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あの頃の僕は  作者: うえのきくの
6/12



 

───目が覚めると見慣れぬ天井があった。

 薄いクリーム色のカーテンに仕切られたベッド一台分のスペースにここが病院だとわかる。カーテンの外は明かりが落とされて暗いが、僕の頭の上はライトが灯されていた。それで、もう夜だということを理解する。

 体制を変えようと身じろぐと、腕が点滴に繋がれていた。

 どのくらい眠っていたのだろう。ここ数日感じられなかったほど意識が冴えている。

 上半身を起こそうと体をねじると、ガバッと音がして布団の影から人が顔を出した。

「──タモツ?」

 真っ青な顔をして起き上がってきたのはタモツだった。

「和文さん、起きたの?! 気分は? 痛いとこない? 吐き気は?」

 どうして彼がここに、そう考える間もなくタモツは矢継ぎ早に質問をした。急なことに答えられないでいるとタモツは片膝をベッドの上に乗り上げて僕をしっかり抱き締めた。

「ごめん、ごめんなさい……」

「なんでタモツが謝るの?」

「だって、だって俺が……もっと早く……」

 荒い呼吸をする胸は泣いているみたいに思えた。

「和文さんちの近くを通りかかったらこの間の彼がマンションから飛び出してきて、ただ事じゃない感じだったから部屋にいってみたんだ。そしたら和文さんが倒れてて俺、ビックリして……」

「タモツが助けてくれたのか。ありがとうな」

「彼と、ケンカでもしたの?」

 やわやわとタモツの手のひらが僕の背中をいたわるように撫でてくれる。それに誘われるように自分の失敗を打ち明けていた。

「……振られたんだ、彼に。だけど諦めきれなくて強引なことして彼を傷つけた。僕がしたことは通報されても仕方ないくらいのことだ。もう絶対許してなんてもらえない……」


 顔に当たっているタモツのシャツがしっとりと濡れて、僕は自分が泣いていることを知る。涙は次々溢れてタモツの肩を遠慮なく濡らした。

「ね、和文さん。俺ね和文さんのこと好きだよ」

「僕は……」

「よく考えてみてよ。和文さん、誰かの前で愚痴ったり、泣いたりできる? それを許してくれるくらいには俺のこと好きでしょ?」

……そうなんだろうか。確かに僕はもう何年も、それこそ子供の頃からこっち人前で泣いたことなんかない。ましてや振られたなんてみっともない話出来るわけがない。

 すっかりタモツに甘えてしまっている。それは心を許して好きになっているということなんだろうか。

「タモツ、わからないよ。僕はタモツのことが好きなの?」

「……好きになってよ。俺ずっと待ってるから。ずっと側にいて和文さんがこっち見てくれるまで待ってるから」

「タモツ……」


 さっきまで空っぽだった心が温かいもので満たされてゆく。タモツがくれる優しい思いが僕を包む。

 僕はこのまま、タモツと生きていけるのかな。今までお互いのことなにも知らなかったけどひとつづつ積み重ねて歩いていけるのかな?

 急に彼がとてつもなくいとおしく思えて、僕はおそるおそる聞いた。

「ねえタモツ、教えて。僕はタモツのことなにも知らないよ。きみは何て言う名前で、何をしてる人なの? タモツのこと全部教えて? 知りたいんだ」

「うん、そうだね。俺も話さなきゃいけないことがたくさんあるんだ。俺の名前はね小鳥が遊ぶにコトブキって書いて小鳥遊寿(タカナシタモツ)。二十一歳で大学生。よろしくね、和文さん。まだいろいろあるんだけど、お医者さんに意識が戻ったら教えるように言われてるから呼んでくる。すぐ戻るからちょっと待っててね」


 僕は待てなかった。小鳥遊寿がカーテンの向こうに消えるとすぐ、腕に刺さっていた点滴の針を慎重に抜いた。近くにあったタオルで吹き出した血を圧迫して押さえる。

 一刻も早くここを逃げ出さなければ。後ろのポケットに入っていた財布から紙幣をあるだけサイドテーブルに置き、そっと病院を抜け出した。

 通りに出てタクシーに滑り込む頃には腕の出血も止まり、僕はシートに崩れてしまった。


 小鳥遊───それは、篤生の姓だ。珍しい名前ではあるが日本にはなん十世帯かはあるだろう。しかし僕らが育った町には親戚もいないから自分のうちしかない、と篤生が言っていた。そんな名前の知り合いが一生のうち何度もできる偶然。そして二十一歳という年齢……彼は、彼は── 


