表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あの頃の僕は  作者: うえのきくの
5/12



 一年生にとって初めての行事が押し寄せてくるGW明け。

 遠足、授業参観、運動会……小さな体をフル回転させてそれぞれの行事を乗り越えていく。可愛らしくたくましく、見ているものを自然に笑顔にしてしまう。

 初めてのプール授業に肌を黒くした子供たちを夏休みが迎えた。

「せんせー、二学期にねー!」

「おー、朝顔枯らすなよー! 宿題は早めになー」

 はーい、と明るい声をあげて子供たちは校庭を駆け抜けていく。空はどこまでも青く、もう夏は始まっている。


 僕はといえば、あれからタモツには会っていない。

 自分でも意外だったけれどその事はかなり堪えていた。寂しいのか、人恋しいだけなのかはわからない。でも、いつだってたった数個のボタンを押すだけで僕を抱き締めてくれた温もりは、もうこの電話の向こうにはいない。

 最後にタモツが言った『嫉妬』という言葉。彼は僕のことを特別に思っていてくれたのだろうか。それともただ面白くなかっただけ?

 離れる前にそれに気がついていたとしても、僕には答えられない。だって僕の特別は……


 夏休みに入っても僕は同じところをぐるぐる回り、何も答えを見つけられないでいた。前にも後ろにも進めず、時々送るサツキへのメッセージが僕のすべてだった。数分後数時間後に送られてくる小さな出来事を綴った返事だけを拠り所にしていた僕は、この時もう壊れていたのかもしれない。

 ある夜、僕は初めての単語をサツキへのメッセージにして送った。 それまで散々、迷って言わなかった言葉をなんのためらいもなく指先で送り出した。

『会いたい。今すぐサツキに会いたいよ』

 手が届くはずの場所にいるサツキの姿さえ見ることができないから。これから新しい関係を築いていけると思っていたタモツから、手を振りほどかれてしまったから。

 何が理由なのか僕が悪かったのか、混乱した頭のままサツキにとって負担になるだろうと言わずにいた言葉。

 ベッドに倒れ目をつむった。自分の情けなさにこのまま眠ってしまおうとしていたそのとき着信を知らせるメロディがなった。メールじゃなく電話だ。ディスプレイにはサツキの名前。

 僕は慌てて飛び付いた。


『武内先生? サツキです。こんばんは』

「どうしたの? 電話くれるなんて嬉しいな」

 自分が今しがた、切羽詰まった言葉をぶつけてしまったことを十分にわかっているから、なるべく柔らかい話し方を心がけた。こっちが必死なことを悟られたくない。

 言葉を選ぶようなサツキが紡ぐ沈黙が部屋の空気を重くする。こんなことがあと少しでも続いたら押し潰されてしまうと息を詰めたとき、ためらいがちにサツキが声を出した。

『先生、あの……五年前の告白は有効じゃありませんでした。僕は、他に好きな人がいます。お返事遅くなってごめんなさい』

 頭の中が真っ白になった。

 何とか考え直してほしい。僕の気持ちをわかってほしい。僕の側にいてほしい。きみの側に、ただいたい。

 だけど、それが到底無理で、僕一人の願いだったことも痛いほどわかっている。

 五年前のあの日、彼の手を取らなかった僕が悪い。今さら何を言っても遅い。たとえ世間に疎まれようと蔑まれようと、犯罪者になり下がったとしても、あのたった一度のチャンスを逃してしまったときから二人の道は別れていたのだ。もう、交わることはない。

 それならば、大人であることを見せなくては。こんなこと、僕にとってなんでもないと思わせなくては。

 別の道を行く彼が、気をやまないように送り出さなくては。


 僕は努めて平静を装って、落ち着いた声をだした。

「そっか、先生こそごめんな。サツキのこと困らせてたんじゃないか?」

『いえ……嬉しかったんです。ちゃんと考えてくれてたって、わかったから。でも……ごめんなさい』

「うん、わかったよ。だけこれからもずっと、僕をサツキの先生でいさせてくれる?」

『当たり前じゃないですか! 先生はずっと大好きな先生です!』


 サツキの最後の声は歪んで聞こえた。きっと、涙をこらえてくれていたのだろう。嬉しいのに嬉しくない。

 電話を切っても僕は、立ち上がれないでいた。

 僕はどうすればよかったんだろう。あのとき確かに重なっていた気持ちはどこへ行ってしまったんだろう。

 どうすればサツキと生きていくことができたんだろう。



 夏休みにも出勤しなければいけない日は当然あったが、酷い夏風邪をひいたといって休んでしまった。失恋くらいで仕事をサボるなんて馬鹿みたいだと、頭ではわかっていても心が追い付かない。

