暇そうにしてたから声かけたら嬉しそうにしてたじゃないかーとか、せっかくここの飲み代奢ったのにはいさようならってそりゃないだろーとか、せめてあの肉付きの良いお尻だけでも触りたかったなぁなどなど。
マスターは見下げ果てたとでも言いたい目付きで男の後頭部を見下ろしていた。
「だからあなたは”マオウ”って呼ばれてるんですよ。全く……」
「え、魔王? なにそれ格好いい。なんでだよ?」
「そっちじゃなくて間王。間抜けな王様とか間男の王様とかそんなところです。噂で結構有名になってますよ、知らないんですか?」
「言い方酷いなおい! っていうか有名になって……ああ、だからあそこでバイバイされたのかなぁ」
一瞬だけガバッと起き上がるも、衝撃の事実を知らされてまた目の前の黒檀へへばりついた。
マスターはもはや邪魔な置き物になっている男を無視して、食器の片づけを継続する。あと少しで閉店なのだ、急がなければならない。
夜遅くだというのにキビキビ働くマスターをぼんやり見上げながら、男は雑に注文をした。
「マスター、ウォッカ」
「ダメです。あなた先ほどあの女性と結構飲んだあとトンボ帰りしてきたんでしょう? もう飲み過ぎです。閉店も近いのに飲ませすぎて寝られでもしたら邪魔で仕方ありません」
「マスター、テキーラ」
「ダメです」
「……マスターの作った美味しいカクテルが飲みたいなぁ。飲んだらこの落ち込んだ気持ちが潤うんだけどなぁ」
「ダメです」
「……マスタあああああ、一杯だけでいいからああああああ、テキーラサンライズをお願いしますううううう」
「もう、泣かないでください。はぁ、一杯だけですよ」
「さすがマスター、大好き!」
泣き顔を一瞬で笑顔に変えた男に再度マスターはため息をついた。しかしすぐに背を向けて注文通りにカクテルを作りだす。後ろの台座に乗って酒瓶を一つ手に取った。
シェイカーにお酒や果物を入れるマスターの手つきを見ながら、男は嬉しそうに聞いてくる。
「もう俺、女遊びやめようかなぁ。ここの店と酒があれば幸せで暮らせそうだ」
その言葉に一瞬だけシェイカーを振る音が止まった。しかしすぐに再開したマスターが真剣な顔で答える。
「……あなたは純愛を目指した方がいいと思います。浮気や遊びばかりだから上手く行かない気がします。意外と近くにあなたの望む人がいるかもしれませんよ」
「だったらいいんだけどねー。まあ俺みたいな軽薄な奴には無理だと思うけどさ」
「……できました、どうぞ。これが最後ですからね」
目の前に置かれたグラスを見て男は舌鼓をうつ。しかし一口飲んでその顔を顰めた。
「……これテキーラと違くね? なにこれ」
「私のオリジナルの新作です。『ヴ・ゼ・サンクイエット』といいます」
「オリジナルかよ! というか注文と違くね!?」
「アルコール度数を控えめにしたらそうなったんです。文句があるなら飲まないでください。そもそももう閉店の時間なんです。飲まないなら帰ってください」
そこまで言われたら引き下がるしかなかった。男は仕方なしにお酒というよりジュースに近いカクテルをチビチビと飲み始めた。
男は言い負かされてたまるかと負け惜しみを言った。
「……マスター、親父さんがいないからってこんな勝手なことしちゃいけないんじゃないですかねぇ」
「そもそも閉店間際に泣きながら来店したのは一体どこの誰ですか? 相手してあげてる私に感謝してください」
「……まな板」
「あ”? なんか言いました?」
「い、いえ何でも」
BGMすらない暗い店内で二人のどこか楽し気なやり取りはまだまだ続くようだった。
ヴ・ゼ・サンクイエットは仏語で「あなたを心配しています」です




