都会に暮らすチャーミングな女性 真面目だが要領の悪い中年男性
冷たい肌 「1」
私がみゆきと出会ったのは街がクリスマスイルミネーションに包まれた12月なかばの穏やかな日差しの日曜日であった。私は都内のS区の小さな美術館に日本人女流画家の作品展を観に出かけた。館内で油彩画を観てまわるうちに一人の女性が私と前後しながら歩くのに気づいた。さして気にも留めず作品を観ながら足を進めるが、興味深い作品の前では数分間から10分以上も立ち尽くすのが私のいつものパターンである。そんな時にこの浅葱色のコートをきた女性が横に並ぶのだ。どちらが先にそこにたたずんでいるのかは分らない。同じ作品に複数の人々が見入るのはさして珍しいことではないが閑散とした館内でよく出くわすのはあまり多い事ではない。1時間ほどして出口に向かいミュージアムショップでポストカードを手にする浅葱色の女性が目に付いた。手にするのは、私も一番興味深かった夕暮れの海岸に立つ一人の女性が描かれた作品のカードだった。
彼女も振り向き私に気づいたようで、ほとんど同時に「あのー…」と声を出していた、小柄な彼女は右の頬にえくぼを浮かべながら微笑んだ。「どうも同じ作品に興味があったようで、何度か同じ場所でたたずみましたね」と私が言うと「ええ、私も気づきました 同じような感性の方もいらっしゃるな。と思いました。やはり絵画がお好きなんですね」と嬉しそうに返事を返す。
「はい、油彩画が中心なんですが、しろうとの好きが高じてヘタな絵を少し描いています」と言うと「まぁ、あのよろしければ少しお話を伺えないでしょうか」思わぬなりゆきに私は少しどぎまぎしながらも「たいしたことはお話しできませんが よろしければここを出てお茶でも飲みながら、いかがでしょうか」と尋ねるとにっこりと頷くので「じゃ、ロッカーのジャケットとバッグを取って来ますので少しお待ちいただけますか」
「はい、私はここで買い物をしていますので、」と話がまとまりロッカーに向かいながら、私はどうしたことだろう 普段なら美術館で女性に話しかけるなんてことはしないのにと自問しながらも30代半ばと思える女性と初老の私が成り行きとは言え、お茶を飲むなんてまるでデートじゃないかなどと思いつつ駅に向かう下り坂の途中に小さなカフェがあるのを思い出していた。ジャケットをはおりバッグを手にショップへ戻ると何枚かカードを買ったようで小さな紙袋を手にした彼女が本当にそこにいた。頭の中がグルグルしている私は「お待たせしました。駅に向かう途中にカフェがあったと思いますが、そこでよろしいでしょうか」私が尋ねると、また笑窪を浮かべながら頷く彼女。
私は、落ち着け!何もナンパする訳じゃない。ただ絵の話をしたいだけだ。彼女だっておかしな気持ちでいる訳があるはずないだろう。自分に言い聞かせながら外に出ると彼女は黙ったままついて来る。5分と歩かずに目指す店の前に着き白い扉を開けると店内には誰も客はいないようである。窓際の明るい席につくと私はコーヒーを、彼女はジャスミンティーを注文した。私は思い切ってオズオズと切り出した。「初めてお会いして失礼じゃないかと心配したんですが同じ作品に興味を持たれると言うことで思い切りました。私は佐野 洋と言います。サノは佐野元春のサノ、ヒロシは太平洋の洋と書いてヒロシとよみます。小さな会社を経営していますが休日はこうして美術館を廻ったり、ヘタな油彩画を描いたりしています。本当にご迷惑じゃなかったでしょうか」と話し出すと「私はみゆきと言います。私のほうからお声をかけさせていただいたようなものですから、佐野さんこそご迷惑ではないでしょうか。私は絵も描けませんし、難しいことは何もわかりません。ただ同じ絵に興味を持たれる方ってどんな方かな、と思ったもので」と話し出した。それから1時間程の会話はすべて絵にまつわる事ばかりだった。久しぶりに女性と共通の趣味に関しての1時間の話はとても短く感じられた。そろそろいとまを告げる時と感じたが、私は「1月にN区主催の絵画展が開催されるんですが私も2点ほど出展しました。もしよろしければご覧になりますか、N区の区民ホールで1月半ばだったと思います。でも日時の記憶が今ははっきりしないなぁ」と言うと彼女はペンを取り出し、店のペーパーナプキンに何か書きながら「ぜひ、見せていただきたいと思います。ご面倒でも後程この携帯のアドレスに日程をお送りください。区民ホールは存じておりますし、自宅からわりと近いので必ず伺います」
私は「はい、必ずお送りします。時間があったらで結構です。どうせたいした出来栄えではありませんから」丁寧にナプキンをたたんで財布にしまう様子をおかしそうに見ながら彼女は「そんなに大事になさらなくても、私なんてセンスのない、ただの野次馬かもしれませんよ」と微笑んだ。
彼女は近くに友人の勤めている店があるので寄っていくと言い、カフェの前で小さく手をふって私に背を向けると歩き出した。坂道を下って行く浅葱色のコートは少しづつ小さくなり、すぐに雑踏に紛れ込んでいった。
私はと言えば夢でも見ていたような気分でしばらくカフェの前に立ち尽くしていた。何故か浮いた気持ちでしゃべりすぎたようだな、まさか恋が始まるわけでもないのに饒舌になりすぎたのはなぜだろう。久しぶりに絵画の話をして、しかも興味深そうに聞き入ってくれるのが嬉しくてから騒ぎをしたような気がする。たった今の出来事を反芻しながら私は家路を急いだ。