冷たい肌 「4」
冷たい肌 「4」
飲み物と料理が運ばれてきたのを良い潮時とみて作品をバッグに戻す。なんだ、パエリアというのは以前にファミレスで食べた事があるぞ、スパークリングワインもフランス産の物と変わらない。スペイン料理なんてたじろぐ程ではなかったと思った。カヴァをグラスに注いで乾杯をする。「佐野さんの入選に乾杯です。入場料もタクシー代も払っていただいてしまったので、ここは絶対に私がお支払いしますよ」と、私をにらむ真似をする。食事をしながらの会話は結局今日の企画展の作品のことばかりだった。しかし、鑑賞のあとにこんなに楽しい話をしながら食事ができるなら毎回彼女を連れまわして美術館に行きたいとさえ思ってしまった。
食後にカモミールティーという香りのよいお茶を飲みながら「私はパスキンの少女を描いた作品が一番印象深かった。震えるような輪郭線で不思議な色合いの白い服を身につけている、、、みゆきさんは何か気にいった作品があったかな」尋ねると「私は素敵な作品ばかりで迷ってしまうけど、モディリアーニの裸婦にドキドキしました。褐色の肌に一色に塗られた瞳がかえってリアルで何かを訴えているように感じました」
「私も大好きです。みゆきさんのようなチャーミングな人をモデルにして私も裸婦を描いてみたいな」と言うと彼女は口を一文字に結んでうつむいてしまった。私は、しまった 辛口のワインのうまさに飲みすぎてしまい酔いが回ったか。半分ジョークのつもりだったが完全にスベってしまった。どう取り繕うかと考えていると、彼女は顔を上げ「佐野さん、私はどんどんおばさんになってしまいます。今の私でよければヌードでも構いません。どんなポーズでも良いです。描いてください」真剣な顔で私を見つめる。
彼女に頭の中をグルグルかき回されるのは何度目だろうか。今度は私が口を一文字に結ぶ番だ。ゆっくりと考えて「みゆきさん、ありがとう。描かせてもらいたいのは本心です。一度も裸婦なんてテーマで描いたことはない。描きたいと思うのはうそではありません。でも私には思い通りにあなたを表現する画力がない。そうなればお互いに納得できない結果が残るだけかも知れない」残念だが現実をを伝えるしかない。だが、彼女はひるまない。「佐野さん、私はまだ2度しか佐野さんとお話ししたことがありません。でも初めて会った時に同じ絵を見て同じ気持ちになったのはわかりました。私にだって人を見る目はあるつもりです。仮にほかの高名な画家さんに描かせて欲しいと言われてもお断りします。気持ちが通じると思う佐野さんだから描いてもらいたいんです」くいさがってひるまない。これだけ言われれば絵描き冥利につきない。迷った末に「わかりました。じゃあこうしましょう、今度、私がスケッチブックと鉛筆と木炭を持ってきます。みゆきさんをデッサンとして描かせてください。描きあがったら二人で見てみましょう。どちらも納得できるものになっていたらキャンバスに絵具で彩色してみます。それでどうでしょうか」こう提案するのが精いっぱいだった。「わかりました、無理を言ってすみません。あとはおまかせします」こわばった表情が少し緩んだように見える。その後話し合って、翌々週、2月最後の日曜日に待ち合わせて二人きりになれる場所で絵描きとモデルとして対峙することになった。
店を出る頃にはいつもの彼女に戻ったようで、私はホッとした。Y駅まで歩いて駅で別れる事にした。1キロたらずの道のりをもっともっと遠回りして歩きたい気分だ。歩き出すとすぐに彼女が「佐野さん、腕を組んでもいいですか」私の左腕に右腕をからませてくる。「これは光栄なことだけど、おかしな親子に見られるんじゃないかな」照れ隠しにいうと「いいえ絶対に仲の良い恋人か夫婦に見えると思いますよ」右腕に力を込めてさらに私を引き寄せる。彼女の胸の感触が腕に伝わってくるようで高校生の頃のデートを思いだす。実際には二人とも厚手の上着を着ているのでそんな事はありえないはずだが、大きく息を吸って見上げると街路樹の白木蓮がつぼみをつけ始めている。どうも私は彼女の手のひらの上で踊らされているようだ。このまま踊らされ続けるのも悪くないなと思う。
駅に着き彼女はJRで、私はメトロでと改札口で別れる。「みゆきさん、今日はごちそうさまでした。楽しかった。次の約束まで2週間あるからよく考えて、気が変わったらいつでもメールを送ってくれればいい」小さく首を横に振って「いいえ、大丈夫です。今日の事、忘れません。連絡待っていますね」微笑んでまた小さく手を振って改札口へ消えていく。
帰りの電車の中で私は考えた。これが成り行きと弾みというものなのか。なにやら色々な事案を次々と処理していかなければならなくなった。しばらくは仕事より優先して考えなければいけないようだ。楽しみと苦しみが背中合わせで私の中に生まれた。