冷たい肌 「5」
冷たい肌 「5」
翌日から2週間後の闘いの準備を始めた。これは私自身との闘いだと思う。
一番簡単なところから順に手をつけることにした。仕事の合間に車で行きつけの画材屋へ立ち寄る。スケッチブックは使い慣れた小ぶりなものをそのまま持っていくつもりだが、2B、4Bの鉛筆を買い足す。黒と濃いグレーのソフトパステルも買った。木炭より使いやすい場合もある。これで十分だろう。
夜に帰宅するとパソコンでホテルを探す。最近は部屋を昼間、個人使用でも時間貸しするシティホテルがあるので便利だ。若者向けなのか、いかにもの様相を呈したホテルはとてもじゃないがみゆきさんを連れて入る訳にはいかない。T区のEホテルが良さそうだ。あとでみゆきさんに都合のよい時間帯を聞いてみよう。
食後にスケッチブックを広げ鉛筆でデッサンを始める。今さらデッサンを始めても急に思い通りに描けるわけではないのだが、もっと勉強しておけばよかったと少し後悔する。元々、私は写実的な絵は描かない、いや描けないと思う。頭の中で湧き上がったイメージを大事にしている。風景を描けばねじ曲がってしまう事もあるし、人物でも腕の長さが左右違っていたり顔が紫色になってもあまり気にならない。初めてモデルを前にして描かせてもらうのだが結局今までどおりに描くしかないだろう。無理にああしよう、こうしようと思うのをやめたところでずいぶん気が楽になった。時にはフンフンと鼻歌を歌いながら思いつくままに鉛筆を走らせることもある。バランスが狂っていたり、陰影がおかしい時もあるがそれがヒントになってキャンバスに向かいだすこともある。そんな感じで臨むことにした。
当日の交通手段はどうしよう。たまには車で迎えに行くか。うかつなことに彼女がどこに住んでいるか聞いていなかった。東京の西部のようなことは聞いた気がするが、まあ遠方ではないだろう。マイカーの国産の古いハッチバックで行くか、カーマニアの親友Rから英国のスポーツカー、ロータスエリーゼを借りて迎えに行こうかと考える。二人で乗るならさほど窮屈ではないし、、、娘が中学生の時に借り出した記憶が甦る。娘と近所をドライブした時、娘が「お父さん、この車 敷居が高いから降りる時パンツ見えちゃう」仕方なく降りるのに娘の腕をつかみ引きずり出した事を思い出した。ダメだ、彼女を乗せられない。まさかスカートで来ないでくれ、と頼むわけにもいかない。
結局、都内の移動は電車が便利だし、場合によってはアルコールを飲むこともあるかもしれない。やはり電車を利用するのが一番だ。
着ていく服はどうしよう、愛用のチノパンは裾とポケットが擦り切れ始まっている、ジャケットも冬の間は何年も着続けているものだ。一揃いあつらえるか。いや、今頃になって恰好をつけようとしても無駄なことだろう。だいいち彼女が外見で人を判断するようであれば最初の出会いからしてなかった事になる。結局、普段通りか。
とりあえずN駅近くのEホテルでどうか、そして都合の良い時間をメールで聞いてみる。返事はすぐにきて前と同じ10時で構わないという。彼女はせっかくの休日に早起きしないのは損をしたような気がする、と言う。なるほど、私と同じだと思った。
私はメトロのN駅、彼女はA駅からホテルが目の前だ。地下鉄駅通路は複雑につながっていて、出口がたくさんあるので待ち合わせが難しい。Eホテルのロビーで待ち合わせることになった。
結局、あれこれ思いめぐらせ、私がしたことと言えば鉛筆を2本買ったことと、ホテルの予約をしただけだった。楽しいのだか、苦しいのだか分からないうちに2週間が過ぎていった。
2月最後の日曜日、私は約束の時間より少しだけ早くEホテルに到着した。1階のコンビニで大きめのペットボトルを買ってエスカレーターで3階のロビーに上がる。見回すと大きなゴムの樹の鉢植えの横に立つ彼女を見つけた。キャメルカラーのレザーコートに黒いハイヒール姿でたたずんでいる。彼女も私に気付いたようで、私は近寄って「みゆきさん、おはよう。今日は風が冷たいね。朝からありがとう」緊張気味の私は自分でも何を言っているのかよく分からない。彼女も少し緊張した様子で「おはようございます、よろしくお願いします。佐野さんが持っているのは飲み物ですか、私もお部屋で飲もうと思ってコンビニでお茶を買ってきちゃいました」少しだけ微笑む。「部屋は予約してあるから、良ければチェックインしてくるけどいいかな」と聞くと「私も一緒に行きます、良ければそのままお部屋に行きましょ」覚悟を決めているようだ。私だけがオドオドしているようでぶざまだ。がんばれ自分!少し胸を張ってフロントでクレジットカードを差し出す。「佐野様ですね、12**号室でございます。ごゆっくりどうぞ。御部屋は…」あとはどこのホテルでも同じような案内だろうからうわのそらで聞いている。クレジットカードと部屋のカードキーを受け取ってエレベーターホールに向かう。彼女もゆっくりとついてくる。12階のボタンを押し乗り込んで二人きりになると短い時間の間に考える。いつものように花一輪を描くつもりで、遠くの山々と近くの草原を描くのと同じようなつもりになればいつものように描ける!いつもどおりの自分になろう。そう考えた。