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「武内、和文じゃないか?」
もうすぐ春がやって来る季節。夢でしかあり得ないと思っていた幸せに首までどっぷり浸かっている毎日。
──時折頭を掠めるのは、サツキのことだった。
あんな別れかたをしてしまい結果それがきっかけで僕は今の生活を手に入れた。
サツキは今も傷ついたままでいるのだろうか。そうかもしれないと思いながら謝るためでさえ会うことは許されないような気がして、ずるずると日々を過ごしている。
最後に見たサツキの顔が忘れられず、いつもいつも悲しい声が頭から離れないでいたある日、職員室に続く廊下で声をかけられた。
「えっ、と……」
歳は四十代半ばか。すらりと高い身長に日焼けした顔。頭には白いものが混じっているけれど、その全開の笑顔には見覚えがあった。
「あ、れ。もしかして中村先生ですか?」
「おー! 覚えてたなー。久しぶりだな、元気だったか?」
六年の担任の中村先生だった。
あの頃はとてつもなく大きな人だと思っていたけれど、自分も大きくなったからかそこまでとは思わなくなっていた。それでも全身から溢れるような明るい笑顔は、僕を部屋から連れ出してくれたときとひとつも変わらない。
「はい、元気です! 先生も全然お変わりなくて……」
「いやー、年取ったよ。そうか、武内も教師になったんだもんな。立派になったな」
「……いえ、全然駄目です。最近も自分の思い通りにならないからって、昔の生徒を傷つけてしまって……。先生失格です」
中村先生の前で、僕は子供だ。
先生に憧れて、あんな風に生徒の心に寄り添える教師になりたいと思っていたのに。
「謝っちゃえばいいよ」
「……謝っても許されないこともありますよね。僕がしたことはそういう種類のことだと思うんです」
「うん、そうかもしれない。だけど僕らは子供たちに『いけないことをしたらちゃんとごめんなさいって言おう』って教えるだろ? 大人になっても同じだよ。中にはそれを許されたいと思う自己満足だって言うやつもいるかもしれない。だけど許してほしいとかじゃなくて、悪いことしたらごめんなさいなんだよ。それは、人と人が付き合っていく上で、最低の約束だ。でも、忘れてしまったらだめだ。してしまったことはいつまでもその人の心に残らなくちゃいけない。じゃないと繰り返してしまうからね」
中村先生はあの頃と変わらない優しい笑顔で話す。十二才の僕は、どれだけこの笑顔に救われたかわからない。
おおらかで明るくて、みんな中村先生が好きだった。少しクラスに馴染めずにいたときも、遊びや勉強を通してさりげなく溶け込ませてくれた。この人がいたから僕は、今の道を選んだ。僕の行く道の少し先に小さな灯りをともし続けてくれていた。
「……はい」
「それに、謝罪を受けることでその人の痛みが和らぐかもしれない。武内の誠心誠意が伝われば、またいい関係に戻れるかもしれないよ」
「……中村先生は、やっぱり僕の憧れです。僕は中村先生みたいになりたくて教師になりました。そのときの気持ちを忘れちゃうところでした。……謝ってきます。心を込めて」
「うん、そうだな。それがいい。……しかし、俺に憧れて、か。照れるなー」
赤くなった顔を明後日の方に向け中村先生は頭をかいた。
「俺だってあの頃は駆け出しで失敗ばっかでさ。武内のことだってあれでよかったのか、もっといい方法があったんじゃないかって、ずっと思ってたよ。俺もお前が思うみたいに目標にしてる人がいて、その人ならどうするだろうって考えたりしてさ」
先生は背けた顔をこちらに向け、あの頃と同じ顔で笑った。
「だけどお前に今、俺を見て教師を目指そうと思ったって聞いて嬉しかった。それとな」
日焼けした笑顔をさらに深めて先生は言った。
「もっと嬉しかったのはお前が幸せそうにしてること。しっかり自分の人生を生きてるんだな。小鳥遊に褒めてもらえそうじゃないか」
「……そうでしょうか」
喉の奥がジンとした。寄せた眉で先生には僕の気持ちがわかってしまっただろうか。
「ああ、俺にはそう見えるよ。胸はって生きろ!」