 僕はビジネスホテルに部屋を取り、丸くなって眠った。

 なんということをしてしまったんだろう。

 僕は、篤生の弟と、寝てしまった。僕は



 翌日には引っ越し業者に連絡をして荷物を運び出した。訳ありだと言えば夜中に素早く作業を済ませてくれた。元々実家が近いので荷物は少ない。あっという間に終わってしまった引っ越し作業に拍子抜けしてしまった。

 知られているのは住所だけだ。朝にはモバイルの番号もアドレスも変更した。

 このままこちらから連絡をしなければ二度と会うことはないだろう。きっと、彼もすぐに僕を忘れる。

 タモツが僕を好きだといった気持ちに嘘はないだろう。でも彼は若い。すぐに、新しい出会いが来る。そしてきっと恋をする。

 僕なんかとは、違う。



 新学期が始まった。この、どうしようもない気持ちはとりあえずどこかに置いておかなければ低学年児童など相手にはできない。心だけバッサリと切り離し、ロッカーのなかに押し込める。

 子供たちの夏休みの冒険に笑い、宿題を褒め、工作に驚く。まるで、機械で動くロボットみたいだ。感情などとっくに機能を止めている。

 果てしなく長い一日が終わった。山と積まれた事務処理を片付けると、外はもう夕焼けの時間だった。いつかの空みたいなグラデーションが僕を包むけど、それを綺麗だと思えるシステムも錆び付いてしまっている。

 ただひたすら足を動かし、部屋の鍵を閉め眠ってしまいたいんだ。そこはきっとここより優しい。


「和文さん」

「……なんで?」

 校門を出たところにタモツが立っていた。僕より高い目線から力強く見下ろしてくる。

 なにか言おうにも喉が凍りついて声もでない。

 たまらず僕は部屋とは反対方向に駆け出した。不意をつかれたタモツがそれでも追いかけて来る。なにかスポーツでもしているのだろうかものの見事に捕まった。

「和文さん! 逃げないで、お願いだから」

「いっ……嫌だ! もうお前とは会わない、好きになんかならない!」

「……和文さん、ごめん。話すのが遅くなって、ごめん」

 タモツは僕の肘を外側からつかんだ。強い力なのに、その手は震えていた。

「隠してたことみんな話すから、お願い、聞いて」


 タモツの部屋に来てしまった。コーヒーがテーブルの上でゆるりと湯気をあげているのをじっと見ている。タモツが話を切り出すのを、待っていた。


「……あのね、最初に和文さんに声かけたとき、俺、和文さんが誰なのか知ってたんだ。ううん、その前から、ずっと前から和文さんのこと知ってた」

「え?」

「父さんが和文さんのこと、いつも心配しててね。俺が大学進学でこっちに来るって決まって和文さんの様子教えてくれって言われたんだ。和文さんには内緒で」

 僕はタモツの顔を、例えばあごのラインや髪の質を見ながら聞いていた。やっぱりあまり似ていない。耳も指も何もかも。

「初めて和文さんの名前を父さんから聞いたのは五年生にあがる頃でね。僕にはお兄ちゃんがいて火事で亡くなったんだって。それまでは仲良しの和文くんと毎日遊んでたって。兄ちゃんの写真はみんな和文さんちからいただいたものだから、兄ちゃんの隣にはいつも和文さんがいてね。いつからか、憧れてた」

 タモツはコーヒーを一口飲んで、ふうっと息を吐いた。僕は手の中のマグを両手で握ってただうつむいていた。

「和文さんは家事のあと、小鳥遊家がどうなったか、知ってる?」

 僕は首を横に振る。あの頃の僕はただでさえ引きこもっていて、家族での会話もなかったし、そんな僕を気遣ってか両親も篤生の家の話なんて今に至るまで一度もしていない。

「父さんは小さい赤ちゃんを残されて、一人ではどうすることもできなかった。和文さんの家で仕事の時は面倒見るって言ってくれたんだそうだけど、そういうわけにもいかないからって、仕事を辞めて長野の実家に帰ったんだ。お母さんと兄ちゃんの遺骨と一緒に」

