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夜は約束通りタモツに会った。
待ち合わせ場所にいつもと変わらない様子で僕を待つタモツに、心は全く騒がなかった。
喜びとも興奮ともつかない感情を抱えた僕には一時の快楽などすっかり色褪せて思えた。
サツキは僕の言葉を聞いたあと固まってしまった。その表情を見て僕は自分の発言を後悔し始めていたけれど、彼はうつむいて、それでもはっきりとした声で考えさせてほしいと言ってくれた。
嬉しかった。サツキの隣を歩ける可能性を、彼自身の手から与えられたのだ。
だから、僕はもうタモツとどうこうしようなんて気分になれなくて、仕方ない、適当に済ませて帰ろうなんて思っていた。
だって、サツキがいるのだから他にほしいものなんてない。たとえサツキに触れることができなくても、そばにいてくれるならそれでいい。僕に笑ってくれるなら、名前を呼んでくれるなら、それで。
「和文さん、こっち」
離れたところから僕を呼んだタモツを見る。いつ会ってもラフな格好をしているから、会社勤めではないのだろう。今日もVネックのTシャツに黒いパンツという学生のような格好だ。着飾っているわけではないのに、背が高いからだろうか道行く女の子が振り返っている。
贔屓目で見てもタモツはいい男だと思う。
Tシャツの上からでもわかる程よく鍛えられた体。クールに見えて意外と優しいところもある。こんなおっさん構っていないで、恋人を作ればいいのに。ああ、本命は別にいるのかもしれないな。
「ごめん、待ったか?」
「ううん、今来たとこ。……ねえ、和文さん。お腹すいてない?」
初めてかもしれない。なぜかタモツと向かい合って酒を飲んでいる。
タモツにお腹が空いていないかと聞かれたとき本当は胸が一杯でなにも入らないほどだったのに、そんなことはじめて聞かれて驚いてとっさに「空いた」と言ってしまった。
タモツが他の酒よりも焼酎が好きなことをはじめて知ったし、生のイカが苦手なことも今日知った。
意外と映画が好きで一人でも見に行くことや、自分ではしないけれどワールドカップの時はサッカー観戦で盛り上がるにわかファンなこと。
一年以上こうして会っているのに、本当にセックスしかしていなかったんだと改めて思った。
僕やタモツのプライベートなことを巧みに交わした会話に僕はすっかり安心して、食べて飲んだ。顔を合わせたときは食事なんて、と思っていたのが嘘みたいだ。
そういえば他人と楽しく会話をしながら飯を食う、などということもあまりに久しぶりでそんな自分の交遊関係の薄さに軽く驚いた。
しかし、本当に驚いたのは、そのあとだった。
店を出るとタモツが「和文さん、終電ヤバいでしょ? 急いで」と小走りになりながら言った。
「え、だってお前……」
「今日の和文さん、そんな気分じゃなかったんでしょ? それでも来てくれて嬉しかった……じゃ、またね」
同じ改札をくぐるのに、タモツは駅の前で僕に手を振って構内に向かって駆け出していった。
足早に去っていくタモツが、なんだか悲しそうに見えたから呼び止めようとして踏み出した。
僕が寂しくてやりきれず、それが人肌を感じることでしか解消できないように、タモツにもそんなことを思うときがあるのかもしれない。今日がそんな日で、もしかして僕が少しは和らげてやることができたのかもしれない。
でも彼の背中はあっという間に終電に吸い込まれていく人の波の中に紛れて消えてしまった。
もしかして呆れられただろうか。約束をしていながら心ここに非ずのような惚けた顔をして、僕をよく知らないはずのタモツに悟られる程の。
なにもしないのに会う理由なんてない。僕たちはそれだけの繋がりだった。お互いのことを何も知らず、ただほんの一時体を重ねるだけの。
もしかしてもうタモツは僕に用はないかもしれない。せっかく時間を割いて会ったのにヤれない男なんて必要ない。今日だってあのまま帰れずに他の相手を探しにいくかもしれない。違う男……いや、女かもしれない。そんなことすら、僕は知らなかった。
胸の奥がじくじくと痛んだような気がしたが、家に帰ってサツキに送るメールのことを考えていたら忘れてしまった。
忘れたと思っていた。
最初の夜から三日と空けずサツキにメールや電話をした。最初こそ緊張していた様子だったが、回を重ねるごとに色々なことを話してくれるようになった。学校のこと、友達のこと。
サツキはあまり交遊範囲が広い方ではないらしく、それは少し意外な感じがした。小学生の頃のサツキはいつも大勢に囲まれている印象だったから。
僕も自分の仕事のことや面白かった本の話、旨いラーメン屋の話などをした。一回りも年の離れた大人の話なんて聞いたって面白くもないだろうに、サツキはいつも熱心に聞いてくれた。
サツキと話をするときいつもこころ踊った。嬉しくて楽しくてそして少し寂しかった。
嫌われてはいないと思う。五年前、彼を拒絶してしまった訳だってもうわかってくれているはずだ。
だけど、会おうとか会いたいとかタモツに言うように素直に言えない僕がいた。会ってしまったら、顔を見てしまったら、箍が外れるような気がする。やはり彼は触れてはいけない神聖なもののように思えた。
怯えさせたり面倒なやつだと思われたくなかった。だから今日も当たり障りのない会話をして電話を切った。
「和文さーん!」
学校が早く終わったある日、家に向かってあるく僕に遠くから名前を呼ぶ声がした。ちょうど信号待ちですこんと抜けた空に目を奪われていた時だった。
青から続く美しいグラデーションはまるで、サツキが小学生の頃、放課後一緒に遊んだ時の空のようで、思わず惹き付けられた。
声の主を探すとそれはタモツで、僕に手を振りながら駆け寄ってきた。飛びかからん勢いで近づいてきたから、軽く振り払ったけれど全く堪えない。誰が見ているかわからないのだ。そんな心配も顧みず、ぐるぐると僕にじゃれつきニコニコしている。
なんか、かわいいな。
こいつが僕のことをどう思っているのかには興味がなかった。少なくとも、あの夜別れるときまではそうだった。
だけど去っていくタモツの背中を見ていた時、もう会えないかもしれないと思ったせいで、偶然会えたことを素直に喜ぶタモツに頬が緩んだ。自分だってまた会えて嬉しかったのだ。タモツが駆け寄ってきてくれて、人混みの中で自分を見つけてくれて。
僕に会えて嬉しいと彼は思ってくれている、その事がこんなに嬉しいと感じるなんて。
「ね、和文さん。今日うち来ない? ご飯作るから」
「え……いや、それは」
「いいじゃん、俺、結構料理得意よ?」
いや、そういうことじゃなくて……。僕はそういう関係になった男の家になんて行ったことがない。もちろん自宅にあげたこともない。そこまで踏み込むことを、踏み込まれる関係を僕は望んでいなかった。
「何にもしないよ。飯食うだけ。それでもダメ?」
「……だってそれじゃあ」
僕と会う意味なんてないんじゃないか? 何のために? どうして?