バシンと僕の背中を大きな手のひらが叩いた。小気味いい音が廊下に響く。
「はい、がんばります」
僕はそう答えるのが精一杯で、両手で目と額を押さえて涙をこらえた。
そして先生は『ヤバ、俺、研修で来たんだった!』と廊下を走っていった。こともあろうにすれ違った一年生に『ろうかははしっちゃだめですよ!』と怒られていた。
先生の背中は、あの、僕を部屋から連れ出してくれた日のままだ。憧れと尊敬と、とてつもない安心と。
僕も負けずに続かなければ。目標に向かって歩かなければ。
──たとえその目標が、一年生女子に烈火のごとく怒られていたとしても。
会議に遅れると気の毒だから、間に入ってあげよう、僕はずいぶんと軽くなった足取りでふたりのところに近寄っていった。
数日後。僕は紗月に電話をして呼び出した。待ち合わせの場所に来た紗月は気まずいような顔をしていたけれど、僕が開口一番謝ると、笑ってくれた。ぎこちない微笑みではあったけれど、僕の謝罪を受けてくれた。
僕は、本当はそうするべきだとわかっていたけれど、あまりに紗月の気持ちを無視するような行動の理由を話すことはできなかった。ただ一方的に気持ちを押し付けるような行動を詫びることしか出来なかった。
紗月はしばらく考えるような顔をしていたが、そのうち力が抜けたように笑って「もう、気にしてません」と言ってくれた。
僕たちはしばらく、お互いの近況を話した。紗月はスポーツドクターを目指して医学部の進学を決めていた。春からは大学生だ。
紗月の未来がひとつも曇りなく、輝いていることを心から祈った。 たぶん、そんなにうまいことは行かない。つまずいたり悩んだり、迷ったりすることばかりだろう。
それでも祈らずにはいられなかった。どうかこの子の夢が叶いますようにと。つまずいたときも、誰かが手を差しのべてくれますようにと。
たくさんたくさん、愛されますようにと。
別れ際、紗月が少し神妙な顔で僕に問いかけた。
「先生は、今、幸せ?」
紗月の問いかけは、僕の胸にストンと落ちて身体中に暖かいものが駆け巡った。
うん。泣きたくなるほど幸せだよ。
何度も何度も諦めたけど、今は違う。
貪欲になんでもない日々を求めていきたいんだ。
喉の奥に熱い塊が詰まって声が出なかったから、僕は頭をたてに振ることで彼の質問に答えた。
──何年もの間、僕を幸せにしてくれたのは、君だよ。本当にありがとう。そんな気持ちをくれたのも君だ。
言えなかった気持ちが、僕の回りを包む。世界のすべてが輝いて見えた。
「和文さん!」
「言ってきたよ、寿」
間違いなく、前に好きだった人に会いに行ったわけで、それを決めたときはもちろん寿にも報告した。
寿は一緒に来ると言った。二人が会う近くで待っていると。
ずいぶん信用されていないんだな、と僕はふてくされた。
当然、表に出すことはない。ただ心のなかで少し面白くないと思っただけだ。
だけど、寿は僕の顔を見るなりこう言ったんだ。
「意外と大丈夫そう?」
「え、何が?」
「うーん、だって、仮にも長い間大好きだった人でしょう? 完全決別宣言しに行ったようなものじゃん。それって、すごく悲しいことでしょう?」
──寿ってそういうやつだった。僕よりずっと年下のくせにずっと大人だ。いつも僕をすっぽり包んで安らぎをくれる。
いつかは僕だって寿を包んであげられるような男になれるんだろうか。
「幸せだって、のろけてきたよ」
「……は?」
「世界一幸せだって、自慢してきた。寿がいてくれるからだよ」
寿がたちまち顔を赤くして目をそらしたから、その腕にするりと僕の腕を絡ませた。
「寿のことも、僕が幸せにするよ。ずっと」
「ううーーー! そんなの、俺だって!」
ふざけるように、じゃれるように。端から見たら、日の高いうちから酔っぱらいがなにやってんだくらいのものだろう。
でも今、僕らは神聖な誓いをたてた。幸せなんて、曖昧でとらえどころのないものでお前を縛るよ。
いつか、今の僕らを「あの頃の僕らって──」なんて二人で懐かしく笑える日が来るまで。
そして「幸せだったよ、ありがとう」って、最期の挨拶をする日まで───。
明日もこの時間にお邪魔します♪