冷たい肌 「6」
冷たい肌「6」
エレベーターの扉が開くと目の前に12階フロアの案内が表示されている。私達の部屋は左手に進み二つ目だ。カードキーをスロットに入れてドアを開ける。照明は点いていないが空調は効いているようで暖かい。大きな窓はレースのカーテンが引いてあるが部屋は明るい。照明のスイッチを入れてジャケットを脱ぐ。彼女もコートを脱いでクローゼットに掛けるが、グレーのスカートスーツに白いブラウスを着ている。
珍しくモノトーンで黒のハイヒール、いつもと少しイメージが異なる。女心がわからず女性のファッションに疎い私でも何か思う事があるのだなくらいは理解できる。
グラスを二つ出して買ってきた常温の日本茶を注ぐ。ソファに腰掛けると彼女も横に座る。「みゆきさん、きっと初めてのことで緊張していると思うけど私もモデルを前にして描かせてもらうなんて初めてだ。無理なお願いはしないつもりだけど、どうか楽な気持ちになってもらいたい」と、言うと「はい分かりました。楽になれるかどうか分からないけど、とりあえずシャワーを浴びてきてもいいですか?」「時間はあるからゆっくりで構わない。落ち着いたら部屋に戻ってきて。スケッチの準備をしているから」彼女がバスルームに消えるのを待って準備をする。腕を組んで考える。どんなポーズをとってもらうか、何も考えつかない。やはり彼女をよく見て何か思い浮かべる事ができればそこからスタートするしかないだろう。私だって緊張している。
しばらくすると水音がやみ白いバスローブを羽織った彼女が現れた。ベルトも付けずに前を軽く合わせている。「お待たせしました。どうすればいいですか?」するりとバスローブを脱ぎうつむき気味に私を見る。眩しいほどの裸身をみて私はクラクラしてしまう。「みゆきさん、とても綺麗だと思うけど後ろを向いてもらえないだろうか、緊張してまだ頭の中の整理がつかない」
小柄でスリムな体型だと思っていたが、あらためて見ると豊かな胸で腰回りも充分ボリュームがある。後ろを向くと背中から尻に向かうラインがとても綺麗だと思った。「すまないけど髪を手で上げてみてもらえないかな?」セミロングの髪を上げてもらうとやはり首筋からおりてくるラインが美しい。彼女と目を合わせないで済むぶん私も少し落ち着いた気持ちになれる。「じゃあ、今度は片手を水平に伸ばしてみて」右手で髪を掴み左手をまっすぐ横にのばす。「うん、後ろ姿もとてもチャーミングだと思う。ここは12階で向かいに高いビルもないからカーテンはこのままでいいかな?自然の明るさの中のみゆきさんはとても美しいと思う。ちょっとそのソファに後ろ向きに座ってみて欲しいな、うん、楽な姿勢で構わないから」なにかうまく言葉にはできないが見えてきたような気がする。白い背中を中心に暖かいものが広がっていくようなイメージが湧く。
背の低い丸テーブルをソファの前に移動させてスケッチブックと筆箱を並べる。やっと絵を描くモードになってきた。思い出してバッグからパンフレットを取り出して「みゆきさん、駅に置いてあった国内と海外の旅行パンフレットを持ってきたんだけど、良ければこれでも眺めていて。少しでも落ち着くかなと思ったんだ」やっと彼女も私に話しかける「私も文庫本を持ってきたんですけどこれも読んでいていいですか?」「うん、好きな事をしていて構わないよ。私のことは辻のお地蔵さんが後ろに立っているんだと思って気にしないで」やっと彼女に笑顔が戻ってきた。私は洗面所から白いバスタオルを持ってきた。二つ折りにしてテーブルの手前に敷き膝立ちをして鉛筆を取る。この目線で描きたいと思ったからだ。戸外でスケッチをする時も目線で苦労する事がある。樹に登りたくなったり、砂利道で腹ばいになりたくなることもある。長時間は膝が痛くなるかもしれないが目線優先だ。
鉛筆を握りスケッチブックに線を走らせる。濃い鉛筆に変えて描き足す。消しゴムで描いた線を消す。また鉛筆でなぞる。クレパスを斜めに持って軽く擦りつける。指で線を擦る。15分もするとソファにもたれるみゆきが現れるが、どうもバランスが悪い。こういうのをデッサンが狂っていると言うのだろうか。出来るだけ写実的に、という訳でもないので気にしないでスケッチブックを裏返してまた描き出す。
彼女はパラパラとパンフレットをめくっている。よかった、お互いに変に意識しない雰囲気になってきたようだ。「みゆきさん、疲れたら姿勢を変えても構わないよ。本を読んでもいいし」「はい、でも本やパンフレットを近くに置いたら描くのに邪魔じゃないんですか?」色々と考えてくれているようだ。「写真を取るのと違うから、目に映ったものでも頭の中で不要だと思えば描かないし、必要だと思えば描き足すこともあるよ。大丈夫、気にならないよ」
本当はこんな時には楽しくなる話でもできればいいんだろうが頭の中でイメージを組み立てるのに精一杯で気の利いたジョークも思いつかない。
また鉛筆を走らせる。今度は少しモチーフを大きく描いて見る。描いたり、消したり、擦ったりを繰り返すと別のみゆきが現れる。
私は新しいおもちゃを与えられた小猫のように楽しくて仕方ない。部分的なものを含めて数点を描いた。気がつくと描き出してから1時間を超えている。
「みゆきさん、疲れたんじゃないかな?終わりにしよう。私は目も頭も右手も疲れた。少しはそれらしいものが描けたから、あとは家に帰ってから手直しをしてみるよ。大丈夫、おかげですごくいいイメージが残ったから、もうみゆきさんを見ないでも続きが描けそうな気がしてきたよ。本当にありがとう」そう言ってスケッチブックを閉じると「私はそんなに疲れませんでした。実を言うと途中で目を閉じていたら、なぜかとても穏やかな気分になって夢の中にいるような気持ちになりました」そう言ってバスローブを羽織るとそのまま近づいてきて私に抱きついた。