 食事も喉を通らず、夜も眠れない。寝ても覚めても考えるのはサツキのことばかり。自分でもだんだん体力が落ちていくのを感じていた。

 部屋の中はじりじりと暑く、その中でひとり座り込んでいると思考は今と過去をふわふわとさ迷った。僕は子供で大人でどちらでもないもので、そんな僕を時々篤生が責めた。

『あんな子供を僕の代わりになんてするから、和文は傷つくんだよ。僕のところに来ればいいのに』

 篤生は、いつもそう言って僕を誘った。篤生は大人のようにも子供のようにも見えた。僕を遊びに誘うときは昔のように無邪気で優しい顔をしていた。

 タモツの幻影を見ることもあった。恐らく夢だろう、部屋のすみにたたずみ僕をじっと見ている。ベッドに誘うでも食事に出るでもなく、ただ少し悲しそうに僕を見ていた。

 どうしてそんな目をするんだろう。捨てられたのは僕の方なのに。 タモツは僕の話も聞かず一方的に離れることを選んだのだ。僕だってこんなことになるのなら、あのままずっといたかった。きっと、今こうして膝を抱える理由なんて話すことなんてできないけれど、きっとそれでも側にいてくれたはずだ。

 僕の心はオールをなくしたボートみたいにサツキと篤生、そしていつも無条件に僕を抱き締めてくれたタモツの腕の間をくるくるとさ迷っていた。

 そう想像している間はいい気分になれるが、ふと目が覚めたように自分の今いる場所が見えてしまう。結局どこにも僕の居場所なんかなく、どこに行ってもひとりだ。

 このまま誰にも愛されることなく生きていかなくてはならないのなら、いっそのこと篤生のところに行ってしまおうか。

 夏は汗と一緒に僕の正しい判断まで持ち去ってしまったのかもしれない。


 もうそろそろ夏休みも終わりの昼前、思い立って外へ出た。珍しくサツキの声もタモツのまぼろしも見えない朝だ。学校が始まるから新学期のモードに体が勝手になっているのかもしれない。

 何日ぶりだろう。眠っていない食事もとっていない僕には夏の日差しは眩しすぎてめまいがする。

 一瞬白い光に目がくらみ、眩しさに耐えこじ開ける僕の前に、小学生の篤生とサツキがいた。ふたりはそっくりだと思っていたが並べてみるとやっぱり違う。妙に冷静な頭でふたりの方へゆっくり歩いていく。

 ふたりは楽しげに話していたが僕に気がつくと振り返り手を差し出した。

「ねえ、今から校庭で遊ぼうって言ってたんだ。和文も一緒にいこうよ」

「先生ー、久しぶりにサッカーしようよ。僕、負けないよ?」

「……うん、行こう。一緒に遊ぼう」


 それから三人で手を繋ぎ、前の勤務先であった小学校へ向かった。ふたつの小さな手はしっとりと僕の手を握りしめ前に後ろにゆらゆら揺らした。あれほど不快だった暑さも、子供の頃の冒険三昧だった季節を思い出して心地よいくらいだ。

 不調だったからだも軽く、このままどこへでも歩いていけそうだ。

 目指す学校が見えてきて彼らは気持ちがはやるのか小走りになった。僕も軽く笑いながら駆けてゆく。笑う、なんていつぶりだろう。 まだ、笑えた。まだ。


 校門の前に立つとふたりは弾む息のまま額の汗を乱暴にぬぐった。そんなしぐさもあの頃のままで胸が苦しくなる。

 そして僕を見上げて笑うと言った。

「じゃあ、和文はここで待っててね」

「……え、なんで? 僕も一緒にっていったじゃない」

「でも先生、大人は入れないみたいだよ。篤生と少し蹴ってくるからここにいてね」

 僕が止めるのも聞かずふたりは校庭に走っていってしまった。僕は仕方なし緑のフェンスにもたれ掛かってふたりが楽しそうにボールを追いかけるのを見ていた。

 太陽はどんどん高くなり、日差しも強くなる。なんだか篤生もサツキも霞んで見える。

 僕が頼れるのは緑色の細いこのフェンスだけでそれにすがるようにだんだん見えなくなるふたりを見ていた。陽炎のようにゆらりとなびいて、気がついたらふたりは消えていた。

 校庭のどこを見てもふたりはいない。僕はひとり、おいていかれてしまった。帰ることもどこかに行くこともできず、僕はそのまま校庭を見ていた。

 視線の先に桜の木が見える。思えばあの桜は校舎を建て直す前からあの場所にあった。春になれば花が咲き、僕らを迎えてくれた。ずっとそこにいて僕らを見守ってくれていたんだ。

 僕は滑稽だろ? こんな大人になるなんて思っても見なかったよ。ねえ、君はこんな僕を笑っているの?       


「……せんせ…い……?」

 それが、自分を指し示す言葉だということにもなかなか気づけず、ぼんやりと声のした方向を見ると、そこにはサツキがいた。

「サツキ……」

 彼は、高校生くらいになっていて、さっきまでここにいたサツキの面影を残した青年に成長していた。僕をおいていってしまったのに戻ってきてくれたことが嬉しくて彼に向かって微笑んだ。

 僕はサツキの方へ歩いていこうとした。それで今度は一緒につれていってもらうんだ。そこには篤生もいるんだろう? 