 そうだったのか。ちっとも知らなかった。おじさんは仕事が忙しいひとで僕はあれだけ小鳥遊家に入り浸りながらあまり会ったことはなかった。 

 自分だって妻と息子を亡くして、生活も一変するような大変な思いをしながら僕を心配していてくれたことに、今更ながら感謝の気持ちが溢れてくる。

「赤ちゃんは病気しながらもすくすく育ってね、保育園に入れるまでになった。そこで俺と出会ったんだ」

「……え?」

「小鳥遊家と同じでうちも片親だった。俺んちは母子家庭で離婚だったけど。送り迎えや行事で『仲良しの子の親同士』で顔を合わせるうちに親しくなって、再婚したってわけ。だから俺と兄ちゃんは血が繋がってないんだよ。和文さんが逃げ出したのはその事からでしょう?」

「じゃ……じゃあ……」

「和文さんが知ってるのは俺の弟。同じ歳で三ヶ月違いのね」

「赤ちゃん、て呼んでたから、名前、覚えてなかった」

誠人(マコト)っていうんだよ。でもちょっと兄ちゃんに似てるから和文さんには会わせたくないなー」

 拗ねた振りをしたタモツを少し笑った。

「説明しようと思ってたのに和文さん、逃げちゃうし。電話も繋がんないし引っ越しちゃうし。心配したんだよ。点滴引っこ抜いていなくなっちゃうんだもん。大丈夫だった、あれから?」

 ここに来て初めてタモツが笑った。なんだろうその顔を見ているととても安心する。

「こっちに来て、最初に和文さんの実家に行ったんだ。そこで今の様子や仕事や住所とかも教えてもらったの。和文さんが倒れてたとき、俺が部屋まで知ってて変だと思わなかった? 俺、ストーカーだと思われたらどうしようかって思ってたんだよー?」

 言われてみればそうだった。とにかくタモツが篤生の弟だってことに動揺して、とにかく逃げなきゃってことで頭がいっぱいで、そんなこと考えもしなかった……

「父さんたちが引っ越してからのことも、そこで初めて聞いた」

 僕の母は篤生のお父さんに良いことだけを話して、僕が引きこもっていることは知らせていなかったのだ。元気になんの問題もなくやっていると思っていながら、それでも篤生のお父さんはぼくを気にかけてくれていた。

「学校のそばで、一目今の姿を見ようと思って待ってたんだ。そしたら大人になった和文さんが子供たちと笑いながら出てくるのが見えてさ……すぐにわかったよ。一目惚れだった。それから時々街で見かけたりしてた。ある日、和文さんがバーに入っていくのを見かけて、悪いと思ったんだけどついていった。そしたらなかで……男を誘ってた」

「うん……」

「俺が初めて声をかけた日のこと、覚えてる?」

「……あの日に限って誰も捕まんなくて、沈んでた」

「そう。今にも泣き出しそうな顔してた。消えちゃいそうなほど儚げだった」

 そんな風だったんだ。あの日は本当に寂しくて、悲しくて、どうにかなりそうだった。タモツが声をかけてくれて、すごく嬉しかったのを覚えている。

「あの夜にね、和文さんが兄ちゃんの名前読んだから、俺、長い間和文さんが抱えてた悲しみや苦しみがわかったよ。だから俺が、和文さんの安らげる場所になってあげたかったんだよ。自分が誰なのか、言えなくなっちゃったけどねー」

「ごめん……ごめんタモツ……。僕はお前に酷いことした」

「隠しごとしてた俺も悪いんだ、おあいこだよ」

 何度謝ってもたりないともうけれど、タモツが笑ってくれたからそれでいいんだと思うことにした。


 その夜、タモツが作ってくれたご飯を二人で食べかわりばんこにお風呂を使い、大きすぎるパジャマを借りて大人二人で眠るには小さすぎるベッドでくっついて、手を繋いで眠った。

 とてもとても穏やかで優しく、少し気恥ずかしい夜だった。



明日もよろしくお願いします♪

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