冷たい肌 「7」
いきなり抱きつかれた私は思わず左手を彼女の腰に添えた。ちょうど私の鼻先にくる彼女の髪からミントの香りがする。長時間、彼女のすべてを感じ取ろうと夢中になっていたが、不思議と今の私はすっかり平常心を取り戻していた。「みゆきさん、すまないけど少しだけ待ってもらえるかな?このまま抱きしめると鉛筆とクレパスで黒くなった右手で君を汚してしまう。手を洗ってくるから良ければ先にベッドに入っていて欲しい」私はそう言ってから腰に回した左手を引いて彼女から離れた。部屋の壁のスイッチパネルで遮光カーテンを締め、室内の照明を少し落とした。部屋の空調も少し温度を下げてから洗面所に入った。手と顔を洗って歯磨きもした。少し考えてシャツとズボンも脱ぎ捨てた。
部屋にもどると彼女はベッドの中でシーツにくるまって壁のほうを向いていた。顔は見えない。右側からベッドに滑り込んでシーツをめくり、そっと左脇腹に左手をそえる。滑らかで張りのある肌を感じた。なぜか体温が低いように感じるが、私の体が熱くなっているからだろう。
それから私達は至福の時間を過ごした。天使と手を取り合って天空を自在に浮遊する。ゆっくりと左右に、上下にまわりながら光を、闇を感じ取る。そんな感覚を覚えながら仰向けになって少しずつ降下してゆく。気がつくとベッドの上で天井を見ている私がいた。
横をみると同じように天井を見上げているみゆきさんがいた。彼女の瞳に輝くような滴がたまっている。悲しみの涙ではない事は分かるので、こぼれ落ちる滴をそっと薬指で拭ってやった。彼女は微笑んで首を持ち上げ私の額に小さなキスをくれた。そのとき彼女の瞳からあふれた滴が私の頬に落ちてきた。わずかな温かさを感じた。
早くなっていた動悸が少しずつ鎮まっていくのと同時に、現実的な欲求が湧いてくる。
腹が減った。「みゆきさん、おなかがすいたんだけど下のレストランで食事をしないか?モデルになってもらったお礼になんでも好きな物をごちそうするよ」また一緒にランチを楽しみたいと言う気持ちもある。「佐野さん、私もおなかペコペコです。でも、レストランじゃなくて今日はラーメンが食べたいんです。どこか美味しいラーメン屋を知っていたら連れて行ってください」ラーメン?拉麺?彼女のイメージに合わないが食べ物にイメージも何もない、食べたい時に食べたい物を食べるのが一番だなと思う。「よし、私はラーメンつうじゃないけど、美味しいと思ったラーメン屋ならあるよ。ここから車で15分位だと思うけど、そこに行こうか?」「はい、行きましょう!」嬉しそうに返事をする。不思議な人だ。だいぶ彼女の内側が見えてきたと思ったがまだ未知の部分がたくさんある。家族のこと、仕事のこと、生活のこと、時間はあるから少しずつでも知りたいと思った。
フロントでチェックアウトを済ませ、ホテルの前でタクシーを拾う。車内で説明をする。「E駅の近くに九十九ラーメンって店があるんだけど、たまに行くY美術館に駅から歩いて行く途中にある店で、よく外にまで行列が出来ているんだ。行列がない時に何度か入ったことがあるよ。とんこつラーメンは美味しいと思ったなぁ」「とんこつですか?好きです、楽しみだなぁ」彼女が言うには、ラーメンは大好きだが、お行儀良く食べる事ができないのであまり友達とも店に行かない、食べたくなると一人で行くことが多いと言う。話をしているうちに店の前に着いた。ラーメン屋にタクシーで乗り付けるなんて初めての経験だ。こんな事はきっと生涯二度とないだろう。
うまい具合にカウンター席が空いていた。彼女は時間をかけてメニューを眺めていたが「私、とんこつラーメン、トッピングにピリ辛もやしとゆで卵。あと餃子も、佐野さん半分こしましょ。瓶ビールも飲みたい」おっさんの私に合わせてくれたのか、こんなオヤジくさい彼女の一面があるのかと驚く。「じゃあ、私も同じだ」私も注文をすると彼女は店内をキョロキョロと見回している。ハンドバッグに手を入れるとヘアゴムを取り出した。髪を縛ると完全に臨戦モードに入ったようだ。両手をこすり合わせながらまたメニューを眺めている。自分一人の世界に入ってしまったようなので黙って見ていることにした。こんな彼女を見ているのも楽しい。
しばらくして「はい、おまちどおさま」カウンターにラーメンと餃子が置かれた。二人とも小さな声で「いただきます」レンゲでもやしをかき分けスープをすする。箸で麺をすくって口に運ぶ。大体誰でもやることは同じだ。彼女は「うーん 美味しい、久しぶりにホントに美味しいラーメンと出会いました」私を見て右の頬にえくぼを浮かべる。「うん、よかった。気に入ったんだね?」頷きはするが私を見ないでどんぶりに夢中のようだ。また「うわぁ、ホントに美味しいね」今度は餃子を口に頬張る。私もラーメンを食べてはいるが彼女を見ているほうが余程面白い。右手に箸、左手にレンゲを、食べっぷりは男の私がみてもほれぼれする。「フ-ン、ホイヒイネー」麺を口に含んだまま私に話しかけるが言いたいことは解らないでもない。まるで低学年の小学生のようにあどけない。店員が見ていなければ、彼女の髪の中に手のひらを滑り込ませゴシゴシとなでてやりたいと思った。
餃子は彼女が3個、私は2個食べた。スープを飲み干し、ビールのグラスを空にするとやっと普段どおりの彼女に戻ったようだ。膝の上に広げていたハンカチをたたみながら「佐野さん、本当に美味しかった。ありがとう。今日はもう一つだけお願いがあるんですけど聞いてもらえますか?」「うん、なんだろう?」彼女はうつむき気味に言葉を続ける。「ここはE駅の近くって言いましたよね?今日はここでお別れして一人で帰りたいんです。うちに帰るまでに一人でゆっくり考えたいんです。一緒に歩いて行くと帰りたくなくなりそうだから」考えること?難しい言葉だ。確かに私もいろいろと考えることがある。今日は長い一日だ。「わかった、店を出て左にまっすぐ行くとすぐにE駅だよ。私は右に行ってY美術館を覗いてから帰ることにしよう。今日は私もこれから一人でいろいろ考えてみるよ」勘定を済ませて外に出る「みゆきさん、今日は本当にありがとう。デッサンはうちに帰って少し手を加えれば一応完成すると思う。出来上がったら連絡をするから一緒にみてもらえるかな?」「わかりました、連絡待っています。今日はここでお別れします。私も振り返らないから佐野さんも振り返らないでください。さよなら」そう言って駅の方へ歩き出す。私も反対方向へ歩き出す。Y美術館は日本画専門の美術館だ。今日はなんの企画展を開催しているか確認していないが、少し頭を冷やすのには良いかもしれない。以前にここで観た速水御舟の〈炎舞〉を思い出した。この美術館の所蔵品だが、闇の中に立ちのぼる炎の上を何匹かの蛾が舞うという日本画だ。今日の彼女は炎だったのか、私はその上を舞った蛾の一匹だったのか?
ほどなく美術館に着き入館するがあいにく〈炎舞〉は展示されていなかった。一時間ほど企画展を楽しんでから帰路に着いた。今日はいろいろな体験をした。彼女に頭の中を占領されグルグルとかき回されるのを楽しんだような気がした。
速水御舟「炎舞」 (部分)