 それなのに体はなぜか言うことを聞いてくれず、膝はカクリと折れ僕を地面に沈めていく。

 とっさにサツキが僕を支えてくれて、いつからここにいたのかとか救急車を呼ぶとか言うのだけれど、僕はなんだかもう、ゆっくり休みたかったんだ。

 サツキが戻ってきてくれたのだからもう何も要らない。お願いだから家に返して。

 僕はうわ言のように繰り返してサツキに部屋まで送ってもらった。鍵を渡して部屋に入ると、締め切った窓と開け放したカーテンのせいで部屋は蒸し風呂のようだった。僕はあまりよくわからなかったけれど、サツキが顔をしかめたので、不愉快な室内なのだろうと悟る。  

 サツキは僕をソファに横たえると、手早く衣類を緩めてくれた。そしてキッチンから水を持ってきてくれる。手を支えられコップを持ち冷たい水が喉を落ちていくと、ぼんやりしていた意識がはっきりしたのがわかった。

 サツキが「少し窓を開けましょう」と立ち上がる。

 その意味はわかった。彼は締め切った部屋に空気を入れようとしただけだ。わかっているのに彼が僕に背を向け歩き出そうとしたとき、いいようのない恐怖が背中を走った。

 サツキが今度こそ遠くに行ってしまう。誰か、僕の知らない人を好きになって、知らない大人になってしまう。

 僕をおいて───


 無我夢中だった。勢いをつけて半身を起こし、背中を向けているサツキの腕を思いきり引いた。自分の横に彼を沈めるとそのままその腰にまたがった。

 サツキは何が起こったのかわからない表情で僕を見た。少し怯えたような瞳は初めて見る。そうだ、いつもサツキは僕を信頼の眼差しで見てくれていた。その気持ちに答えたいといつだって僕は思っていたのに。

 ゆっくりと体を倒していく。頭がふわふわと気持ちがいい。

 もう少しで唇に届きそうだと思ったところで、サツキが両手を突っ張らせた。

「せ、先生。やだ……」

 蚊の鳴くような声が聞こえて、自分は拒絶されたのだと知った。

 もうどんな手を尽くしてもサツキのとなりを歩けない。その心は誰かのものになって、いつか僕を忘れていく。

 愛している人に忘れられるなんて、死んでいるのと同じだ。

 僕はずっと篤生を忘れなかった。会いたくて、もう二度と会えなくても、忘れることなんてできなかった。そうして忘れないでいればその人は心の中で生き続ける。ずっと、ずっと、大切なままで側にいてくれる。


 僕はサツキの手首を頭上でひとまとめにした。彼は体をよじって抵抗したが、体格はまだ僕の方がいい。それくらいでは振り落とされたりしない。

「サツキ……」

 食い縛っている唇に触れた。一度触れたらもう止まらなくなった。今までほしくて仕方なかった彼を、その唇を侵食していく。

 最初こそ抵抗していたサツキだったが、徐々にその体から力が抜けてきた。ゆっくりと手を緩めても暴れなかったので、その体に体重をかけ彼を抱き締めた。

 耳元で鼻から空気を吸うと、頭の中までサツキの匂いで満たされた。涙が出そうな幸せに包まれる。

 やっと、やっと手にいれた。もう離さない。いつも側にいて大切にする。今までできなかった分まで、これからずっと……

「好きだよ、ずっと一緒に……篤生……」


「……先生、僕、紗月だよ……」


 くったりしていたサツキの四肢が急に固く強ばった。驚いて顔を離すとそのタイミングを見逃すまいと、渾身の力で振り払われた。

 僕は無様にソファから転がり落ち、サツキを見上げた。かけるべき言葉が見つからず、たとえあったとしても僕の舌は凍りついて声など出るものではなかったのだが。

 サツキは僕に視線もくれず廊下に続く玄関に消えていった。動くこともできないず、ソファの下に転がったままドアの閉まる音を聞いた。乱れた足音はどんどん遠くなり、そのうち聞こえなくなった。

 僕は取り返しのつかないことをしてしまった。篤生を救えなかったばかりか、サツキまでも傷つけた。

 僕にはもう、何もない。持っていた大切だったはずのものはみんな指の間からこぼれてしまった。拾おうにも、もともとどんな形だったか、感触だったか、思い出せない。

 ねえ先生。こんな僕、篤生も誉めてはくれないよね。


───汚れた体のくせに優しくてかわいい君を閉じ込めようとした。そうだよ、篤生の代わりなんているわけがないのに。

 浮かれていた。僕の正体を知らない君が逃げないでいてくれるなんて勘違いをした。

 僕は投げ出された形のまま、ラグの上で目を閉じた。閉まったままの大きな窓からは遮られることのない午後の日差しが注ぎ込まれているけれど、それだってもうどうでもいい。

 このまま全て溶けて、消えてしまえばいい。


今日もありがとうございました。

明日もよろしくお願いします♪

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