「和文さんとご飯食べたいからだよー。この間だって楽しかったでしょう?」
ね、とタモツが笑うから僕もご飯だけなら、とついて行くことにした。
タモツの部屋はそこから歩いてすぐのマンションであまりに近くて驚いた。僕の学校も部屋も歩いて数分だ。生活圏は完全に被っているだろう。今までだってすれ違ったりしていたかもしれない。
「適当に座っててー。飲み物何にするー?」
何でもいいよ、と返事をしながら部屋を見回した。シンプルでスッキリした部屋は彼の日常を思わせるものは何もなかった。ソファーとテレビとステレオくらいしかない。
「きれいにしてるんだな」
「うーん、ものが出てると落ち着かないかな。だいたいガラクタはみんな実家においてきちゃったから。テレビでも見ててよ、すぐできるから」
言われた通りにソファに腰を下ろし、普段あまり見ないバラエティー番組をつけた。子供たちが夢中で真似をしている芸人がネタを披露している。オリジナルは初めて見た。
ぼんやりテレビを見ていると、そうはかからずにテーブルにカレーとサラダ、数種類のつまみが並んだ。
「すごいな」
「カレーの日は前の日から準備するから。さ、食べよう」
タモツは、市販のルーだし、と謙遜していたがカレーはとても美味しかった。昨日から準備していたと言っていたが野菜はみんな溶け込んで、肉はホロリと柔らかかった。
うまい言葉で感想が伝えられなかったけれど、タモツはひどく喜んでいた。
そのあとタモツがおすすめだという映画を見ながら、少し酒を飲んだ。考えてみれば僕にはこうしてたいした理由もなく会って、食事をしたり飲みに行ったりという友人はいない。人と会うとき、必ず仕事だったり付き合いだったり、またはセックスだけが目的だったりと理由があった。
ただ、話がしたいから久しぶりだからと声をかける相手がいないということを、今まではなんとも思わなかったけれどタモツとこうしていると少し寂しいことのように感じる。
出会いは少し異常だったかもしれないし、普通の友人では知らないこともお互い知っている。でももしも、タモツが望んでくれるなら、こんな風に友人のようなことを続けられないだろうか。
そんなことを、あまり映画に詳しくない僕に解説をしてくれるタモツの横顔を見ながら思っていた。
そのあと、爆弾を落とされるとも知らないで。
あっという間に時間は過ぎて、電車の時間が怪しくなってきた。本当は徒歩で帰れる距離だけど自宅を特定されたくないから、いつでも、どこで会っても電車を使うようなことを匂わせている。
玄関まで見送ってくれたタモツが、ふと視線をはずし小さく息を吸った。そして吐き出された言葉に僕は目を見開いた。
「あのね、和文さん。二人で会うの、今日で終わりにしよう」
「……え、なんで」
「……んー、和文さん、好きな人いない? 本当はこの間会ったとき、駅前のカフェでデートしているところ見ちゃったんだ。あの日の和文さん、俺と会ってもぼんやりしてたし。そりゃ、そうだよね。本命ができたなら言ってくれればよかったのに」
タモツは靴を履き終えた僕の足元をじっと見ながら、淡々と言葉を紡ぐ。
「それにね、実はさっき和文さんに声かけたとき、その子が近くにいたんだ。見られてるって知ってて俺、わざと和文さんに抱きついた。嫉妬、した」
「タモツ……」
「いいんだ、俺、和文さんの特別になりたいなんて思ってないよ。だけど片方がこんな感情持っちゃったら、こういう関係は続かない。ちょうど潮時だったんだよ」
僕は何も言えなくて、タモツの逸らされた視線の先を追いかけた。そんなところに答えは書いていない。
「今日までありがとう。幸せになるといいね」
なんの返事もできないまま、シルバーの重いドアを開け外に出た。ドアの閉まる音に振り返るともうタモツの姿はない。
今日が最後だっていうのに、指一本触れられなかった。仮に恋人ができたのだとしたって、そんなことを気遣い合うような間柄だったのだろうか、僕たちは。
すっかり夜に飲み込まれた街を一人で歩き、どういうわけだか痛いくらい悲しかった。
明日も23時頃お目にかかります。