QED
自殺に最も多いとされる時間帯は午前6時と言われている。日本では一日に少なくとも70人が自殺する。最も自殺者が多い月曜日には100人を超える。つまり、15分に一回の割合でどこかでだれかが首を吊り、崖から飛び降り、煉炭を焚いているのだ。
十五分に一回ともなればこんな想像が出来やしないだろうか。教室での授業中窓ガラスを影が過る。窓際の生徒が中庭を覗き込むとうまいこと花壇に後頭部をぶつけた学生服が血まみれで横たわっている。近くには30分前に飛び降りた女子生徒の目が虚ろに空を見つめている。後ろの席にいた生徒が窓ガラスに震える手をあてる。先生がそれを見て言う。「あと12分経ってからだ。月曜日にしても多すぎる。」
また、自殺者には男性が多いとされているが、実際に自殺を試みるのは女性のほうが多いと言われている。日々の生活において、男性のほうが筋力、持久力ともに上回るが、生命力に関しては女性のほうが強く痛みへの耐性がある。「産みの苦しみに男は耐えられない。」などと聞いたことはないだろうか。これに関してはあながち迷信でもない。つまり、女性は丈夫な体が仇となり自殺が成功し辛いのだ。
試みれば上手く自殺できる男性と、生き残る女性と、どちらがより悲劇的だろうか。
一度自殺を試みた人は成功するまで繰り返す。12分後に教室の窓から飛び降りた彼女はまだ息をしていた。やはり屋上でなければ難しかったようだ。足を引きずり手すりにもたれながら非常階段を上る。まるで他人事のように振る舞うまだ飛び降りないだけの生徒の声に震える。もう二度とこの階段を上りたくない。上手くいきますようにと願いながら手すりから身を乗り出した。
ある教室では数学の授業が進められていた。近頃のテストでは0か1を持っていればいいので証明の単元は相手にされない。それでも解法は進められていた。仮定が連ねられ、定理が持ち出され必要な文字式は名前を付けられ、呼ばれれば従順に道を開いた。黒板の最後にQEDが書き込まれる。一瞬の空白は静謐でうつくしかった。誰もみていなくとも。
今日の朝、死んだ彼女は数学が好きだった。
新たな証明が始まる。
君は、自分のことが嫌いなんだろう。それを仮定としよう。そこに自己愛という定理を持ち出して自殺について証明しよう。
まずは、自己愛について解説しようか。人が生きている限り自己愛からは逃れられない。冷やかしみたくナルシストになるだとかそんな安易なことではなくて、行動の先駆けになるものが自己愛と言ってもいい。「自分がすることは正しい」と肯定しないとなにも始められないだろう。自分の正しさを愛するのが自己愛だ。
ならば、自殺は自己愛の否定になり得るだろうか。君が自殺することを正しいと思うならばその自殺は自己愛に塗れている。自殺はいけないことだけれど、こうするより仕方がないなどと考える根源には、この状況に自分を置くのはかわいそうだからという自己愛が潜んでいる。哀れな君の死体には醜い自己愛がこびり付いている。
自分が嫌いなら、生きろ。自己愛を否定したいならどんなに辛い状況でも自分を解放してやるな。自分を愛せないなら、生きるんだ。